何年も閉めていた扉
公爵家の王都のお屋敷を訪ねたのは、その次の週の初めだった。
ヘッダの付き添いで、迎えの馬車に乗った。王宮の塔が近くに見える通りに、背の高い鉄の門があった。門番が、表の大きな門扉を開けるのに少し手間取った。ふだんは脇の小さな門しか使っていないのだという。蝶番が、長く動かしていなかった音を立てた。
玄関の広間は、ローゼンダール家の広間とは比べものにならなかった。そして、静かだった。
広間の家具という家具に、白い布が掛けてあった。壁際の長椅子も、飾り棚も、大きな時計も。高い窓から差し込む光の中で、細かな埃がゆっくりと舞っていた。
「このようなありさまで、申し訳ございません」
白い髪をきちんと撫でつけた家令が、深く頭を下げた。マウリッツという名で、先代の公爵様の頃からこの屋敷に仕えているのだという。
「お客様をお迎えするのは、久しぶりでございまして。作法を、忘れかけております」
「私は、お客様ではございませんわ」
口をついて出た言葉に、自分で驚いた。マウリッツは白い眉を少し上げてから、もう一度頭を下げた。
客間に通された。暖炉には、長く火が入っていないらしかった。窓際に、布の掛かっていない椅子が一つだけあった。
(閣下のお椅子かしら)
そう思っていると、奥の扉が開いて、ヘートヴィヒ様が入っていらした。海辺の館で見たときよりも、少しだけ背筋が伸びて見えた。
「いらっしゃい、リーケ。ひどいでしょう、この家」
「風を、通さないといけませんね」
「あなたも、そう思う?」
ヘートヴィヒ様は、布の掛かった長椅子をぽんと叩いた。埃が舞い上がって、ヘッダが小さく咳をこらえた。
「主人が亡くなってから、この家はお客様をお迎えしなくなったの。息子が住んではいるけれど、客間も広間も布を掛けたきり。息子は夜会にも出ないし、わたくしは海辺に引っ込んでしまったし。社交界の名簿の、この家の在宅日の欄は、もう何年も空いたままよ」
ヘートヴィヒ様は、窓際の椅子に目をやった。
「披露の前に、この家の扉を開けます。在宅日を置くわ。週に一度、わたくしがここで客を迎える。あなたは、わたくしの隣に座っていて」
「私が、ですか」
「嫁ぐ前に、相手の家の女主人の隣で客を迎えるのは、昔からの習いよ。その家の客の顔を覚えるためにね。もっとも」
ヘートヴィヒ様は、少しいたずらっぽく笑った。
「この家には、覚えるほどの客が、まだ一人もいないのだけれど」
それから私たちは、客間をひと回りした。
窓を開けると、通りの音と一緒に、乾いた秋の風が入ってきた。私は、ローゼンダール家の小客間を思い浮かべながら、椅子の置き場所を一つずつ見ていった。暖炉のそばには、背もたれの高い椅子を。足の悪い方が座ってから立ち上がるとき、つかまるところが要る。窓際の明るい側には、若い方の椅子を。日の当たる側を嫌う方もいらっしゃるから、窓から遠いところにも、いい椅子を一つ。
気がつくと、マウリッツが手帳を出して、私の言うことを書き取っていた。
「……お嬢様は、いつもこのように」
「木曜のお客様は、座る椅子がだいたい決まっていますの。最初の一度で、どの椅子がお好きか分かります」
マウリッツは書き取る手を止めて、私の顔を見た。ヘートヴィヒ様は、何も言わずに、窓辺で扇を使っていた。
◇
閣下が客間に入っていらしたのは、マウリッツが白い布を一枚ずつ外し始めたころだった。
「母上。在宅日の話は」
「今、したところよ。何曜日にしようかしら。月曜は、王宮の謁見があるでしょう。水曜は――」
「木曜だ」
閣下が、迷いなく言った。
ヘートヴィヒ様が、閣下を見た。
「どうして」
「私の木曜は、もう決まっている」
ヘートヴィヒ様は、しばらく息子の顔を見ていた。それから私のほうを見て、ふっと笑った。
「そう。では、木曜ね」
マウリッツが、外した布を抱えたまま、小さく頷いた。
(木曜)
私は、膝の上で手を握った。
木曜にこのお屋敷にいるということは、木曜にローゼンダール家にいない、ということだ。木曜の午後、私は家にいない。留守番をしない。
生まれて初めて、私は木曜に出かける側になる。
◇
その晩、私は居間の母に申し上げた。
「お母様。公爵家が、在宅日を木曜に置かれます。私は、ヘートヴィヒ様のお隣で、お客様をお迎えすることになりました」
母は、刺繍の枠から顔を上げた。
「木曜に、あなたが出かけるの?」
「はい。お母様、木曜の留守番を、お願いします」
母は答えなかった。針を持った手が、刺繍の枠の上で止まっていた。
居間の机の端に、畳んだ紙が一枚置いてあった。私の書き付けだった。夏のあいだに何度も開いては畳んだのか、折り目が柔らかくなっていた。
◇
九月の二度目の木曜の朝、私は玄関の広間に立った。
出かける支度をして、手袋をはめて。ヘッダが、後ろに控えている。門の外で、公爵家の馬車が待っている。
居間の扉が開いて、母が出てきた。姉は、居間の中の竪琴の前にいた。父は、新聞を持ったまま戸口に立っていた。
家族が、玄関で私を見送る。
「いってまいります」
何度も聞いてきた言葉だった。自分で言ったのは、海辺へ発った朝が初めてで、今日が二度目だ。口にすると、聞いていたときより、ずっと重い言葉だった。
母は、玄関の扉のところに立っていた。扉が閉まる前に、母の唇が、何か言いかけて動いた。




