第八章 完全なる喪失
その日の朝焼けは、いつもより赤かった。それが空ではなく、北の空が燃えているせいだと気づいたのは、警鐘が鳴り始めてからだった。
ツルムとの対話から、四日後の朝だった。北方の関所から、緊急の伝令が走ってきた。馬は泡を吹いて倒れ、兵士は這うように城門にたどり着いた。
「魔物の大波。三方面同時。北、西、東」
兵士は息を切らせながら言った。
「同時に、ハルガル軍が、国境を越えて南進してきています。先鋒は、ツルム伯爵直属の部隊──」
彼はそこまで言って、気を失った。
城は瞬時に騒然となった。三方面同時のホードは、史上前例がなかった。これは自然現象ではない。ぼくが恐れていた、最悪の仮説が現実になった。ハルガルが、魔物を意図的に誘導していた。そして、それと同時に、ハルガル軍が南進している。リシアは、二重の敵に挟まれた。
ナイラ様は、軍議で総司令を引き受けた。公爵が高熱で倒れていた。誰かが指揮を取らねばならなかった。
「整え師殿。ホード対応の指揮を執りなさい」
「カルロ。お前は西方面の防衛指揮を」
「フィン。城下の避難と物資、お前が仕切れ」
「私は、東方面の指揮を取る」
彼女の声は、震えていなかった。背筋が、いつも通り、まっすぐ伸びていた。
戦いは、午前十時に始まった。
最初の半日、ぼくらはなんとか持ちこたえた。カスケード防御が機能した。物資の補給線が機能した。負傷者の救護が機能した。手帳の手順は、有効だった。
北の城壁では、フィンが指揮を取り、第一防衛線を支えていた。彼の白い髭は、煤と血で汚れていた。それでも、彼は、若い兵士たちに、笑顔で指示を出し続けていた。「下がれ、急げ、休め、また出ろ」。彼の声は、年齢に似合わず、よく通った。兵士たちは、彼の声を聞くと、たぶん、自分が死なないと信じることができた。指揮官の声には、そういう力があった。
ぼくとセレスは、城下の物資集積所で、補給の指揮をしていた。セレスは、十四歳とは思えない速度で物を動かした。彼女は、物資の優先順位を、感覚で完璧に理解していた。「これは北、これは西、これは内壁」と、まるで、ずっとこの仕事をしてきた人のように、的確に振り分けた。ぼくは、彼女の働きを見て、改めて、人間の能力というものは、教えられた量ではなく、本人がそれをどう受け止めたかで決まる、という当たり前のことを、再認識した。
ところが、夕方近く、状況が変わった。
西の防衛線が突破された。ハルガル軍の精鋭部隊が、リシアの守備の弱い箇所を、まるで地図でも見ているかのように的確に突いてきた。カルロの部隊は、防衛線を維持できなかった。
次に、北の城壁の上で、フィンが戦死した。
ぼくは、その瞬間を、城下の物資集積所の二階の窓から見た。
北の城壁の最上段。フィンが矢を受けて、もう一発、胸に。彼は両足で踏ん張った。彼の傍らで、若い兵士たちが泣きながら剣を振っていた。フィンは、笑った。歯を見せて、空を見上げて、何かを叫んだ。何を叫んだのかは、ぼくには聞こえなかった。それから、彼はゆっくりと、城壁から後ろ向きに倒れた。
二度と、立ち上がらなかった。
ぼくは、走った。城壁の階段を、五段抜かしで駆け上がった。フィンは、内側の歩廊に倒れていた。胸と脇腹に矢が刺さっていた。顔は、不思議なほど穏やかだった。
彼の周りには、若い兵士たちが、剣を抜いたまま、呆然と立っていた。誰も動けなかった。彼らは、フィンを失ったことが、まだ理解できていない顔をしていた。フィンは、彼らにとって、たぶん、揺るぎない柱だった。柱が倒れた直後、屋根が、まだ落ちてこない、その短い時間に、ぼくは間に合った。
「フィンさん」
ぼくは膝をついた。
「フィンさん、しっかりしてください、フィンさん」
彼は薄く目を開けた。
「掃除人。お前の手帳は、どこだ」
ぼくはポケットから出して、彼の手に握らせた。彼は、それを見ようとはしなかった。ただ、握った。彼の傷だらけの手のひらが、手帳の表紙を、しっかりと、覆っていた。それは、彼が、たくさんの剣を握ってきた手だった。たくさんの仲間を埋葬してきた手だった。たくさんの戦場で、誰かを救おうとした手だった。
「これが、世界を救う。覚えておけ」
「フィンさん」
「お前みたいな男が、ずっと世界を支えてきた。誰にも、見られんで、な」
彼の口から血が溢れた。
「俺は、戦士だが、本当は……お前のような奴に、ずっと、頭を、下げ──」
彼は、最後まで言わなかった。最後まで言わずに、目を閉じた。
ぼくは動けなかった。手帳を、彼の手から、もう一度、自分の手に取り戻した。手帳の表紙には、フィンの血の痕が、小さく一つ、滴っていた。それは、いびつな三日月の形をしていた。ぼくは、その形を、たぶん、一生忘れない。彼の体は、思ったよりもずっと、軽かった。傭兵として三十年戦ってきた男の体が、こんなに軽いはずがなかった。けれど、命というものは、抜けてしまうと、こんなにも、何もないのだと、ぼくは初めて知った。
ぼくは彼の隣に、しばらく座っていた。城壁の上で、矢が頭上を飛び、悲鳴が聞こえ、油の燃える臭いが立ち上っていた。けれど、ぼくの周りだけが、奇妙に静かだった。フィンの死は、ぼくの中に、小さな空洞を一つ、残した。その空洞に、雨と煙が、ゆっくりと染み込んでいく感覚があった。
若い兵士の一人が、ぼくの肩に、震える手を置いた。彼の名前を、ぼくは知らなかった。たぶん、十八歳くらい。頬がまだ少年らしかった。彼の手も、震えていた。彼は、何も言わなかった。ただ、ぼくの肩に、しばらく、手を置いていた。それから、彼は、自分の剣を握り直して、城壁の縁に、走っていった。彼が、その後、生きて夜明けを迎えたかどうか、ぼくは、知らない。
ぼくは、フィンの瞼を、指で、そっと閉じてやった。
フィンの体の脇には、彼の剣が、横たわっていた。彼は、最後の瞬間まで、剣を握り続けたのだろう。剣の柄に、彼の血が、染み込んでいた。ぼくは、その剣を、彼の胸の上に、組ませた両腕の下に、滑り込ませた。傭兵が、最後に剣を抱いて死ねるよう、それは、たぶん、彼の世界の作法だった。フィンが、ぼくに、そういう作法を教えたわけではなかった。けれど、ぼくは、なぜか、そうすべきだと、知っていた。彼の声が、たぶん、ぼくの中に、すでに棲み始めていた。
午後八時、王城が陥落した。
西からハルガル軍が、北からホードの主力が、同時に内壁を突破した。ナイラ様が東方面で粘っていたが、彼女自身が捕らえられた。ぼくは、それを城下の市場の屋根の上から見ていた。ナイラ様が、ハルガル兵に両腕を掴まれて、馬車に押し込まれる場面を。彼女は声を上げなかった。最後まで、背筋を伸ばして、振り返って、城を見た。
その瞬間、彼女の目が、ぼくのいる屋根の方角に、わずかに動いた気がした。距離は、二百メートル以上あった。彼女に、ぼくが見えるはずがなかった。それでも、ぼくは、彼女の視線が、ぼくに届いた、と感じた。あるいは、感じたいと願ったのかもしれない。彼女は、何も言わなかった。何も合図を送らなかった。ただ、馬車の中に消える前に、空を、一度だけ、見上げた。空には、夕焼けの残りが、血のような赤で、ぼんやり広がっていた。
ぼくは、屋根の上で、声を殺して泣いた。手のひらで口を塞いで、声が漏れないようにした。それでも、肩が、勝手に震えた。震えが止まらなかった。瓦の冷たさが、頬に当たっていた。涙が、瓦の継ぎ目に、小さく溜まった。それから、瓦の隙間に、染み込んで消えた。涙は、屋根の中に消えた。誰にも、聞かれなかった。誰にも、見られなかった。ぼくが、リシアで失ったものは、たぶん、誰にも、知られないまま、消えていく。それが、いちばん、つらかった。
夜半。ぼくはカルロと、生き残った兵士三十人と、城下の廃墟と化した中央広場に集まっていた。市場は焼け、井戸は瓦礫で塞がれ、街の半分が燃えていた。
「朝霧殿」
カルロが声をかけた。彼の左腕は、布で吊られていた。
「我々は、どうすればいいのです」
ぼくは答えなかった。答えようがなかった。
「もう、終わりですか。このリシアは、もう──」
「すまない」
別の若い兵士が言った。
「俺は、家族のところに行く。妻と、息子が、まだ南の村にいるはずだ。すまない、朝霧殿」
彼は立ち上がって、闇の中に消えた。三十人いた兵士のうち、半分が、その夜のうちに姿を消した。残ったのは十五人。それも、明日の朝には、何人残っているか分からなかった。
ぼくは、彼らを、引き止めなかった。引き止める権利が、ぼくにはなかった。彼らは、家族を持っていた。家族を持っている人間が、家族のところに帰ることを、ぼくは、責められなかった。ぼく自身は、地球で、家族と疎遠だった。だからこそ、家族に向かって走る人間を、ぼくは、止められなかった。
ぼくの中の何かが、彼らを羨んでいた。帰る場所がある、ということを。
地球のぼくに、帰る場所が、あっただろうか。アパートの一室。家賃を払えば、住めた。けれど、それは、帰る場所、というよりは、雨をしのぐ場所だった。誰も、ぼくの帰りを待っていなかった。ぼくが帰らなくても、誰も、心配しなかった。ぼくは、たぶん、地球でも、ずっと、帰る場所を探していたのだった。
雨が降り始めた。
夏の終わりの雨だった。冷たくて、体の芯まで沁みた。ぼくは廃墟の柱の根本に座り込んだ。手帳を、雨に濡れないように合羽の内側に入れた。それから、自分の体を抱いた。
誰の役にも、立てなかった。
ぼくは口の中で、その言葉を繰り返した。フィンを死なせた。ナイラ様を捕らえさせた。リシアを失わせた。ぼくは、何のためにここにいたのか。何のために、整えてきたのか。
鶴丸さんが、夢の中で、笑っていた。
「お前みたいに記録ばっかつけてる奴は、出世しない」
ツルムが、その隣で笑っていた。
「お前のような陰気で地味な人間が、英雄になれると思うな」
二人の声が、雨音の中で混ざった。それは、たぶん、ぼくがずっと、自分自身に言い続けてきた声だった。
ぼくは、雨の中で、長い間、動けなかった。
手帳の重さだけが、合羽の内側で、心臓のすぐ近くで、わずかに、確かに、温かかった。
遠くで、誰かが叫んでいた。聞き覚えのない言語だった。たぶん、ハルガル兵の凱歌だった。彼らは、王城の最上部に旗を立てた。紫紺の地に、白い狼の意匠。それが、雨に濡れて、城壁の風で、力なく揺れた。
近くで、犬が一匹、迷子のように吠えていた。瓦礫の隙間から覗いた、その犬の毛は、戦火で半分焦げていた。それでも、犬は、誰かを探していた。たぶん、もう死んでしまった、誰かを。
ぼくは、その犬の鳴き声が、自分の中の何かに似ていると思った。
誰も助けに来ない場所で、誰かを探して鳴き続けるしかない、という。
ぼくは、ゆっくりと、目を閉じた。閉じても、雨は、まぶたの上に降り続けた。閉じても、世界は、終わるのを止めてくれなかった。けれど、ぼくの胸の中で、たった一つの場所だけ、まだ温かかった。フィンの血のついた手帳が、そこに、確かに、あった。
それが、ぼくが、死を選ばなかった、たった一つの理由だった。
雨の音の中で、ぼくは、自分の三十年弱の人生を、ぼんやりと、思い返していた。両親と疎遠になった日。大学を中退した日。最初に夢幻ファンタジアの面接を受けた日。班長が、初めて「お前、いいセンスだ」と言ってくれた夜。鶴丸さんに、新人賞のノミネートから外されて、控室で泣いた夜。ナイラ様に、初めて「ただの掃除人ではない」と、言ってもらった日。
どれもが、ぼんやりと、ぼくの中で、輝いていた。明るくはなかった。けれど、暗くもなかった。ただ、灯りが、ある。それだけのことが、ぼくが、生きてきた、ということの、たぶん、すべてだった。




