第十一章 銀の鈴の別れ
戦いが終わった七日目、ぼくは初めて、自分が帰る場所のことを思い出した。それは思い出したくて思い出したのではなかった。
戦後の七日間、城下は静かに復旧していた。ぼくは物資集積所と、避難民の仮設住居の組織化に、毎日朝から晩まで動いた。セレスは、思った以上の指揮力を発揮していた。彼女は、ぼくのいない場所で、ぼくの手帳の手順を、自分の言葉に翻訳して、十代後半の若者たちに教えていた。
復興の手順は、戦時の手順と、根本のところでは、変わらなかった。何が、どこに、どれだけあるか。誰が、何をできるか。どの順番で、何を整えていくか。それを、書き留めて、整理して、共有していけば、自然と、街は、動き出す。一日に十軒の家が修復され、三家族が新しい住まいに移り、新しい子どもが二人、生まれた。生まれた子どもの一人は、戦死した兵士の遺児だった。もう一人は、避難民の女性が、避難中の混乱の中で授かった、父親の分からない子どもだった。それでも、子どもが生まれた、ということは、世界が、続いている、ということだった。
カルロは、王女付きの近衛隊長に昇格した。彼は若かったが、第十章の戦いで、兵士たちから絶対的な信頼を勝ち取っていた。
ナイラ様は、執政の指揮を取り戻した。前王の安否は依然として不明で、彼女は「摂政」として正式に立った。彼女は最初の布告で、戦死者の名を一人ずつ読み上げた。フィンの名前は、最初に呼ばれた。
戦死者の名を、彼女は、たぶん、一晩で全部、書き写した紙を読み上げていた。それは、何百人もの名前だった。彼女の声は、最後まで、震えなかった。けれど、最後の名前を読み終えた時、彼女は、深く頭を下げて、しばらく顔を上げなかった。広場に集まった民は、みな、頭を下げていた。風の音だけが、しばらく、鳴っていた。
七日目の夜、ぼくは異変に気づいた。
部屋の燭台の前に手をかざした時、自分の指の輪郭が、わずかに透けて見えた。光が、皮膚を通り抜ける、というほどではなかった。けれど、影の形が、ほんの少し薄かった。
ぼくは、それが、何を意味するか、分かった。
来た時と同じ場所で、雷雨の夜に、戻る。たぶん、そういう仕組みだった。
その夜、ぼくは、自分の机の上に、リシアでぼくが学び、書き留めた、すべての手順をまとめた書類の束を、置いた。物資管理。避難誘導。負傷者救護。戦時の物資配分。平時の倉庫整理。城下の人員ローテーション。スイープ作戦の詳細。それぞれの手順を、ベルティンの手伝いで、リシアの文字に翻訳しておいた。ぼくの手書きの、震えた線で書かれたリシアの文字。誤字も、たぶん、たくさんあるだろう。それでも、書いたものは、書いていないよりは、価値がある。書かれていれば、誰かが、修正することができる。書かれていなければ、修正のしようも、ない。
書類の束の一番上に、一行だけ、ぼくは、地球の文字で書いた。
「みなさんへ。ぼくは、いつか、いなくなります。でも、これは、残ります」
ベルティンに、後で翻訳してもらえれば、それでよかった。ぼくは、その夜、その書類を、執務室の机の上の、いちばん目に付く場所に、置いてきた。
その夜、ぼくはフィンの墓の前に立った。
北の城壁の内側、戦没者の慰霊塔の隣に、彼の墓は作られていた。墓石は粗削りの灰色の石灰岩。彫り込まれた文字は、ぼくには読めなかった。けれど、フィンの名前であることは、形で分かった。
墓石の下には、彼の剣が、横たえられていた。傷だらけの、古い剣。彼が、三十年間、振り続けた剣。これからは、もう、振られることのない剣。
ぼくは、しばらく、何も言わずに、墓の前に立っていた。それから、口の中で、つぶやいた。
「あなたが言った通りでした。手帳が、世界を救いました」
風が、吹いた。
「ぼくは、きっと、もうすぐ、ここを離れます。あなたに、お礼を言いたかった。ぼくの仕事を、最初に、ちゃんと、見てくれた人だから」
目尻に、何かが滲んだ。ぼくは、それを、合羽の袖で拭った。
ぼくは、ポケットの中から、業務用ホイッスルを取り出した。夢幻ファンタジアから、ぼくが持ち込んだ、銀色のホイッスル。第六章のカスケード防御で、各防衛線の合図に使った、あの道具。ぼくは、それを、墓石の根本に、そっと置いた。
「あなたが言ってくれた、『お前みたいな男が、ずっと世界を支えてきた』という言葉を、ぼくは、たぶん、一生忘れません。代わりに、ぼくのこの笛を、あなたに渡します。これが、これからのリシアで、誰かの命の合図になるなら、それは、あなたの遺産です」
ホイッスルは、墓石の影で、わずかに、銀色に、輝いた。
ぼくは、墓の前に、もう一度、頭を下げた。
それから、深く、息を吸って、立ち上がった。
その夜、ナイラ様の執務室に呼ばれた。
彼女は窓辺に立っていた。執務室の窓からは、月明かりに照らされた城下が見えた。半分焼けた街並みが、それでも、人々の生活の灯で、ぽつぽつと明るかった。
「整え師殿」
「ナイラ様」
「あなた、帰るのね」
彼女は、振り返らずに言った。なぜ分かったのか、聞き返そうとして、止めた。彼女には、たぶん、見えていた。指の輪郭が、薄くなり始めていることが。
「はい。たぶん、もうすぐ」
「いつ?」
「次の雷雨の夜に。今夜か、明日か、あさってか」
ナイラ様は、振り返った。彼女の目が、月明かりで、わずかに濡れているのが見えた。けれど、彼女は、泣いていなかった。
「あなたは、私の世界を変えた」
「いえ、ぼくは、ただ、掃いただけです」
「掃くことが」
彼女は、近づいてきた。
「こんなに尊い仕事だとは、知りませんでした」
ぼくらは、しばらく、向かい合っていた。
窓の外で、夜風が、城下の建物の屋根を、緩やかに吹き渡っていた。城下の灯りは、まだ多くは戻っていなかった。けれど、いくつかの窓では、家族らしき人々が、夕食を取っているのが見えた。皿を並べる手。子どもの肩を抱き寄せる母親の手。父親が、息子の頭を撫でる手。彼らの手の動きには、戦争の前と同じ、ささやかな日常が、もう、戻り始めていた。
ぼくは、その光景を、しっかり、目に焼き付けようとした。
ナイラ様も、同じ場所を見ていた。
「あの灯りを」
彼女は、つぶやいた。
「あの灯りを、私は、私の代で、消したくなかった」
「消えませんでした」
ぼくは答えた。
「あなたが、消さなかったんです」
ナイラ様は、自分の懐から、小さな包みを取り出した。柔らかい鹿革の包み。彼女は、それを、ぼくの手の中に置いた。
包みを開くと、銀色の鈴が、月明かりの中で、薄く光った。
ぼくがリシアに来た夜、コインロッカーで拾った鈴と、形も大きさも、瓜二つだった。違うのは、文様。ナイラ様の鈴には、リシア王家の紋章が、極小の彫刻で刻まれていた。
「これを、忘れないでください」
彼女は言った。
「世界が違っても、たぶん、忘れないように、できているはずです」
ぼくは、自分のポケットから、もう一つの鈴を取り出した。三ヶ月前の、夢幻ファンタジアでの夜、コインロッカーで拾ったあの鈴。落とし主はいまだに不明で、なぜかぼくのポケットに残っていた。
「これを、ぼくも、あなたに渡します」
ぼくは言った。
「ぼくの世界の鈴です。誰のものか、ずっと分かりませんでした。でも、たぶん、本当の落とし主は、あなただったんだと、今、分かりました」
ナイラ様は、ぼくの手から、その鈴を、両手で受け取った。彼女の指が、ぼくの指に、ほんの一瞬、触れた。
二つの鈴を、ぼくらは並べて、振った。
ちりん、と、二つの音が、同時に、まったく同じ高さで、鳴った。
ぼくらは、笑った。
なぜ笑ったのか、ぼくにも分からなかった。たぶん、それは、笑うしかない場面だった。泣くには、お互いに、強すぎた。怒るには、お互いに、優しすぎた。
ナイラ様が、窓の外を見た。
「あなたが来た夜、私は、あなたを追い出すように命じたわ」
「覚えています」
「あの時の私は、たぶん、何かを失うのが怖くて、最初から、何も持たないようにしていたの。何も持たなければ、失うこともない、と。父が消えてから、ずっと、そうやって自分を守っていた。臆病な、王女でしょう」
「ナイラ様は、臆病ではありません」
「臆病だわ。でも、あなたが来てから、私は、少しずつ、何かを抱えてもいいと思えるようになった。あなたが、地味な仕事を、誇らしげに抱える姿を、毎日見ていたから。誇らしげではなかったかもしれない。けれど、捨てなかった。あなたは、自分を、捨てなかった」
ナイラ様の声が、わずかに、揺れた。
「あなたが、いなくなった後も、私は、抱えていきます。この国の人たちと、あなたの残した手順と、それから、あなたのこと」
「ぼくも、抱えていきます」
ぼくは答えた。
「ぼくの世界は、たぶん、何も変わっていません。鶴丸さんは、明日もぼくを馬鹿にするでしょう。ぼくは、明日も同じ広場で、同じ手順で、同じ仕事をするでしょう。何ひとつ、変わらない。でも、ぼくが、変わりました。あなたに会ったから」
「整え師殿」
ナイラ様は、ぼくの目を、まっすぐに見た。
「あなたが、地球で、自分のことを、もう一度、誇りに思って、生きていけますように」
ぼくは、頷いた。
頷くことしか、できなかった。何かを言葉にすると、たぶん、その瞬間に、何かが壊れる気がした。だから、ぼくは、ただ、頷いた。ナイラ様の方も、たぶん、それ以上の言葉は、要らなかった。彼女は、自分の手のひらを、ゆっくりと、自分の胸に、当てた。それは、王女の儀礼的な仕草ではなかった。たぶん、彼女自身の、何かを、自分で抱き止める仕草だった。
「行きなさい、整え師殿」
ナイラ様は言った。
「あなたの世界でも、たぶん、誰かが、あなたを必要としているはずだから」
「はい」
ぼくは、答えた。
「あなたも、お元気で、ナイラ様」
彼女は頷いた。それから、ぼくの肩に、片手を、軽く、置いた。一瞬だけ、温かい重みが、そこにあった。それだけだった。
その夜、ぼくは、雷雨が来るのを、城門の前で待った。
地下牢ではなく、城門の前で待ちたかった。リシアに来た時の、最初の場所ではなく、ぼくが「整え師」と呼ばれて働いていた、その入口で。
城門の石は、夜の冷気を吸い込んで、冷たかった。ぼくは、その冷たさに、自分の手のひらをつけて、立っていた。空気は、湿っていた。北の地平線で、雲が低く垂れ込めて、稲光が、ときおり、雲の腹を照らしていた。雷雨は、もうすぐ、来る。それが分かった。
城門の石の表面には、ぼくの知らない言葉で、何かが、彫り込まれていた。たぶん、何百年も前の、リシアの建国の文字。風雨で、半分摩耗していた。ぼくは、その文字を、指で、なぞった。読めなかった。けれど、誰かが、何百年も前に、ここに、こうやって、文字を刻んでいた。その人が、たぶん、いま、ぼくが、ここに立っているとは、想像していなかっただろう。それでも、彼の刻んだ文字の上に、いま、ぼくの指が、置かれていた。それが、人間の歴史というものの、たぶん、本質だった。書いて残せば、たとえ意味が分からなくなっても、誰かの指が、いつか、なぞる。そうやって、世界は、続いていく。
ぼくは、自分の手帳の表紙を、合羽の上から、ぽんと、軽く叩いた。
この手帳も、たぶん、いつか、誰かが、なぞるのだろう。そうあってほしい、と、ぼくは、願った。
午前零時を過ぎた頃、北の空が、わずかに、光った。
稲光だった。
ぼくは、合羽のフードを上げた。手帳を、合羽の内側に、もう一度、確かめた。鈴を、左のポケットに、しっかりと、握った。ナイラ様から受け取った、王家の紋章の刻まれた銀の鈴。
「朝霧殿!」
遠くで、カルロの声がした。彼が、城門に向かって、走ってくるのが見えた。セレスが、その後ろから、必死で走ってきた。
二人とも、息を切らせていた。セレスは、走りながら、何度も転びそうになっていた。彼女のエプロンには、まだ、物資集積所の土埃がついていた。彼女は、たぶん、夜更けまで仕事をしていて、ナイラ様からの伝言で、ぼくが帰ることを、つい先ほど聞いたのだろう。
「朝霧殿、行ってしまうのですか!」
彼らが城門の前に、息を切らせて到着した時、稲光が、もう一度、空を裂いた。
「カルロ。セレス」
ぼくは言った。
「ぼくの後を、頼みます」
「朝霧殿!」
「物資集積所の整理は、セレスがやってください。手順は、ぜんぶ、書いてあります。今日、執務室の机の上に、置いてきました。読みにくい字で、ごめんなさい」
「朝霧さん」
セレスが、声を絞り出した。彼女の頬を、涙が、伝った。
「私、朝霧さんの紙、ぜんぶ、覚えました。エプロンの一番奥に、ぜんぶ、しまってあります」
「うん」
ぼくは頷いた。
「それを、新しい誰かに、渡してあげて」
セレスは、頷いた。
「朝霧殿、私は──」
カルロが、何かを言いかけた。
その時、雷が、ぼくの真上で、落ちた。
白い光。耳鳴り。重力の消失。
最後に見えたのは、城門の前で、ナイラ様が、城壁の上から、こちらを見下ろしている姿だった。
彼女は、手を、振らなかった。
ただ、銀の鈴を、片手に握って、もう片方の手を、自分の胸に、当てていた。
その姿が、ぼくの目の中で、白い光に、ゆっくりと、溶けていった。彼女のドレスの裾が、城壁の上の風に、わずかに翻った。彼女の銀色の髪も、風に流れた。それが、ぼくが、リシアで最後に見た光景だった。最後に見た光景としては、たぶん、この上なく、美しい光景だった。書き残せない種類の美しさで、ぼくは、それを、書き残せないまま、地球に持ち帰ることになった。
書き残せないものも、たぶん、ある。書き残せないものが、心の奥に沈んで、その人の、いちばん深い部分を、形作る。書き残せるものは、そのまわりに、いつでも、後から書き足せる。ぼくが、ナイラ様から教わった、たぶん、最後の、最も大事な教えだった。




