いつでも、とは言わない
大広間に入ると、楽師たちの曲が、ちょうど終わったところだった。
ヘートヴィヒ様が、私の背中にそっと手を添えた。それから、ご自分は一歩下がった。広間の真ん中に、閣下と私だけが残った。
閣下が、手にしていたグラスを、指で一度だけ軽く鳴らした。広間の話し声が、すうっと引いていった。
閣下は、話が短い。木曜の小客間でのお話も、いつも一言か二言だ。今夜も、たぶん、そうだろう。
「今夜は、来てくれて礼を言う」
閣下は、広間をひと回り見渡した。暖炉のそばの男爵、柱の陰の子爵夫人、扉の近くのお席の方々。それから、私を見た。
「この家は、長く客を迎えなかった。それを、この人が開けた」
広間の奥のほうで、誰かの喉がこくりと鳴った。
「この家の在宅日は、木曜だ」
そこで閣下は、一呼吸ぶん黙った。
「いつでも、とは言わない。木曜に来てくれ。この人がいる」
一瞬、広間が静まり返った。
それから、暖炉のそばで、男爵が手を叩いた。続いて子爵夫人の扇が閉じる音がして、拍手が、広間の端から端まで広がっていった。
(いつでも、とは、おっしゃらないのね)
私は、胸の前で手を組んだ。
広間の端で、父が、拍手をしながら、少しだけ困ったような顔をしていた。
拍手のあと、お客様方が次々に、私と閣下のところへお祝いを言いにいらした。
「木曜は、こちらへ伺いますぞ。次はボッケも連れて」
男爵が杖で床を鳴らすと、子爵夫人が扇の陰で笑った。
「わたくしも。柱の陰のお席を、取っておいてくださる?」
お祝いの列が途切れたところで、閣下が私の耳元で、低く言った。
「君の母上と姉上は、侯爵家か」
「はい」
「そうか」
閣下は、広間を見渡した。それから、真面目な顔のまま言った。
「では、今夜は、私たちが留守番だな」
こらえきれずに、笑いがこぼれた。こぼれてから、扇を持っていないことを後悔した。
◇
拍手がおさまったころ、玄関の広間のほうで、また馬車の音がした。
マウリッツが、大広間の戸口に現れた。少しだけ、目を見開いていた。
「クローネンベルフ侯爵家の、ティネケお嬢様がお見えでございます」
広間の話し声が、もう一度、別の調子でざわめいた。侯爵家のお嬢様は、今夜は母君の夜会で、お客様を迎えているはずの方だ。
戸口に、淡い黄色のドレスのティネケ様が立っていた。年配の侍女を一人だけ連れて、頬を真っ赤にして。
私は、広間を横切って、ティネケ様の前へ行った。
「ようこそいらっしゃいました、ティネケ様」
「あの……遅くなりまして。母には、少し気分が悪いと申して」
ティネケ様の言葉は、そこで途切れた。
「お席は、空けてございます。こちらへ」
私がご案内した席の隣で、近衛の礼装の若い士官が、慌てて立ち上がった。ヨーリス様は、何か申し上げようとして言葉にならず、ただ深く礼をした。ティネケ様も、扇で顔を半分隠したまま、膝を折った。
お二人とも、耳まで赤かった。
◇
そのあとも、遅れてお着きになる方が、何人かいらした。
「侯爵家の前を通ってまいりましたが」
遅れてきた年配の殿方が、外套を脱ぎながら、愉快そうに言った。
「門の灯りは、それは見事でしたよ。ただ、窓から見える広間は、楽師のほうが多うございましたな」
近くの方々が、扇の陰で笑った。
暖炉のそばでは、父が、すっかり上機嫌になっていた。公爵家の広間で、閣下の母君と同じお茶を飲んでいるのが、よほど嬉しいらしい。父は隣の方へ、王宮の廊下と同じ調子で話しかけた。
「いや、我が家にも、いつでもお越し――」
言いかけて、周りの方々の顔を見て、父は口をつぐんだ。誰も、笑いはしなかった。けれど、誰も、続きを待ってはいなかった。
父は、咳払いをして、お茶を飲んだ。
◇
ヘートヴィヒ様が、お客様方の前で、私の手を取った。
「皆様。この子が、この家の女主人になる人よ」
王陛下の姉君の声は、少しも大きくなかった。それでも、広間の隅まで届いた。
夜が更けても、お客様は帰らなかった。扉の近くのお席の方々も、結局、一人も侯爵家へ回らなかった。
真夜中を過ぎて、最後のお客様をお見送りした。玄関の扉を閉めたのは、私だった。
閉めた扉に手を置いたまま、私は少しのあいだ、そこに立っていた。
「君が扉を閉めるのを見ていたら、この家に帰ってきた人のように見えた。おかえり、と言いそうになった」
後ろで、閣下が言った。
振り返ると、閣下は燭台の灯りの下で、少しだけ困った顔をしていた。
「ここは、まだ私の家ではございません」
「まだ、な」
閣下は、そう言って、私の外套を取りに行った。




