誰も来ない木曜【アデーレ視点】
今日こそ、わたくしたちで木曜のお客様をお迎えするのよ。
リーケを乗せた馬車が、門の外へ消えた。わたくしは、それから居間へ戻った。
段取りは、昨夜のうちに決めてあった。マルグリートは竪琴の前に。夫は、新聞ではなく本を持って窓際に。お客様がいらしたら、ベルトラムが居間へお通しする。お茶は、ネルが。何を入れるかは――
わたくしは、机の端の紙を開いた。あの子の書き付けだ。夏のあいだに、何度も読んだ。ドルン男爵様は濃いめ。子爵夫人は窓から遠い椅子。地方の方には道中の話。四時の鐘が鳴ったら、お帰りの時刻を。
(覚えたわ。もう、困らない)
紙を畳んで、ドレスの隠しに入れた。
「ネル。濃いめのお茶を、いつでも出せるようにしておいて。それから、焼き菓子の端を割ったものを小皿に」
「はい、奥様」
ネルは、少しだけ不思議そうな顔をして、台所へ下がっていった。
◇
二時の鐘が鳴る、少し前のことだった。
窓から、通りを見た。向かいの門が開いて、男爵が出てきた。足元に、茶色い小さな犬。ボッケ、という名だと、わたくしはもう知っている。
男爵は、うちの門の前で、一度だけ足を止めた。こちらの窓を見上げて、帽子のつばに指をかけた。それから、そのまま通りを王宮のほうへ歩いていった。ボッケが、名残惜しそうに一度だけ振り返った。
(王宮のほう)
公爵家のお屋敷は、王宮の近くにある。
二時の鐘が鳴った。
わたくしは居間の椅子に座り直し、膝の上で両手を組んだ。マルグリートが、竪琴の弦を一本ずつ確かめている。夫は、本の同じ頁を開いたままだった。
いくら待っても、呼び鈴は鳴らなかった。マルグリートが弾き始めた曲は、途中で止まった。
「お母様。皆さん、今日はお忙しいのではなくて」
「秋の最初のころは、どこのお宅も忙しいのよ」
自分で言っていて、そうではないことは分かっていた。先週の木曜には、呼び鈴は何度も鳴ったのだ。お客様は皆、玄関で同じことをベルトラムに聞いた。下のお嬢さんは、いらっしゃいますか。
今日は、下のお嬢さんは、いない。
◇
呼び鈴が鳴ったのは、ずいぶんたってからだった。
わたくしは、思わず立ち上がった。マルグリートも、竪琴から手を離した。
ベルトラムが居間の戸口に現れた。手にした盆に、細長い封筒が一つ載っていた。
「仕立て屋からの使いでございます。夏のお召し物のお勘定を、とのことで」
「……仕立て屋? 在宅日に、お客様でもない仕立て屋が?」
「旦那様が、先日のお手紙に、いつでもお越しください、とお書きになりましたので、と。木曜の午後なら当家は在宅している、とも」
夫が、本から顔を上げた。
「うむ。書いたな」
わたくしは、夫の顔を見た。夫は、どこがおかしいのか見当もつかない顔をしていた。
盆の上の封筒を受け取った。仕立て屋の使いの話を、これまでは誰が聞いていたのだろう。考えて、すぐに分かった。木曜に家にいた子だ。
◇
台所のほうから、甘い匂いが流れてきた。胡桃を炒ったような匂いだった。
ネルが、焼き菓子を一皿運んできた。誰も来ないのに、皿の上には山のように盛られていた。
「ミーナが焼いたの? 今日はリーケもいないのに」
「はい、奥様。留守番の日には焼くことになっております、と申しておりました」
留守番の日。
わたくしは、皿から一つ取った。焼きたてで、まだ温かかった。口に入れると、胡桃がほろりと崩れた。
あの子は、木曜のたびに、これを食べていたのだ。わたくしたちが、よそのお宅の茶会で、よそのお宅のお菓子をいただいているあいだに。
二つ目には、手を伸ばさなかった。
◇
四時の鐘が鳴った。
お帰りの時刻でございます、と言う相手は、一人もいなかった。わたくしは隠しの中の紙に指で触れた。四時の鐘が鳴ったら、お帰りの時刻を。言わないと、皆様いつまでもいらっしゃる。
いつまでもいる人どころか、誰も来なかった。
マルグリートが、竪琴の弦を、端から一本ずつ緩めていった。夫は本を閉じて、書斎へ行ってしまった。ネルが、濃いめのお茶の入ったポットを、誰にも注がないまま台所へ下げていった。
◇
夕方、玄関の扉が開いた。
リーケが、ヘッダを連れて帰ってきた。外の冷たい空気と一緒に、知らない屋敷の匂いがした。
わたくしは、玄関の広間に出ていた。何を言うつもりで出てきたのか、わたくしにも分からなかった。
「……どうだったの」
「皆様、いらっしゃいました」
リーケは、手袋を外しながら答えた。
皆様、と、わたくしは口の中で繰り返した。男爵も、子爵夫人も、あの南の生まれの若い夫人も。
誰が来たのか聞こうとして、わたくしは聞けなかった。聞けば、その名前を全部、知ってしまう。
来週の木曜も、わたくしは家にいるのかしら。
自分に聞いて、答えられなかった。




