第九章 闇夜のスイープ・ルート
ぼくは手帳を開いた。最初のページから、ゆっくりと、最後のページまで。雨の中で、自分が何者だったかを、もう一度確かめるために。
夜半、雨は止んだ。雲の隙間から、痩せた月が顔を出した。廃墟の柱の根本で、ぼくは合羽の内側から手帳を取り出した。
最初のページを開いた。
日付は、三年前。新人歓迎の日だった。班長が「君も、これに自分の動線を書きなさい」と渡してくれた、まだ綴じ目の固かった手帳。最初のページには、夢幻ファンタジア中央広場の、簡素なスケッチが描かれていた。当時のぼくが、覚束ない手で書いた、巡回ルートの最初の試み。
二ページ目。死角四ヶ所のリスト。
三ページ目。雨上がりの動線変更点。
四ページ目。花火大会の夜の、避難動線シミュレーション。
五ページ目。アトラクション緊急停止プロトコル。
六ページ目。物販棚の補充ルート。
七ページ目。ロッカー巡回時のチェックポイント。
ページを繰るごとに、ぼくの三年が流れていった。鶴丸さんに笑われた夜。新人賞のノミネートから外された夜。班長が「お前のおかげで助かった」と一回だけ言ってくれた朝。セレスのような、新人の女の子に、ぼくが教えた手順。彼女らがメモを取り、ぼくの書いた紙を、エプロンの一番奥にしまった、あの仕草。
全部、書いてあった。書かれていたから、思い出せた。
手帳の中ほどに、ぼくは、自分でも忘れていた一行を見つけた。二年前のある夜、書いたメモ。
「死角の正体は、見ている人が、見ていないと思っている場所のこと。見られていないと思っている人が、見られている、と知れば、死角は死角でなくなる」
ぼくは、それを書いた夜のことを、ぼんやりと、思い出した。あの夜、コインロッカーの隙間で、シャツの袖を引っ掛けて、しゃがみこんで蹲っていた、酔った男性客を見つけた。彼は、自分が見られていない、と思っていた。だから、そこに隠れていた。けれど、ぼくらの手順では、彼の場所は、見つけるべき場所だった。彼を、ロッカーの隙間から、ゆっくりと、起こした。彼は、最初は怒鳴った。けれど、ぼくが「ここで寝ると、明日体が痛くなりますよ」と言うと、急に静かになった。彼は、ぼくに礼を言った。それから、外のタクシー乗り場まで、自分の足で、歩いて出た。
あの夜から、ぼくは、ずっと、こう書いてきた。死角は、死角だと知っている人にとっては、もう死角ではない。
ハルガル軍は、自分たちが、どこに隠れているかを、誰にも見られていない、と信じていた。
けれど、ぼくは、すべての場所を、書いていた。
ぼくは合羽のもう一つのポケットから、別の紙を取り出した。フィンが死ぬ前日に、ぼくに託した、ハルガル軍の陣形図。間諜が命がけで持ち帰った、貴重な情報。ぼくが、眠気を理由に、まだきちんと分析していなかった図。
月明かりの下に、二つの図を並べた。
夢幻ファンタジア中央広場の、閉園後のスイープ・ルート図。
ハルガル軍の、リシア侵攻陣形図。
最初は、何も見えなかった。
二つを見比べているうちに、ぼくの中で、何かが少しずつ動き始めた。
夢幻ファンタジア中央広場には、四つの死角があった。ベンチの裏。植え込みの陰。案内板の真後ろ。コインロッカーの隙間。これらの位置に、毎夜、ぼくらは班員を配置して、奥から手前へとスイープを行っていた。死角を死角でなくすために。
ハルガル軍の陣形にも、四つの「集中ポイント」があった。リシア中央広場の北側の高台。城門前のすり鉢底。商店街通りの曲がり角。市場広場の井戸の周辺。これらの位置に、ハルガル軍の主力が、二段三段と兵を配置していた。
二つの図を、目で重ねてみた。
ぼくの口から、息が漏れた。
完全に、同じだった。
夢幻ファンタジアの中央広場と、リシア王国の城下中央部は、地形構造が驚くほど類似していた。すり鉢状の中央広場。北側の高台。商店街の曲がり方。井戸または噴水の位置。それは偶然ではなく、人の動線が自然に集まる場所には、決まったパターンがあるからだった。死角の位置も、同じ法則に従っていた。
地球と、リシア。違う星のはずの二つの世界が、同じ幾何学に従っていた。たぶん、人が集まる場所、人が逃げる場所、人が隠れる場所には、文明や技術と関係のない、もっと根源的な法則があった。動物が、巣穴の出口を、必ず複数の死角に作る、というあの本能。それと同じ法則が、人間の作る都市にも、自然と現れる。だから、ぼくの三年分のメモは、たぶん、地球の中央広場の話を超えた、もっと普遍的な記録になっていた。
そして、ハルガル軍は、ぼくの世界での「閉園後の死角に潜む厄介な客」と、寸分違わぬ場所に、寸分違わぬ密度で、潜伏していた。
ぼくは、毎晩、それを掃いてきた。
何百回も、何千回も、ぼくらは死角から、それらを掃き出してきた。
ぼくは、声を上げて笑った。
笑った後、涙が出た。
ぼくは、ずっと、こういう仕事をしてきた。誰にも見られない、誰にも評価されない、誰の歴史にも残らない、深夜の、地味な、地道な、繰り返しの仕事。
その仕事の手順が、ここにあった。
その手順で、世界を救えるかもしれなかった。
救えるかどうかは、まだ、分からない。けれど、試すべきだった。試す前に諦めるのは、たぶん、ぼくが、これまで何度もしてきた、最大の罪だった。試して、失敗するなら、まだ、いい。試さなかったなら、ぼくは、たぶん、生きている意味すら、自分で見つけられない。
ぼくは、立ち上がった。膝の関節が、雨に冷えて、ぎしりと音を立てた。手帳を、合羽の内側にしまい直した。フィンの血の痕がついた表紙を、手のひらで一度、拭った。
「カルロ」
残った兵士たちは、火を囲んで座り込んでいた。カルロは顔を上げた。彼の目は、赤く充血していた。
「ぼくに、案がある」
「朝霧殿」
「逃げた兵士を、もう一度、集めてくれ。一晩あれば、近隣の村に潜んでいる連中を、半分は呼び戻せるはずだ。それと、城下に残っている民兵経験者を募集する。武器が無い者には、物資集積所の予備の槍と弓を回す。在庫リストはぼくが頭に入っている」
「何を、するつもりですか」
「掃除をする」
ぼくは言った。それは、自分でも意外なほど、静かな声だった。
「閉園後の、いつものやつだ」
カルロは、しばらく、ぼくを見つめた。それから、立ち上がった。
「分かりました、朝霧殿」
彼は、敬礼をした。それは、これまでで一番、まっすぐな敬礼だった。
彼は、すぐに、伝令の若者を、四方に走らせた。逃げた兵士の集結場所を、伝えるためだった。集結場所として選んだのは、城下の中央広場ではなく、その外側の、廃墟になった元教会の中庭だった。中央広場は、ハルガル軍に監視されていた。教会の中庭は、瓦礫の壁に囲まれていて、外からは見えにくかった。これは、夢幻ファンタジアでぼくが学んだ、群衆を「再集結」させる時の、基本の手順だった。集まる場所を、最初の場所と変える。新しい場所で、新しい意識で、再集結する。同じ場所で再集結すると、人は、ついさっき逃げた時の意識のまま、また、逃げ始める。場所を変えれば、意識が、変わる。それだけのことだった。
夜明けまでの数時間で、ぼくらは三百人を集めた。多くは、戦意を失いかけた、疲弊しきった兵士と民兵だった。ぼくは中央広場の井戸の縁に立って、彼らに語った。
集まった兵士の顔は、どれも、煤けて、血を浴びて、目の奥に絶望が沈んでいた。多くが、家族を失っていた。住む家を失った者もいた。武器を持っていない者もいた。彼らは、ぼくの声を、何の期待もせずに、聞いていた。
「ぼくは、戦士じゃありません。ただの掃除人です。だけど、掃除のやり方なら、知っています。横一列に並んで、奥から手前に、死角を一つずつ潰しながら、ゆっくり進む。それだけのやり方で、ぼくは、ぼくの国の、十万人が遊ぶ広場を、毎晩、空っぽにしてきました」
ぼくは、手帳を高く掲げた。
「これは、ぼくの三年分の記録です。ハルガル軍の陣形と、ぼくの広場の死角は、同じ場所にあります。同じ場所にあるなら、同じやり方で、掃き出せます」
兵士たちは、互いを見合った。
「掃き出す、と」
誰かが、繰り返した。
「ええ、掃き出すんです」
ぼくは、手帳を、自分の胸に当てた。
「ぼくらは、リシアという広場の、夜勤の清掃班です」
兵士たちは、しばらく、沈黙した。
それから、誰かが、笑った。それは、たぶん、絶望が一周して、笑うしかない瞬間に出る、あの笑いだった。一人が笑い始めると、二人、三人と、笑いの輪が広がった。彼らの笑いは、明るくはなかったが、寒くもなかった。それは、生きている人間の、笑いだった。
カルロが、ぼくの隣に立って、剣を抜いた。
「では、夜勤の清掃班、各員、自分の持ち場へ」
彼の声は、新しい近衛隊長の声に、変わっていた。




