おかえり
王都の門を出たのは、生まれて初めてだった。
馬車は何日もかけて南へ下った。窓の外の畑の色が少しずつ変わり、宿の食事に魚が出るようになり、風に、知らない匂いが混じり始めた。閣下は向かいの席で書類を読んでいらしたけれど、私が窓に顔を寄せるたびに、何が見えるのかを短く教えてくださった。あれは塩田だ。あれは、灯台守の家へ荷を運ぶ道だ。
最後の丘を越えたところで、閣下が窓の覆いを上げた。
海は、巻貝の音よりずっと大きかった。
空の下の端から端までが、光って揺れていた。晴れた日には緑に近い色になる、と閣下がおっしゃっていたのは本当だった。波の音は車輪の音より大きくて、耳に当てなくても聞こえた。
私は、しばらく何も言えなかった。隣のヘッダも黙っていた。窓枠をつかむヘッダの手に、力が入っているのが見えた。
「どうだ」
「……巻貝より、少し大きゅうございます」
閣下は、肩だけで笑った。
◇
夏の館は、浜から坂を少し上がったところにあった。
白い壁に青い鎧戸で、窓という窓が海のほうを向いている。坂道を上った先の戸口に、背の高いご婦人が立っていた。銀の混じった砂色の髪を、ゆったりと結い上げている。閣下と同じ、灰色の目をしていた。
「いらっしゃい」
閣下の母君の、ヘートヴィヒ様だった。王陛下の姉君にあたる方で、この館の女主人だ。
私が膝を折ると、ヘートヴィヒ様は私の手を取って、顔をのぞき込んだ。
「あなたが、留守番の方ね」
「はい。リーケと申します」
「息子の手紙は、一行しかなかったのよ。通っているのは、留守番をしている妹のほうです、って。それだけ。あの子が一行で済ませるときは、大事なことなの」
ヘートヴィヒ様は、横に立っている閣下をちらりと見た。閣下は、海のほうを見ていた。
「秋には、王都の屋敷で披露をしましょうね。あの屋敷も、もう何年もお客様を迎えていないから。客間に風を通さないと」
その日の夕方、近くの網元の奥様が、館へご挨拶にいらした。私が思わず腰を浮かせると、ヘートヴィヒ様は笑って、私の膝を軽く叩いた。
「あなたは、お客様よ。座っていらっしゃい」
お客様、と言われて、私はどこに手を置けばいいのか分からなくなった。
通された部屋の窓は、岬のほうを向いていた。
夜、寝台に入る前に鎧戸を少し開けると、暗い海の向こうで、小さな灯りがゆっくりと回っていた。灯りは岬の先から沖のほうへ向きを変え、しばらくするとまた戻ってきた。
航路記の最後の章の、あの灯台だった。夜の船は、あの灯りを見て、帰ってきたと思うのだという。
本に書いてあることは、本当にあった。私はそれを、自分の目で見ていた。
◇
館に着いてから、何度目かの午後だった。私はヘッダを連れて、浜へ下りた。
つばの広い帽子を押さえながら、波の届かないところを歩いて、貝殻を拾った。白いもの、薄紫のもの、縞のあるもの。王都から持ってきた巻貝と同じ種類のものも、一つ見つかった。白くて、口のところだけが淡い桃色をしている。
ヘッダは、靴を脱いで手に持ち、波の引いた砂の上に立っていた。足の甲に寄せてくる水を、黙って見下ろしていた。
「ヘッダ、冷たい?」
「……はい、お嬢様」
ヘッダの声が、少しだけ笑っていた。
拾った貝をハンカチに包んで坂を戻っていくと、館の戸口に人影があった。閣下だった。
「おかえり」
私は、坂の途中で足を止めた。
物心ついたころから、あの家の玄関でその言葉を言うのは、いつも私だった。いってらっしゃいませ。おかえりなさいませ。今日は何々様がいらっしゃいました。言ってもらったことは、一度もない。私は、いつも家にいたのだから。
「……ただいま、帰りました」
声に出してみると、あっけないほど短かった。こんなに短い言葉を、私は一度も言わずにきたのだ。
「今日は、私が留守番だった」
閣下の眉が、困ったように少し下がった。
「難しいものだな。君が帰ってくるまで、何も手につかなかった」
「お茶は、召し上がりましたか」
「一杯も」
私は、拾った巻貝を、閣下の手のひらに載せた。王都の小客間で、閣下が私にくださったのと、同じ種類の貝だ。
閣下は貝を耳のそばへ持っていって、しばらくじっとしていた。それから、真顔で言った。
「確かに、海の音だ」
すぐ背中で、本物の海が鳴っているというのに。
私は笑い出してしまって、それから、閣下の腕にそっと手を添えた。
「では、お茶を淹れましょう。浜のお話をいたします。留守番をしていた方には、土産話が要りますから」




