出かける予定が一つもない木曜【アデーレ視点】
出かける予定が一つもない木曜なんて、いつ以来かしら。
公爵家の馬車が門を出ていってから、わたくしはしばらく玄関の広間に立っていた。立っていても仕方がないので、居間へ戻った。マルグリートは朝から部屋にこもったきりで、夫は書斎で新聞を読んでいる。どちらも、今日は出かける先がない。
居間の机には、マルグリートの予定表が開いたままになっていた。今週の欄は白い。来週の欄も白い。
(留守番なんて、あの子にずっとさせていたことよ。家にいて、座っていれば済むことだわ)
わたくしは小客間へ行って、窓際の椅子に座ってみた。あの子がいつも座っていた椅子だ。座ってみると、庭の低い垣根越しに、通りがよく見えた。向かいの男爵家の門も、角を曲がってくる馬車も。
二時を過ぎたころ、呼び鈴が鳴った。
◇
ベルトラムが案内してきたのは、向かいのドルン男爵だった。足元に、茶色い小さな犬を連れている。
「おや」
男爵は、窓際のわたくしを見て、白い眉を上げた。
「これは、奥様が。下のお嬢さんは」
「海へまいりましたの。公爵閣下の母君の、夏の館へ」
「それは良かった」
男爵は心から嬉しそうに言って、わたくしの向かいの椅子に腰を下ろした。帰るつもりは、なさそうだった。
さて、お茶だわ、と思った。この方はお茶に何を入れるのかしら。砂糖か、ミルクか、レモンか。考えてみれば、男爵とお茶を飲むのは初めてだった。
わたくしが口を開くより先に、女中のネルが盆を運んできた。濃く淹れたお茶が一杯と、胡桃の焼き菓子が一皿。ネルは焼き菓子を一つ取って端を小さく割り、黙って犬の前に置いた。犬は尻尾を振った。
「ああ、これこれ」
男爵は濃いお茶をすすって、目を細めた。
「下のお嬢さんは、こいつの名前まで覚えていてくださいましてな。ボッケ、と呼ぶと、こいつが一番いい顔をする」
わたくしは、その犬の名前を知らなかった。向かいに住む男爵の犬で、毎日家の前を通っているはずなのに。
◇
男爵がおかわりを飲んでいるあいだに、また呼び鈴が鳴った。
今度は、見たことのない若い夫人だった。地方から王都へ出てきたのは、この春なのだという。名簿を見て、在宅日の木曜に伺ったのだと、緊張した顔で言った。
「下のお嬢様に、春に一度お茶をいただきまして。ご婚約と伺って、お祝いを申し上げたくて」
「娘は、今日は出かけておりますの」
「まあ。どちらへ」
「海辺の……公爵家の、夏の館へ」
「南の、どちらの浜でしょう。わたくし、南の生まれなものですから」
わたくしは答えられなかった。館のある浜の名前を、聞いていなかった。何日の旅で着くのかも、いつ帰ってくるのかも。
若い夫人は、気の毒そうに微笑んで、話を変えてくださった。王都までの道中の話だった。わたくしは相槌を打ちながら、この方とあの子は春に何を話したのだろう、と考えていた。
◇
若い夫人が帰ったあと、ベルトラムが小客間に入ってきた。上着の内側に手を入れて、小さく畳んだ紙を取り出した。
「リーケお嬢様から、奥様がお困りの折にと、お預かりしておりました」
開くと、あの子の字が並んでいた。
ドルン男爵様は濃いめのお茶、焼き菓子の端を少しだけ犬に。ファン・ホーフ子爵夫人は窓から遠い椅子、日の当たる側だとお顔の白粉を気になさる。地方からいらした方には、まず道中のお話を。四時の鐘が鳴ったら、お帰りの時刻を申し上げること。言わないと、皆様いつまでもいらっしゃる。
いちばん下に、一行だけ、ほかと少し間を空けて書いてあった。
お母様のお茶は、ミルクを先に。
わたくしは、紙から目を上げた。部屋の隅で、ネルが空いたカップを片づけていた。
「ネル」
「はい、奥様」
「リーケは、お茶に何を入れるの」
ネルは、カップを持ったまま少し考えた。
「お嬢様は、何もお入れになりません。いつもお客様の分を先にお淹れになって、ご自分の分は最後に、冷めてから召し上がります」
「……そう」
わたくしは、それしか言わなかった。
四時の鐘が鳴った。男爵は、まだ窓際の向かいの椅子に座っていた。空いたカップに、また手を伸ばそうとしていた。
わたくしは紙をもう一度見た。それから、咳払いをした。
「男爵様。……お帰りの時刻で、ございますわ」
男爵は、目を丸くした。それから、楽しそうに膝を叩いた。
「いや、奥様に言われたのは初めてですな」
◇
夕方になっても、誰かを迎えに玄関へ出る用事は、一度もなかった。
誰も出かけていないのだから、誰も帰ってこない。わたくしが「おかえりなさい」と言う相手は、今日は一人もいなかった。
居間の机で、マルグリートの予定表の、来週の木曜の欄を開いた。何か書こうとして、ペンを持ったまま、何も書けなかった。




