おかえりなさいませ、お嬢様
夏の終わりに、私は王都へ戻った。
婚礼までは、ローゼンダール伯爵家が私の家だ。海辺から何日も馬車に揺られて、見慣れた門の前に着いたのは、日の傾きかけたころだった。
閣下は馬車を降りて、玄関の段の下まで私を送ってくださった。
「木曜に来る」
「はい。お待ちしております」
(お待ちしております、なんて、前は言ったことがなかったわね)
扉が内側から開いた。ベルトラムが、いつもの黒い上着で立っていた。
「おかえりなさいませ、お嬢様」
私は、玄関の段の上で立ち止まってしまった。
この家の玄関で、その言葉を言うのはいつも私だった。言われる側に立ったのは、初めてだった。
「……ただいま、ベルトラム」
「お荷物は、お部屋へ運ばせます。ミーナが、胡桃を炒っております」
ベルトラムの声は、いつもと少しも変わらなかった。変わらないことが、ありがたかった。
玄関の広間には、母が立っていた。手袋はしていなかった。
「……戻ったのね」
母はそれだけ言って、居間のほうへ戻っていった。母の手に、畳んだ紙が一枚握られているのが見えた。私がベルトラムに預けていった、あの書き付けだった。
◇
秋の季節が始まっても、家に届く招待状は少なかった。
朝の銀の盆は、姉の分も母の分も軽いまま、テーブルを行き来した。私の盆にだけ、手紙が何通も載った。夏のあいだに届いていた、お祝いの手紙の続きだった。
ある晩、母が夕食の席で言った。
「今度の木曜は、家族みんなで家にいるわよ」
父が、スープの匙を止めた。
「みんなで、かね」
「そうよ。うちは木曜が在宅日なんですもの。今度はわたくしたちが家にいて、お客様をお迎えするの」
母は姉のほうを見た。
「マルグリートも居間にいなさい。竪琴を出しておいて。お客様は、いらっしゃるわ」
姉は黙って頷いた。夏のあいだに、少し痩せたように見えた。
(お母様が、在宅日を守ると言い出す日が来るなんて)
私は、自分の皿の上の魚を見ていた。
◇
九月の最初の木曜、家族は朝から家にいた。
母は居間の暖炉の前の椅子に、姉は竪琴の前に、父は窓際で新聞を広げた。誰も、出かける支度の服は着ていなかった。居間の扉は、玄関の広間へ向けて大きく開けてあった。
私は、いつもどおり小客間にいた。
二時の鐘が鳴って、少しして、呼び鈴が鳴った。
居間で、母が立ち上がる気配がした。玄関の扉が開き、ベルトラムの声と、杖の音がした。
「これはこれは。下のお嬢さんは、お戻りですかな」
ドルン男爵だった。足元で、ボッケが尻尾を振っている。
母が、玄関の広間まで出ていった。
「まあ、男爵様。ようこそ。どうぞ居間へ。主人もおりますのよ」
「これはご丁寧に、奥様。いや、今日は下のお嬢さんから、海の土産話を聞かせていただこうと思いましてな」
男爵は帽子を上げて、まっすぐ小客間へいらした。暖炉のそばの、背もたれの高い椅子に座ると、ボッケが私の靴に鼻をつけた。
「ボッケ、元気だった?」
私が焼き菓子の端を割ると、ボッケは一番いい顔をした。ネルが、言われる前に濃いめのお茶を運んできた。
呼び鈴は、続けて鳴った。
ファン・ホーフ子爵夫人。春に一度お茶をお出しした、南の生まれの若い夫人。図書室の本を借りていった、近衛の若い士官。どなたも、玄関の広間でベルトラムに同じことを聞いた。
「下のお嬢さんは、いらっしゃいますか」
母は、そのたびに玄関の広間へ出ていって、居間へどうぞ、と言った。そのたびに、お客様は丁寧にお礼を言って、小客間へいらした。
居間から、竪琴の音が流れてきた。姉が、いちばん得意な曲を弾いている。
小客間のお客様たちは、話を止めなかった。子爵夫人は窓から遠い椅子で、若い夫人は道中の話の続きを、士官は借りていった本の話を。
曲が終わっても、居間から拍手は聞こえなかった。
◇
四時の鐘が鳴る少し前に、もう一度呼び鈴が鳴った。
居間で、母が勢いよく立ち上がった。玄関の広間へ、急ぐ足音。
「閣下! ようこそお越しくださいました。今日は、わたくしどもも、家族そろって――」
「閣下、いつもの小客間でございますね」
ベルトラムが、母の言葉に重ならないように、けれど少しも遅れずに言った。
「ああ。いつもの部屋で頼む」
閣下が、小客間の戸口に立った。部屋じゅうのお客様たちが、椅子から腰を上げて頭を下げた。閣下は、少し驚いたように部屋を見回した。
「……今日は、混んでいるな」
「木曜ですので」
閣下は、空いていたいつもの椅子に座った。ネルが、レモンのお茶を運んできた。
四時の鐘が鳴った。
「皆様、お帰りの時刻でございます」
お客様たちが笑って立ち上がり、一人ずつ私に挨拶をして帰っていった。最後に残った閣下が、カップを置いた。
「母が、王都へ出てくる」
「ヘートヴィヒ様が」
「屋敷の扉を、客に開けると言っている。何年も閉めていた扉を」




