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二十三時四十七分の異世界転生 ――夜勤作業員、王国を掃く――  作者: もしものべりすと


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第十二章 二十三時四十七分の朝

二十三時四十七分。深夜のパーク中央広場で、ぼくは今日もまた、同じ場所に屈み込んだ。手帳を開く手は、もう震えていなかった。


「朝霧、お前、ほんと無事でよかったわ」


 班長が、後ろから、ぼくの肩を叩いた。


「あの台風の夜、フェンスの近くで気を失ってたんだろ。雷が近くに落ちたって。一週間、入院したんだもんな。この一週間、お前のいない夜のスイープ、めちゃくちゃ大変だったんだぞ」


「すいません、ご心配かけて」


 ぼくは答えた。


 帰還して一週間。世界は、なにひとつ変わっていなかった。


 ほんとうは、変わっていてほしかった。鶴丸さんが、急に立派な人間になっていてほしかった。班長が、ぼくに昇進の話を持ってきてほしかった。世界が、ぼくの不在の一週間で、わずかに、ぼくに優しい場所になっていてほしかった。けれど、世界は、そんなことは、しなかった。世界は、ぼくのいない一週間も、ぼくのいた三年間も、変わらず、回り続けていた。


 たぶん、それで、いいのだった。


 世界が、ぼくの都合で変わるなら、世界は、たぶん、誰の都合でも、変わってしまう。世界が、誰の都合でも変わらないからこそ、ぼくは、自分の手で、自分の世界を、整えることができる。整えることに、意味がある。意味がない世界に、ぼくは、リシアでは、辿り着けなかった。


 ぼくが落雷で気を失ってから、救急車で病院に運ばれて、検査入院を経て、退院して、出勤するまで。同僚たちにとっては、ただそれだけの一週間だった。誰も、リシア王国を知らなかった。誰も、ナイラ様を知らなかった。フィンも、カルロも、セレスも、誰も知らなかった。


 病室の天井は、白かった。蛍光灯の光は、規則正しく、無機質に、ぼくを照らしていた。点滴の管が、左腕に刺さっていた。看護師が、定期的に来て、ぼくの瞳孔を懐中電灯で照らした。ベッドの脇のテーブルには、職場から差し入れられた、栄養ドリンクの瓶と、菓子折り。「お大事に」というメッセージカードが、菓子折りに添えられていた。班長と、同僚数人の名前が書かれていた。鶴丸さんの名前は、無かった。


 夜中、看護師が部屋を出ていった後、ぼくは点滴の管を片手で押さえながら、病室の窓から、東京の夜景を見た。空は、星が、ほとんど見えなかった。代わりに、地上から、無数の人工の灯りが、立ち昇っていた。マンションの窓の灯り。コンビニエンスストアの看板。タクシーのテールランプ。それは、リシアの夜の灯りとは、量も種類も違っていた。けれど、根っこにある感じ──誰かが、誰かのために、灯りを灯しているという、その手応え──だけは、たぶん、同じだった。


 ぼくは、左ポケットに手を入れた。銀の鈴が、そこにあった。


 病室で、ぼくは何度も、ポケットに手を入れた。そこには、銀の鈴が、一つ、残っていた。リシアでナイラ様から受け取った、王家の紋章が極小に刻まれた鈴。最初に夢幻ファンタジアのコインロッカーで拾った鈴は、ぼくが彼女に渡した。だから、地球には、王家の紋章の入った鈴だけが、ぼくと一緒に戻ってきた。ふと指で文様をなぞるたび、たしかにそれが、ぼくの一部だったと、確かめられた。


 夢でも幻でもなかった。


 ぼくは、深夜の中央広場で、班員たちと横一列に並んだ。北端から南端へ。ラインスイープ。三年間、毎晩、繰り返してきた仕事。


「朝霧、お前さあ」


 鶴丸さんが、左隣で言った。日焼けした腕。ハーフパンツ。私服みたいな仕事着。何も変わっていなかった。


「まだそんなのつけてんの。出世しないぜ」


 ぼくは、彼の方を、見た。


 まっすぐに、見た。


 彼は、少し、面食らった顔をした。たぶん、これまでの三年で、ぼくが彼の目を、こんなふうに見返したことが、なかったからだろう。


「鶴丸さん」


 ぼくは、静かに言った。


「記録があるから、ぼくらは前に進めるんですよ」


 鶴丸さんは、口を開けて、何かを言いかけた。けれど、何も言えずに、視線を逸らした。彼は、それから、班長に呼ばれて、別のポジションに移っていった。


 ぼくは、彼の背中を、見送った。何の感情もなかった。怒りも、勝利感も、許しも、何もなかった。ただ、ぼくは、もう、彼の目線で自分を測ることを、やめていた。


 たぶん、彼は、明日もまた、ぼくをからかうだろう。何度でも。彼の人生のすべてを変えるほどの一言を、ぼくが返したわけではない。彼は、彼のままだった。けれど、ぼくは、ぼくの中で、もう、変わっていた。彼の声が、ぼくの中に届く面積が、たぶん、半分以下になっていた。それで、十分だった。世界全体は変わらなくていい。ぼくの中の小さな世界だけ、変われば、それで、ぼくは、生きていける。


 班長が、ぼくの肩を、軽く叩いた。


「朝霧、今夜は、頑張りすぎないでな。お前、まだ復帰したばっかりだから」


「はい、ありがとうございます」


 ぼくは、答えた。


 班長は、頷いて、自分の持ち場に戻っていった。班長の優しさは、いつも、こういう、何気ない一言で表れる。彼の手帳には、班員一人一人の体調が、たぶん、ずっと、記録されていた。彼もまた、ぼくと同じ、書いて忘れない側の人間だった。三年間、ぼくは、それに、半分しか気づいていなかった。今夜、ぼくは、もう半分にも、ようやく、気づいた。


 ぼくは、いつかこの班長と、ゆっくりお茶を飲みに行きたい、と思った。地球の、安いカフェで、コーヒーを一杯だけ飲んで、班長の手帳を、見せてもらいたい。もし、彼が、見せてもいい、と言ってくれるなら。彼が、長年、誰にも見せずに書き続けてきたものを、ぼくは、たぶん、敬意をもって、読みたい。それは、ぼくの手帳を、リシアの誰かに、敬意をもって読んでもらった経験の、お返しだった。


 スイープが進んだ。


 コインロッカーの隙間で、ぼくは何かに気づいた。タブレットを構えた、新人のアルバイトの女の子が、こちらに駆けてきた。


「朝霧さん!」


 彼女の名前は、まだ、覚えていなかった。先週入ったばかりの、夜勤要員。十九歳くらい。長い茶色の髪を、後ろで一つに結んでいた。


「これ、どうしましょう。コインロッカーの隙間で、誰かが落としたみたいで」


 彼女が、両手のひらを開いた。


 その上に、小さな銀色の鈴が、一つ、乗っていた。


 ぼくは、その鈴を、ゆっくりと受け取った。


 同じ形。同じ大きさ。同じ、少しくすんだ銀色。手のひらの上で、それは、わずかに重みを持っていた。


「これ、誰のですかね?」


「いい持ち主のところに、届けるよ」


 ぼくは、答えた。


「持ち主が、どこにいるか、ぼくには分からないけど。でも、いつか、誰かが、この鈴を必要とする時に、届くようにしておこう」


 新人の女の子は、不思議そうに頷いた。それから、ぼくの方を、もう一度、見た。


 彼女の目には、何かを期待する光が、わずかに、あった。それは、たぶん、研修で読んだぼくのメモを、書いた当人と話せた、その小さな喜びの光だった。ぼくは、その光を、見た。見て、それを、記憶しようと、思った。たぶん、ぼくは、これから先、何度も、その光を、思い出すことになる。


「あの、朝霧さん」


「何?」


「私、最初の研修で、朝霧さんが新人に渡してる、巡回ルートのメモを、もらいました。あれ、すごく、分かりやすかったです」


 彼女は、エプロンのポケットから、ぼくが書いた手書きのメモを、半分折って、大事そうに取り出した。


「私、これを書いた人が、どんな人なのか、ずっと気になっていて。今日、初めて、お話できて、嬉しいです」


 ぼくは、何か言おうとして、言葉が見つからなかった。


 彼女の手の中の紙は、ぼくが、たぶん一年前に書いた、雑な手書きの図だった。何枚も同じものを書いて、新人が入るたびに、無造作に渡していたものだった。


 そんな紙を、エプロンのポケットの一番奥に、たたんでしまっていた人が、いた。


 ずっと、いた。


 ぼくが、気づいていなかっただけで。


 ぼくは、深く息を吐いた。


 その瞬間、ぼくは、フィンの言葉を、思い出していた。「お前みたいな男が、ずっと世界を支えてきた。誰にも、見られんで、な」。フィンは、見ていた。書記のベルティンも、見ていた。セレスも、カルロも、ナイラ様も、見ていた。それから、たぶん、班長も、見ていた。今、目の前のこの新人の女の子も、見ていた。


 誰にも見られていない、というのは、ぼくの思い込みだった。たぶん、誰にも、ずっと、見られていた。ただ、ぼくが、見られていることを、信じる勇気を、持っていなかっただけだった。


 ぼくは、リシアで、自分の仕事を、誰かに見られて、初めて、自分自身も、自分のことを、見ることができるようになった。それまでは、見ない方が、楽だった。見ないことで、卑屈さの中に、安住できた。


 今夜、ぼくは、目を開けて、自分を見ていた。


「ありがとう」


 ぼくは言った。


「あの紙、明日、もう少し丁寧に書いた、新しいバージョンを、君に渡すよ」


 新人の彼女は、嬉しそうに頷いた。彼女の頷き方は、不思議なほど、セレスに似ていた。


 彼女は、軽く会釈をして、別のポジションに走り去った。茶色の髪の毛先が、深夜の照明に、ほんの一瞬、淡く揺れた。


 ぼくは、彼女の小さな背中を見送った。


 あの頷き方を、ぼくは知っていた。あれは、自分の仕事を、誰かに初めて受け止めてもらえた人間の頷き方だった。リシアでセレスが、ぼくの書いた紙を、エプロンの一番奥にしまった、あの仕草と、たぶん、同じ種類のものだった。


 地味な仕事を、誇らしげに抱える人が、ここにも、たぶん、もう一人、増えた。


 彼女が、明日、どんな新人になるのかは、ぼくには分からない。三年後、五年後、彼女は別の職場に移っているかもしれない。それでもいい。ぼくが書いた紙の一枚が、彼女のポケットの一番奥に、もう少しだけ残るのなら、それでいい。


 ぼくは、その紙を、明日、もう少しだけ、丁寧に書こうと、決めた。


 スイープが終わった。中央広場の大時計が、また、二十三時四十七分を、指していた。


 ぼくは、控室に戻る前に、広場の隅で、空を見上げた。空は、東京の夜空で、星はほとんど見えなかった。けれど、夜の上の方、ぼんやりと一つ、痩せた月が、雲の隙間から、覗いていた。


 手帳の最後のページを、ぼくは、開いた。


 そこには、リシアから帰ってくる前に、書き加えていた一行があった。


 日付の代わりに、雷の絵。それから、リシアの文字を、まねて書いた、たぶん間違っているけれど、それでもぼくが書きたかった一行。


「掃くことは、世界を救うことだ。──ナイラ・エルディーナ」


 彼女が、最後に、ぼくに言った言葉だった。


 それから、ぼくは、新しい行を書き加えた。


「明日、新人に、新しい巡回ルートのメモを渡す。彼女の名前を、明日、ちゃんと聞く」


 ぼくは、手帳を、閉じた。


 ポケットの中で、二つの鈴が、互いに、わずかに、触れた。ちりん、と、ほんとうに小さな音がした。誰にも聞こえないくらい、小さな音だった。けれど、ぼくの耳には、はっきりと、聞こえた。それは、二つの世界の合図だった。一つの鈴は、ぼくの過去から、もう一つの鈴は、ぼくの未来から、ぼくの今、ここで、出会っていた。


 ぼくは、深夜のパークの中央広場の真ん中で、ゆっくりと、息を吐いた。空気は、相変わらず、綿菓子の残り香と、ポップコーンの油の匂いだった。三年間、ぼくが、毎晩嗅いできた、変わらない匂い。けれど、その匂いの中で、ぼくの中の何かが、確かに、変わっていた。


 ぼくは、自分の仕事を、誇りに思っていた。


 誇りに思う、と、声に出して言ったわけではなかった。誰かに、認めてほしいわけでもなかった。ただ、ぼくは、毎晩同じ場所で、同じ手順で、同じ仕事を続けてきた。それが、何も生み出さない仕事ではなかったことを、ぼくは、もう、知っていた。


 遠い世界で、ぼくの仕事は、王国を救った。


 近い世界で、ぼくの仕事は、明日、新人の女の子に、メモを一枚、丁寧に書いて渡すことになる。


 遠い、と、近いの、どちらも、たぶん、同じ重さだった。


 いや、ほんとうは、近い方が、たぶん、重い。リシア王国を救ったぼくの仕事は、たぶん、もう、ぼくの手元には残らない。ナイラ様が、セレスが、カルロが、それを引き継いでくれる。ぼくは、もう、そこに、いない。けれど、地球の、明日の、新人の女の子に渡すメモは、ぼくが、自分の手で、書く。書いた紙が、彼女のエプロンの一番奥に、しまわれる。彼女が、いつか、別の新人に、それを渡すかもしれない。渡さないかもしれない。それは、ぼくの預かり知らないところで、続いていく。


 続いていく、ということが、たぶん、生きるということだった。


 ぼくは、それを、リシアで、教わった。


 班員たちが、控室に向かって歩き始めた。誰かが、誰かに、何かを話している声が、夜の空気の中で、笑い声に変わった。それが、誰の笑い声か、ぼくにも分からなかった。ただ、その笑い声が、生きている人間の声であることだけは、確かだった。


 ぼくは、班員たちのいる控室の、温かい灯りに向かって、歩き始めた。


 深夜の灯りが、ぼくの背中を、後ろから、ゆっくりと、照らしていた。


 二十三時四十七分が、ぼくの横を、通り過ぎていく音が、世界のどこかで、たぶん、聞こえていた。


 遠いリシアの、城下の灯りも、たぶん、夜風の中で、いまも、ともされ続けている。それを、ぼくは、信じていた。信じる根拠は、ポケットの中で、わずかに鳴る、二つの鈴の音だけだった。それで、十分だった。


 歩きながら、ぼくは、ふと、夜空を、もう一度、見上げた。雲の隙間から、月が、こちらを見ていた。地球の月だった。リシアの月とは、たぶん、違う月だった。けれど、月は、月だった。何百光年離れていても、人間が見上げれば、月は月の顔をしている。それは、たぶん、ぼくが、地球とリシアの両方で、確認したことだった。


 控室の扉が、ぼくの目の前で、開いた。


 灯りが、漏れてきた。蛍光灯の白い光。誰かの笑い声。コーヒーメーカーが、最後の一杯を抽出している、ぽたぽたという音。世界の、ささやかな、夜の灯り。


 ぼくは、その光の中に、足を踏み入れた。


 そうして、二十三時四十七分の物語は、終わった。


 いや、終わらなかった。明日も、明後日も、その先も、ぼくは、たぶん、同じ場所で、同じ手順で、同じ仕事を続ける。それは、終わらない。終わらないことが、生きる、ということだった。


 ナイラ様の鈴が、ポケットの中で、もう一度、わずかに、鳴った。


 遠い場所で、誰かが、ぼくのことを、思い出してくれていた。それは、たぶん、ぼくの中の、いちばん深いところで、ずっと、続いていく、温かさになる。


 その温かさを、抱えて、ぼくは、明日も、夜のパークを、整える。

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