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二十三時四十七分の異世界転生 ――夜勤作業員、王国を掃く――  作者: もしものべりすと


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第五章 隣国の影

その男が城門をくぐった瞬間、ぼくの背筋を冷たいものが走った。顔も、声も、笑い方も、肩のすくめ方も、ぼくが知っているはずのない男のはずだった。


 ホード第一波から五日後の、よく晴れた朝だった。空は薄い青で、城壁に登れば北の山脈の雪冠が遠くに見えた。隣国ハルガル王国の外交使節が、十二人の従者を連れて到着した。先頭に立つのは、長身に紫紺のマントを羽織った、四十手前くらいの男だった。


 馬列が城門をくぐる時、城下の人々はみな、家の中に引っ込んでいた。子どもたちでさえ、母親に手を引かれて、窓の鎧戸を閉じた。馬の蹄が石畳を打つ乾いた音が、不気味なほどよく響いた。隣国の使節は、本来であれば歓迎されるべきものなのに、リシアの民の本能は、何かを察知していた。来てはいけない来客が、来てしまった、という直感。


 使節の馬の毛並みは、艶やかだった。装備は、リシアの兵のものとは比較にならないほど、整っていた。鎖帷子は均整がとれていて、剣の柄には宝石が嵌め込まれていた。富裕な国の軍隊だ、とぼくはすぐに見てとった。リシアとは、生産力も国力も、たぶん、桁が違う。


 ツルム伯爵。ハルガル王の宮廷貴族。隣国の外交責任者。


 彼が城門をくぐる時、片方の眉を上げて、もう片方の口角を歪めた。それは、ぼくが過去十年、毎日のように見てきた表情だった。


 鶴丸さんと、同じ顔だった。


 顔立ちが似ているとか、雰囲気が近いとか、そういう生易しいものではなかった。鼻筋の角度。耳たぶの形。襟元のしわの寄り方。歩く時の右肩の沈み方。声の高さ。喉仏の動き。瞬きの間隔。すべてが、ぼくの先輩、鶴丸の複製だった。


 ぼくは謁見の間の隅に控えていた。震えが止まらなかった。手帳を持つ指の関節が白くなった。


 目の前で起きていることを、ぼくは、半分しか、信じられなかった。鶴丸さんが、こんなところに、いるはずがない。けれど、目に映る男は、間違いなく、鶴丸さんだった。少なくとも、鶴丸さんと、同じ何かで出来た男だった。それは、顔の細部が似ているとか、声が似ているとか、そういう次元を超えていた。彼は、鶴丸さんと、同じ「種類」の人間だった。世界が違っても、たぶん、ある種の人間は、同じ「型」で量産される。マニュアルを馬鹿にし、地味な仕事を見下し、声の大きい者が勝つ世界の住人である、という、その「型」が。


 ぼくの体は、その「型」を、本能的に、認識していた。震えが止まらないのは、たぶん、ぼくの体が、過去十年で、その「型」に何度も傷つけられてきたからだった。


「ナイラ王女殿下、お久しぶりでございます」


 ツルムは流麗に礼をした。声は、深く、よく通り、わずかに鼻にかかっていた。鶴丸さんの声と、同じだった。


「ハルガル王より、貴国のホード対応のお見舞いを申し上げます。我が国としては、リシア王国の苦境に深く憂慮しております」


「ご丁寧に、痛み入ります、伯爵」


 ナイラ様は冷静だった。ツルムは目を細めて、ぼくの方を見た。


「失礼ながら、王女様。あちらに控えている、見慣れぬ服装の男は」


「我が国の客人、朝霧殿よ」


「朝霧、殿。素晴らしいお名前だ」


 ツルムはぼくに向かって微笑んだ。微笑みの裏側で、何か計量している目つきだった。


「お名前は、ホードを退けたという『整え師』殿、ということでしょうか」


「世の噂は、いつでも誇張されるものでございます、伯爵」


「ええ、誇張、ですか」


 ツルムは笑った。鶴丸さんが後輩のミスを見つけた時に出す、あの笑い方だった。


「マニュアル通りの動きで戦に勝てるとは、便利なものですな。実戦は、書かれていないことの連続。紙の上の手順では、人は死ぬのみ」


 ぼくは下を向いた。視界の端で、ナイラ様が眉をかすかに動かした。彼女は何かを言いかけたが、外交儀礼を理由に飲み込んだ。


「ハルガル王陛下からのご提案を、お持ちしました」


 ツルムは話題を変えた。それは、リシアとハルガルの間の交易協定の更新と、ハルガル軍の駐留──「防衛協力」名目での──提案だった。


 会議は二時間続いた。ぼくは末席で、出席を許されたが発言権はなかった。ただ、必死で記録を取った。手帳に、ツルムの提案の細部を、すべて書き写した。


 夜、ぼくは古い書庫に潜り込んだ。


 城の北塔の三階。蜘蛛の巣だらけの、ほとんど忘れられた部屋。フィンが教えてくれた。ここには、過去三百年分の外交記録と通商日誌が、無秩序に積み上げられている。


 ランプの油の煤の匂い。羊皮紙の獣のような匂い。インクの鉄錆の匂い。ぼくは、夜の闇に浸るような気分で、文書を一冊ずつ手に取った。読めない文字の中から、固有名詞だけを拾っていく。「ハルガル」「ツルム」。それだけを探した。フィンが朝に書庫番に頼んでくれて、文字の読める若い書記が一人、ぼくの隣に座って通訳をしてくれた。


 書記の若者は、ベルティンと名乗った。十九歳で、痩せて、眼鏡に似た木枠のレンズを鼻にかけていた。彼は最初、異邦人と仕事をすることに強い警戒を見せていたが、ぼくが文書を扱う手つきが慎重なのを見て、徐々に態度を和らげた。「あなた、本を、ものとして大事にする人ですね」と、彼は言った。「私の世界でも、誰かが何かを書くのは、たぶん、誰かに残したいから書いたんだと思います」とぼくは答えた。ベルティンは、そう言われて、しばらく自分の手元の文書を見つめた。それから、頷いて、ぼくと一緒に、もっと熱心に、文字を読み始めた。


 夜明けまでの六時間で、ぼくは三つの事実を発見した。


 一つ目。十二年前。北方の小国エルトラはハルガルと「防衛協力」の協定を結び、ハルガル軍が駐留した。半年後、エルトラは魔物の大波に襲われ、王族は全滅、領土は無主となり、ハルガルが「保護」した。


 二つ目。八年前。同じく北方の小国ヴェヌスでも、同じことが起きていた。協定、駐留、ホード、王族死亡、ハルガルの併合。


 三つ目。三年前。これが最も新しい事例で、最も明白だった。同じパターンが、東方のシリア公国で繰り返されていた。


 そして、三件すべてに、ツルム伯爵の署名があった。


 ベルティンが、書記の正確な目で、ぼくの発見を確認した。彼の指は、文書のページの上を、何度も、何度も、往復した。彼の鼻の上の眼鏡が、ランプの油の煤で、わずかに曇っていた。


「これは──」


 彼は、声をひそめた。


「公にできない発見ですよ、整え師殿。下手に外に漏らせば、あなたも私も、明日の朝までに死んでいるかもしれません」


「分かっています」


「ナイラ様だけに、お伝えしますか」


「ええ、そうします」


 ベルティンは、頷いた。それから、しばらく、黙って、ぼくを見た。


「整え師殿。一つ、聞いてもよいですか」


「はい」


「あなたは、なぜ、そんなに、書くことに、慣れているのですか」


 ぼくは、少し、考えた。


「書かないと、たぶん、ぼくは、誰にも信じてもらえないからです。書いておけば、後で見せられる。書いておけば、ぼく自身も、忘れない。そういう人間です、ぼくは」


 ベルティンは、しばらく、ぼくを見つめた。それから、薄く笑った。


「私も、です」


 彼は、自分の指を、軽く、震わせた。


「私もまた、書くことが、自分の存在の支えである、種類の人間です」


 ぼくは、頷いた。


 たぶん、世界が違っても、書く側の人間は、書く側の人間として、同じ仕草をする。それを、その夜、ぼくは知った。


 ぼくは手帳に、その三つの事例の日付と地名と署名者を書き込んだ。震える指で書いた。記録は、震える指でも書ける。書いてさえおけば、後で読み返せる。


 書庫を出ようとした時、廊下の角でぼくは硬直した。


 ツルムが立っていた。一人だった。彼は壁にもたれて、煙草に似た細長い葉を巻いた何かを吸っていた。煙の香りが、煙草とは違う、何か甘くて気だるい香りだった。


「夜更かしですな、整え師殿」


「あ……はい」


「お前」


 彼は煙を吐いた。


「見たことのある顔だな。陰気な目をしている。物事の隅っこを掃いて生きてきた人間の目だ。私は、その目を、何度も見てきた」


 ぼくの中で、何かが凍った。


「ところで、お前」


 彼は薄く笑った。


「お前、ハルガル王宮で働く気はないか? 給料は今の三倍出すぞ。リシアのような小国で身を捧げるより、よほど良い」


 ぼくは答えなかった。答えられなかった。手帳を握る手だけが、もう一度白くなった。


 ツルムは立ち去り際に、最後に振り向いた。


「考えておくがいい。お前の主人は、もうすぐ消える」


 その声は、低く、確信に満ちていた。雷雨の前の、空気の張り詰めた静けさに似ていた。

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