留守番をお願いしますね
婚約の書面に署名した日のことを、閣下は次の木曜に話してくださった。
「伯爵は、約束の時刻より早く来た」
「はい。ベルトラムから聞きました。父が書斎で、母にそう話していたそうです」
「玄関で待っていた。ヤンが見つけたときには、もう帽子を手に持っていた」
閣下はカップにレモンを沈めながら、口の端をわずかに動かした。
「伯爵が、言ったとおりの時刻に、言ったとおりの場所にいたのを見たのは、初めてだ」
(それは、たぶん私も初めてです)
とは言わずに、私はお茶のおかわりを注いだ。
夜会のあとも、木曜は変わらずに来た。変わったのは、家族が家にいるようになったことだ。招待状が減って、出かける先がなくなったのだと思う。木曜の午後、母と姉は居間に座って、呼び鈴が鳴るのを待つようになった。
呼び鈴は、前よりもよく鳴った。お祝いを言いにいらしたお客様たちだった。そしてどなたも、玄関の広間でベルトラムにこう聞いた。
「下のお嬢さんは、いらっしゃいますか」
ベルトラムはそのたびに、お客様を小客間へお通しした。居間の扉は開いていたけれど、そちらへ寄っていかれる方は、ほとんどいなかった。
一度だけ、母が玄関の広間まで出ていって、ファン・ホーフ子爵夫人をお迎えしたことがある。
「まあ、子爵夫人。ようこそ。居間へどうぞ、マルグリートもおりますのよ」
「ご親切に、奥様。でも、今日は下のお嬢さんにお祝いを申し上げに伺いましたの。お顔だけ拝見したら、すぐに失礼いたしますわ」
子爵夫人はにこやかにそう言って、母の脇を通り、まっすぐ小客間へいらした。窓から遠い椅子に座り、私の淹れたお茶を一杯召し上がって、四時の鐘より前にお帰りになった。母は、玄関の広間に立ったままだった。
◇
六月の最後の木曜、閣下は帰り際に、戸口で振り返った。
「海を見たいと言ったな」
「はい」
「夏は、母が海辺の館にいる。母が、君の話を聞きたいと言っている。館の女主人は母だから、君は母の客として来ればいい。付き添いに、ヘッダを。伯爵には、署名の日に話してある」
(お父様からは、何も伺っていないけれど)
部屋の隅で、ヘッダが繕い物を膝に置いたまま顔を上げた。ヘッダが小客間で顔を上げるのは、珍しいことだった。
「七月の最初の木曜に、迎えに来る」
「木曜に、ですか」
「木曜は、君に会いに行く日だ」
閣下は、それが決まりきったことのように言って、帽子をかぶった。
(会いに来て、そのまま連れていかれるのね)
この家の玄関で、私が見送られる側になる。考えてみたこともなかった。
◇
手紙はもう一通、王立学院の寄宿舎から届いた。従弟のウィレムからだった。
ウィレムは父の弟の息子で、この家にはほかに男の子がいないので、いずれローゼンダール伯爵家を継ぐことになっている。お祝いの言葉のあとに、少し右に傾いた字で、こう書き添えてあった。
伯父上が家にいるようになったと聞いて、驚いています。
(私も、驚いているわ)
返事に何と書こうか考えて、結局、お祝いのお礼だけを書いた。
◇
荷造りは、ヘッダが手伝ってくれた。
私は、旅の鞄というものを詰めたことがなかった。家族の鞄なら、何度も詰めるのを手伝ったことがある。姉の日傘、母の膝掛け、父の眼鏡の替え。けれど自分の鞄に何を入れればいいのかは、少しも分からなかった。
「お嬢様、海辺は日差しが強うございます。帽子を、つばの広いものを」
「ヘッダは、海へ行ったことがあるの?」
「ございません」
ヘッダは短く答えて、帽子の箱の蓋を閉めた。
最後に、窓辺の巻貝を、柔らかい布にくるんで鞄の隅に入れた。本物の海の音と、比べてみたかった。
◇
発つ前の晩、私は小客間の机で、一枚の紙に書き物をした。
木曜にいらっしゃるお客様の、お好みの書き付けだった。ドルン男爵様は濃いめのお茶、焼き菓子の端を少しだけ犬に。ファン・ホーフ子爵夫人は窓から遠い椅子、日の当たる側だとお顔の白粉を気になさる。地方からいらした方には、まず道中のお話を。四時の鐘が鳴ったら、お帰りの時刻を申し上げること。言わないと、皆様いつまでもいらっしゃる。
書き終えた紙を、ベルトラムに預けた。
「お母様がお困りになったら、お渡ししてくれる?」
「奥様に、直接ではなく」
「お母様は、私の渡したものは読まないから」
ベルトラムは何も言わずに、紙を受け取った。それから、一度だけ目を落とした。紙のいちばん下に、私は一行足してあった。
お母様のお茶は、ミルクを先に。
「確かに、お預かりいたしました」
ベルトラムは紙を畳んで、上着の内側へしまった。
◇
七月の最初の木曜の朝、玄関の広間に、母が立っていた。
手袋をはめていなかった。外出用のドレスでもなかった。今日は、出かける予定が一つもないのだという。姉は二階から下りてこなかった。父は書斎にいた。
門の前に、公爵家の紋の入った馬車が停まっている。ヘッダが旅の鞄を提げて、私の後ろに立った。
私は、母の前で膝を折った。
「いってまいります。お母様、留守番をお願いしますね」
母は、何か言いかけた。唇がかすかに動いたけれど、声にはならなかった。
私の知る限り、母がこの玄関で、出かける家族を見送るのは、それが初めてだった。
閣下の手を借りて、馬車に乗り込んだ。馬車が動き出し、門を出るところで、私は窓から振り返った。
玄関の扉のところに、母がまだ立っていた。




