第十章 スイープ作戦
「掃除をします」とぼくは集まった人々に言った。誰かが笑った。ぼくも少し笑った。それから、手帳を開いた。
夜明け前の、まだ星が西の空に残っている時刻。ぼくは三百人を、五つの班に分けた。
班分けは、戦闘力ではなく、相性で決めた。声の通る者を班長に。動きの速い者を斥候に。顔見知りの兵士同士を同じ班に。これらは、夢幻ファンタジアでチーフが班員を組む時の、当たり前の手順だった。地球で、ぼく自身が組まれてきたやり方を、そのまま、ここに持ち込んだだけだった。違うのは、配属先で死ぬ可能性があるということだった。だから、判断には、何度も、何度も、慎重に、ぼくは時間をかけた。
班長五人にホイッスルを持たせた。スイープ用の合図は三種類。長く一回吹けば前進。短く二回吹けば停止。三十秒間隔で吹けば後退。閉園後の夢幻ファンタジア中央広場で、班員七人を統制してきた、その合図のままだった。
第一班は北側高台の制圧。第二班は商店街通りの曲がり角の死角つぶし。第三班は市場広場の井戸周辺。第四班はぼくとカルロが率いる本隊で、城門前のすり鉢底を制圧。第五班は予備で、後方から後退者の収容と、負傷者の搬送。
手帳の見開きに描いたスイープ・ルート図を、各班長に配った。死角の位置を×印で示した。各班長が、自分の担当エリアの図を、何度も何度も読み返した。
ぼくは、ハルガル軍の陣形が、ぼくの図と完璧に一致していたから、攻め方も知っていた。北の高台。曲がり角の死角。井戸の影。これらの場所では、相手の主力が伏せている。だから、正面から突っ込むのではなく、横から、奥から、相手の死角に入り込むようにして掃き出す。
日が昇り始めた時、ぼくらは動き始めた。
第一班、北側高台。長く一回のホイッスル。彼らは、ハルガル軍の見張り台の死角になる、廃墟の井戸の影から登った。手帳には、夢幻ファンタジアの北側ベンチ裏の死角の位置が書いてあった。それと同じ角度から、ハルガル軍の警戒網に侵入した。最初の三十分で、見張り台二つを制圧した。
第二班、商店街通り。死角は、二階建ての石造りの家の角。鶏を売る店と、蹄鉄屋の境目。ハルガル軍の伏兵がここに二十人潜んでいた。第二班は、店の二階の窓から逆に侵入し、屋根伝いに屋根の上から囲んで、上から槍を突き降ろした。これは、夢幻ファンタジアの植え込みの陰に座り込んでいた酔客を、上のテラスから声をかけて誘導する、応用だった。
第三班、井戸周辺。井戸の北側に死角があった。第三班はここに弓兵を配置し、敵が井戸に水を汲みに来た瞬間を待った。これは、コインロッカーの隙間に頭を入れて寝ていた客を、コインを落とす音を立てて起こす技術と、同じ発想だった。
ぼくはホイッスルを首から下げて、第四班の最後尾を歩いた。指揮官は、ぼくではなく、カルロだった。ぼくは、後方支援に徹していた。指揮の一番難しい部分は、各班長との連絡を切らさないこと。ぼくは、伝令の少年たちを、五人ばかり、自分の身の回りに配置していた。彼らは、ぼくの口から発せられた指示を、各班長に走って伝える役だった。年は十二歳から十五歳。みな、戦災で家族を失い、それでも、何かの役に立ちたいと自ら名乗り出てきた少年たちだった。彼らの足は速かった。彼らの目は、新人アルバイトのような、まっすぐな目だった。
伝令の少年の一人、十三歳のラウルが、走って戻ってきた。汗で、額の前髪が、貼り付いていた。
「朝霧様、第二班、目標達成しました。屋根の上から、二十名、無力化したそうです」
「分かった、ありがとう」
ぼくは、彼の頭を、軽く撫でた。彼は、はにかんだ顔で、すぐにまた、別の班への伝令に走っていった。
ラウルの背中を見送りながら、ぼくは、思った。彼は、たぶん、明日も生きている。彼の足が速い限り、彼は、戦場の伝令役として、生き残る可能性が、高い。彼が、明日、明後日、十年後、二十年後、何になっているかは、ぼくには分からない。ただ、彼が、自分が「役に立った」記憶を、これから生きる人生の支えにできるなら、それで、ぼくの仕事の、半分は、報われていた。
ぼくとカルロの第四班は、城門前のすり鉢底に向かった。
ここが、ハルガル軍の本陣に最も近かった。
すり鉢底に降りる坂道の手前で、ぼくらは伏兵の槍衾に出くわした。ハルガル軍五十名。盾を構え、長槍を低く構えていた。ぼくらは三十名。武器も練度も劣る。
「朝霧殿。これは正面から突破できません」
カルロが言った。彼の額に汗が滲んでいた。
「ええ、突破しません」
ぼくは手帳を開いた。
「閉園後の中央広場には、こういう状況がよくありました。客の集団が、ぼくらの誘導を聞かずに、自分たちで列を作って動こうとする。そのまま放っておくと、合流地点で必ず将棋倒しになる」
ぼくは、手帳のあるページを指した。
「だから、ぼくらは、列の中に一人だけ、別方向に動く人を立てます。すると、その人を避けるために、列が自然に少し曲がる。曲がった瞬間、列の側面が露出します」
「囮、ですか」
「囮ではなくて、誘導用の異物です。ぼくが、そこに立ちます」
「朝霧殿!」
「カルロ、よく聞いてください。ぼくが槍衾の正面に立って、ゆっくり横に歩きます。ハルガル軍は、ぼくを最大の脅威ではないと判断するはずです。ぼくは武器を持っていない、ただの掃除人だから。彼らの注意がぼくに向いた瞬間、あなたは班を二つに分けて、左右の側面から襲ってください。これは、夢幻ファンタジアで言うところの、『マージポイントの逆転』です」
カルロは、しばらく黙った。それから、ぼくの目を、まっすぐ見た。
「朝霧殿。一つだけ、聞かせてください」
「はい」
「あなたは、なぜ、ご自分が囮役を、引き受けるのですか。指揮官は、私が代わってもいいはずです」
ぼくは、答えに、少し迷った。
「ぼくは、戦士ではないからです。ぼくが指揮を執る位置にいるより、あなたが指揮する方が、効率がいい。ぼくが武器を振るより、ぼくがそこにいるだけで、相手の注意を逸らせる方が、効率がいい。それぞれ、できることをやるのが、ぼくの仕事です」
カルロは、頷いた。
「分かりました。あなたが、生きて戻ることを、私は信じます」
「ぼくも、信じています」
ぼくは、深呼吸をした。
手帳をポケットに戻して、合羽の前を整え、業務用ホイッスルを首から下げ直した。それから、ぼくは坂を、ゆっくりと、降りていった。
ハルガル兵たちは、最初、ぼくを訝しげに見た。武器を持たない、痩せた男が、一人で坂を歩いて降りてくる。彼らは、ぼくを脅威と認識しなかった。
ぼくは、槍衾の三十歩手前で立ち止まった。それから、ホイッスルを、長く一回、吹いた。
長く一回。前進の合図。
左右の家屋の物陰から、カルロの兵たちが一斉に湧き出した。ハルガル兵が振り返った時には、もう側面に押し寄せていた。槍衾は、横からの攻撃に脆かった。長槍は、向きを変えるのが遅い。盾は、横を守れない。三十秒で、五十名の槍衾は崩れた。
ぼくは、坂の真ん中で、ただ立っていた。一発も剣を振るわず、一人も殺さずに、ぼくは「異物」として、その場に立ち続けただけだった。
すり鉢底を抜けて、ぼくらは王城前広場に到達した。
城下の街並みは、半分が燃えていた。けれど、まだ、半分は残っていた。残った半分の家々には、たぶん、誰かが、息を潜めて、隠れていた。窓の鎧戸の隙間から、小さな目が、たまに、こちらを覗いていた。子どもの目だった。彼らは、ぼくらの足音を、聞いていた。彼らが、何を期待しているのか、ぼくには、分からなかった。けれど、彼らが、何かを期待していることは、確かだった。期待されている、という感覚を、ぼくは、生まれて初めて、自分の背中で、受け止めていた。
その期待を、ぼくは、たぶん、これから先も、何度も、思い出すだろう。地球で、深夜の中央広場を歩く時にも、たぶん、思い出すだろう。誰にも見られていない、と思っている時でも、たぶん、誰かが、どこかで、ぼくらの足音を、聞いていた。
それを、ぼくは、忘れない。書き留めておくまでもなく、忘れない。たぶん、忘れないようにできていた。
そこには、ナイラ様が、両手を縛られて、台車の上に立たされていた。ハルガル軍が、彼女を「見せしめ」として処刑する直前だった。
その傍らに、ツルム伯爵が、立っていた。
彼は、剣を抜いていた。彼の鎧は、戦闘の汗で、かすかに光っていた。けれど、彼の表情には、戦士の緊張感はなかった。彼は、戦いを、自分の勝利の儀式だと思っていた。彼は、台本通りの幕引きを期待していた。台本にない男が、坂の上から、三百人の敗残兵を率いて、現れた。彼の眉が、ほんのわずかに、動いた。
「整え師殿」
ツルムは、驚いたように、それから笑って言った。
「お前、生きていたか」
「ええ」
ぼくは答えた。広場には、ぼくとカルロを含めて六十人。ハルガル軍の本隊は、約二百。数では負けていた。
けれど、数は、すべてではなかった。
夢幻ファンタジアの中央広場の、特別ナイトイベント終了直後。出口に十万人の客が殺到する瞬間。あの時、誘導係はわずか三十名だった。三百倍以上の人数を、三十名が動かした。動かす方法を、知っていれば、数の劣位は、意味を失う。それが、ぼくが、三年間、毎晩、繰り返し学んできたことだった。
「貴様、こんな地味な仕事で、私に勝てると思うか」
ツルムは、剣を抜いて、ぼくに向けた。
「お前のような掃除人風情が、私を倒すと?」
「倒すかどうかは、ぼくが決めることじゃありません」
ぼくは言った。
「ぼくは、ずっとこういう仕事をしてきました。誰にも見られないところで、ずっと。掃き出すべきものは、掃き出します。ただ、それだけです」
ツルムは、嘲笑った。鶴丸さんと、同じように。それは、夢幻ファンタジアの控え室で、ぼくが何度も浴びてきた笑い声だった。あの笑い声は、ぼくを、たくさん傷つけてきた。傷ついた数だけ、ぼくは、たぶん、強くなった。
いや、強くなったわけではなかった。
ぼくはただ、傷を、書き留めてきただけだった。書き留めることで、忘れずにいられた。忘れずにいられたから、繰り返し、同じ目に合わずに済んだ。
その嘲笑が、終わる前に、彼の足元の石畳が、わずかに、傾いた。
ぼくは、手帳の最後の死角ポイントを、思い出した。
夢幻ファンタジア中央広場には、四つの死角の他に、もう一つ、誰も気づかない、五つ目の死角があった。それは、案内板の真後ろの、地面の段差。雨の日にだけ、わずかに濡れて滑る、たった一センチの段差。ぼくが手帳の余白に、二年前に書き込んだ、誰も読まない注意書き。
リシア王城前広場の中央にも、同じ場所に、同じ段差があった。
ぼくは、ホイッスルを、五秒に一回、吹いた。突撃の合図。
カルロが、剣を抜いて、ツルムの背後から走り込んだ。ツルムは、振り返ろうとした。その時、彼の右足が、案内板の真後ろの段差に、わずかに引っかかった。
彼の体が、コンマ五秒、動きを止めた。
その時間で、十分だった。
カルロの剣が、ツルムの肩を斬った。ツルムは膝をつき、剣を取り落とした。彼は信じられないという目で、ぼくを見上げた。
「お前は……何故、この場所を」
「ここが、案内板の真後ろの死角だからです」
ぼくは答えた。
「ぼくは、二年前から、こういう場所を、ずっと書いてきました」
ハルガル軍は、本隊指揮官を失って、瓦解した。同時に、北のホードも、夜明けの陽光の中で勢いを失っていった。三方面の戦いは、一日で、決着がついた。
戦いが終わった後、ぼくはしばらく、王城前広場に座り込んでいた。広場の石畳には、血の跡が、地図のように散っていた。それを、誰かが、洗い流す前に、ぼくは見ておきたかった。これが、ぼくの作戦の、結果だった。死んだ兵士の何人かは、ぼくの判断で、ぼくの指揮で、ここに送り出された者たちだった。彼らの死を、忘れてはいけない。書き留めて、覚えておかねばならなかった。
ぼくは、手帳に、戦死者の数と、彼らが配置されていた班の名前を、一人ずつ、書き込んだ。名前まで分からない者も、多かった。それでも、書ける範囲で、書いた。
太陽が、王城の屋根の上に昇った頃、ぼくは、立ち上がった。
ナイラ様は、無事だった。
彼女は縛めを解かれて、広場の真ん中で、ぼくの方を、長い時間、見つめていた。何も言わなかった。ぼくも、何も言わなかった。風が、吹いていた。広場の隅で、誰かが、勝鬨を上げ始めた。それに、もう一つの声が重なり、三つになり、十になり、百になった。リシア兵たちが、剣を空に突き上げていた。城壁の上の生き残りたちが、それに応えた。崩れた屋根の影から、顔を黒く煤けさせた女たちが、子どもの手を引いて出てきた。誰かが泣いていた。誰かが笑っていた。誰かが、知らない言葉で祈っていた。
ぼくは、その光景の真ん中で、ただ、息を吐いた。
勝った、という実感は、不思議なほど、なかった。ぼくがしたことは、ただ、横一列に並んで、奥から手前へ、いつもの順番で、いつもの速度で進んだこと。それだけだった。掃除機の代わりに人間が並び、塵芥の代わりに敵兵がいただけ。仕事の本質は、何ひとつ、夢幻ファンタジアの中央広場と変わらなかった。
倒れたツルムの傍らで、ぼくは膝を折った。彼の目は、まだ開いていた。瞳の焦点は、もう、どこも合っていなかった。ぼくは、彼の上着の襟元から、一通の封書を、抜き取った。フィンが間諜に命じて取らせようとして、取れなかった、ハルガル王宮宛ての密書だった。後で開封すれば、魔物誘導の物証が、たぶん入っていた。
ぼくは、その封書を、合羽の内ポケットに、そっとしまった。
ツルムの目が、最後に、わずかに動いた。彼は、何かを言おうとした。けれど、声にはならなかった。
「あなたは、たぶん、誰よりも、自分を見ないようにして生きてきたんですね」
ぼくは、彼の傍らで、つぶやいた。
彼の答えは、もう、ぼくに必要なかった。
ぼくは、手帳を、合羽の内側に、もう一度しまった。
フィンの血の痕は、まだ残っていた。




