第六章 カスケードの夜
第二波が来た夜、ぼくは生まれて初めて、自分の小さな手帳が誰かの命を救うところを見た。
ツルムがリシアを去って三日後、ホード第二波の知らせが入った。第一波の三倍の規模。北の関所はすでに突破されていた。城下到達まで六時間。
ぼくは謁見の間に呼ばれて、軍議の末席に座らされた。
軍議の卓は、長方形の重い樫の木で出来ていた。卓の上には、リシア国の地図と、各方面の戦力配置を示す木製の駒が並べられていた。駒は、煤けた古いもので、たぶん、何代もの王の時代から使われ続けてきたのだろう。指揮官たちの手は、駒に触れる時、慣れた動きで、それを動かしていた。それは、戦いを、机の上の遊戯のように扱う、長年の習慣だった。けれど、駒の下に、現実の人間がいる。そのことを、忘れている人は、誰もいない。だから、空気は、重かった。
軍議は、はっきり言ってまとまっていなかった。総司令官は前王の弟である高齢の公爵で、戦術はすべて「正面からぶつかれ」で決まる人だった。若い指揮官たちは別の意見を持っていたが、誰も発言しなかった。空気がずっしりと重く、誰の表情にも諦めが滲んでいた。公爵は、年老いていて、髭は長く、目は半分閉じていた。たぶん、彼は、自分の人生で、もう一度、何か新しいことを学ぶ気は、なかった。「正面からぶつかれ」は、彼が四十年前に学んだ、唯一の戦術だった。彼は、それを、永遠に、繰り返し続けるつもりだった。
「掃除人殿」
ナイラ様が呼んだ。
「あなたの考えを聞かせて」
謁見の間が静まり返った。公爵が眉を吊り上げた。「異邦人の素人の意見など──」
「私の名で聞く。話せ」
ナイラ様の声は静かだったが、刃のように通った。ぼくは立ち上がった。膝が震えていた。
「ぼくは戦争の専門家ではありません。素人の意見ですが──」
ぼくは机の上に、夢幻ファンタジアのアトラクション緊急停止プロトコルの図を、手帳から起こして書いた。
「これは、ぼくの世界で、巨大な機械を急停止させる時の手順です。一気に止めると、機械にも乗っている人にも衝撃がかかりすぎる。だから、五段階に分けて、後ろから順に止めていく」
ぼくは図を指差した。
「ぼくらの城壁は、北側の第一防衛線、第二防衛線、第三防衛線、城門、内壁、と五層構造になっています。第一波の時は、第一防衛線で全部止めようとして、後ろが空っぽでした。でも、第二波は止められない。波の方が強い」
「では、どうしろと」
公爵が苛立たしげに言った。
「最初から、止めない、というのが提案です」
ぼくは続けた。
「第一防衛線では、敵を一定数倒したら、即座に後退する。後退した部隊は第三防衛線まで下がって、休息と矢の補給を受ける。第二防衛線が交代で前に出る。これを順番に、後ろからカスケードで繰り返す。波を、止めるのではなく、流す。そして時間を稼ぐ。日が昇れば、魔物は弱くなるとフィンさんから聞きました。朝までの五時間を凌げばいい」
軍議の卓に、しばらく沈黙が落ちた。若い指揮官の一人が、駒を見つめながら、何かを考えている顔をした。彼は、口の中で、ぼくの言葉を、たぶん、何度か、繰り返していた。「波を、止めるのではなく、流す」。それは、彼にとって、たぶん、新しい思考の枠組みだった。
別の指揮官が、勇気を出して、口を開いた。
「閣下。私は、整え師殿の案に、賛成します。我が部隊の損耗を考えれば、第一防衛線で全力で受け止める戦法は、もう、続けられません」
「私も、賛成です」
もう一人。
「私も」
三人。四人。若い指揮官たちが、次々と、声を上げた。彼らは、たぶん、長い間、何かを言いたくて、言えなかった人々だった。今、誰かが、言葉の枠組みを与えてくれた。彼らは、その枠組みに、自分の意見を、ようやく、乗せることができた。
公爵は反対した。「軍人の沽券に関わる、退却を前提とした戦術など──」
「公爵」
ナイラ様が短く言った。
「私の名で命じる。掃除人殿の案を採用する」
彼女は公爵を見据えた。それから、ぼくに視線を戻した。
「カルロを、現場指揮官に立てなさい。整え師殿の指示を、現場で兵に翻訳できるのは、彼くらいだから」
ぼくはカルロと、夜半の城壁に立った。
夜風は氷のように冷たかった。北の地平線で何かが燃えている。それが街の灯りでないことは、明らかだった。ホードの先鋒だ。
「カルロさん」
「カルロでいいですよ、朝霧殿」
「カルロ。手順を確認します。第一防衛線、午後十時から十一時。倒した数より、時間で交代します。鐘が鳴ったら、たとえ勢いに乗っていても撤退してください。これが一番大事です」
「分かりました」
「第二防衛線、十一時から零時。第三、零時から一時。それから、城門で食い止め、内壁で最終防衛。各部隊の入れ替えは、合図はホイッスルで」
ぼくはポケットから業務用ホイッスルを取り出した。班長が持たせてくれた、夢幻ファンタジア支給の銀色のホイッスル。これで、夜のパークでも合図が遠くまで届いた。
「これを、各防衛線の指揮官にお渡しください。三十秒間隔で吹けば後退の合図、五秒一回で前進の合図」
「あなたは何処に」
「物資集積所の指揮を、フィンさんと一緒に。後方支援は、ぼくの方が向いています」
カルロは敬礼した。彼の敬礼は、初めて会った時より、ずっと真っ直ぐだった。
カスケード防御は、機能した。
夜半から夜明けまでの六時間。各防衛線が順次後退と再前進を繰り返し、波を流し、時間を稼いだ。負傷者は出たが、戦死者は最小限に抑えられた。物資集積所からは、傷薬と矢が、セレスの仕切りで途切れずに送られた。
ぼくは、物資集積所の二階の窓から、戦況を眺めていた。夜空には満月が出ていて、月光が城壁の白い石を照らしていた。城壁の上を、兵士たちのシルエットが、時計の歯車のように、規則正しく動いていた。第一防衛線が後退すると、第二防衛線が前に出る。第二が下がれば、第三が出る。この動きが、決して止まらない。鎖の輪が、滑らかに回り続ける。それは、地球の工場のラインのようでもあったし、夢幻ファンタジアの開閉時間のローテーションのようでもあった。違うのは、ここでは、輪の一つが止まれば、人が死ぬということだけ。
夜空に、何度か、紅い火球が打ち上がった。魔術師の攻撃だった。ぼくはそれを、初めて見た。火球は弧を描いて、魔物の群れの中央に落ちた。地面が一瞬、明るくなり、それから、もくもくと黒煙が上がった。火属性の魔法というものが、本当に存在することを、ぼくはその夜、確認した。
それでも、戦いの本質は、魔法ではなく、ローテーションと補給だった。前線で剣を振る兵は、三十分で交代する。交代した兵は、後方で水を飲み、矢を補充し、傷を手当てする。それから、また前に戻る。この回転を切らさないこと。それが、勝利と敗北の境界線だった。
夜明けの陽光が、雪を被った北の山脈の頂を金色に染めた頃、ホードの波は引き始めた。日光に弱いという伝承は、本当だった。
その夜、王城で簡素な祝宴が開かれた。
大広間の長卓には、薄いシチューと黒パン、塩漬けの肉、それから普段は飲まない葡萄酒の樽がひとつ、空けられた。前王の弟である高齢の公爵は欠席だった。彼は、ぼくの戦術が採用されたことを、まだ受け入れていないらしかった。広間は、人数が少ないせいで、声が高い天井に響いた。誰かが琴に似た楽器を弾き始めた。古い民謡のような旋律。ぼくはその旋律を知らないはずなのに、なぜか胸の奥が、わずかに、揺れた。
ぼくは隅の席に座っていた。ナイラ様が、思いがけずぼくの隣に席を移してきた。彼女のドレスから、薄いラベンダーのような香りがした。
「整え師殿」
「ナイラ様」
「あなたは、ただの掃除人ではない」
彼女は言った。
「あなたの世界では、何故、それが評価されないの」
ぼくは、グラスの中の薄い葡萄酒を見つめた。本当に薄かった。地球のどの安ワインより薄かった。それでも、その色は美しかった。
「評価されない仕事だから、誰もやらないんです。誰もやらないから、いつか必要になる。必要になった時に、たまたまやっていた人間が、その仕事を続けるんです。そういう仕事です」
ナイラ様は、しばらく黙った。それから、自分のグラスをぼくのグラスに、小さく当てた。
「あなたの世界の、その仕事に。乾杯」
ぼくは初めて、自分から笑顔を見せた気がした。乾杯のグラスの音が、広間の喧騒の中で、ぼくとナイラ様だけにしか聞こえない、静かな音だった。彼女の頬が、葡萄酒のせいか、ほんのわずかに紅くなっていた。それを見たぼくも、自分の頬が温かくなるのを感じた。それは、たぶん、葡萄酒のせいではなかった。
夜が更けて、宴が終わった頃、フィンがぼくの肩に手を置いた。
「お前、よくやった。だが、これは前哨戦だ。本物のホードはまだ来ていない。そして、ハルガルは、何かを企んでいる」
「分かっています」
「お前の手帳に、ハルガルの陣形図、入手したと書いてあったな。あれを、明日、よく見比べろ。何かが、引っかかる気がするんだ」
ぼくは頷いた。眠気が体の芯まで染み込んでいて、その夜は手帳を広げる気力がなかった。
それを後悔することになるのは、もう少し後のことだった。




