沈黙のゼロと狡猾な罠
「ハツ代さん!!」
無線越しの岩崎の絶叫と重なるように、パチンッ、とニッパーが赤い線を切断する乾いた音が響き渡った。
取調室の関川が天を仰ぎ、鈴原が息を呑む。爆発するか――。
「……あら?」
無線の奥から、ハツ代の間の抜けた声が聞こえた。爆発は起きなかった。
「切ったのに止まらないわよ? それどころか……ちょっと、数字の減りが早くなってない!?」
『何だと!?』
岩崎が叫ぶ。ハズレの線を切ったことで起爆回路がショートするのではなく、タイマーの進行速度が倍以上に跳ね上がったのだ。十五分あったはずの表示が、異常なスピードで十分、九分、八分と削られていく。
「ど、どうしよう! 早くなんとかしないと爆発する!」
有線回線の向こう側で、渋谷の内田が完全にパニックを起こした。
「こっちも切ります! 僕は真ん中のやつを……ッ!」
パチン。
制止する間もなく、恐怖に駆られた内田もまた、震える手で赤い線を一本切断してしまった。
「ひっ……! こっちもです! タイマーが狂ったみたいに早くなって……あと三分しかない!!」
二つの銀行で死のカウントダウンが倍速で進み始める。パニックを起こした行員たちの悲鳴が、スピーカー越しに取調室へと流れ込んできた。
「クソッ! 万事休すか……!」
関川が机を力任せに叩く。
だが、現場の岩崎だけは違った。
特殊部隊員としての彼の「直感」が、目の前の状況に強烈な違和感を抱いていた。
(……おかしい。プロの爆発物なら、間違った線を切った瞬間に『即起爆』させるのが定石だ。なのに、この爆弾はタイマーを早めるだけ……?)
「ハツ代さん!」
岩崎の声色が、鋭いものへと変わった。
「落ち着いて、私の言う通りに爆弾を観察してください。あなたが握っている『起爆装置のボタン』、そこから伸びている一番太い黒い線は、どこに繋がっていますか。さっき切った赤い線がある、時計の基盤ですか?」
「え、ええと……」
ハツ代が、老眼鏡をずらしながら爆弾に顔を近づける。タイマーはすでに残り一分を切ろうとしていた。
「違うわよ。ボタンから伸びてる黒い線は、その時計みたいな基盤には繋がってないわ。基盤の下を通って……奥にある粘土みたいな塊に、ブスッと直接刺さってるわよ」
「……ッ!!」
その報告を聞いた瞬間、岩崎は確信した。
『フェイクだ……!!』
岩崎が歓喜すら混じった声で叫んだ。
『警部! この爆弾は、時限装置では絶対に爆発しません! 時限装置と爆弾のコードが接続されていないんです! おそらく、起爆装置のボタンを押さない限り爆発しない構造です!』
「何だと……!」
関川が顔を上げ、すぐに渋谷のSITへ無線を飛ばす。「SIT! そっちも同じ構造か確認しろ!」
『内田さん! 黒い線の先を確認してください!』
『は、はい! ……ホントだ、時計の基盤には繋がってません! 粘土の塊に直接刺さってます!』
渋谷側の内田からも、泣きそうな声で同様の報告が上がる。
取調室でその無線を聞いていた栗原が、点けっぱなしになっていた壁のテレビを見上げて低く吐き捨てた。
「……そういうことか。犯人の狙いは、最初から時間通りに爆発させることじゃねえ。タイマーで極限まで焦らせ、耐えきれなくなった奴にボタンを押させるための、悪趣味な心理戦だ」
栗原はマイクから手を放し、ただ静かにスピーカーを見つめた。
狂ったように早鐘を打つ電子音が、取調室に響く。
『十、九、八……』
関川が祈るように目を閉じ、鈴原が唇を噛む。
『三、二、一……ゼロ』
…………。
完全な静寂。
爆破は、起きなかった。
電子タイマーの液晶が『00:00』のまま、虚しく点滅している。
「……と、止まった。爆発……してない……」
内田の震える声。直後、スピーカーの向こう側から、腰を抜かして泣き崩れる行員たちの安堵の嗚咽が、波のように広がっていった。
関川が机に突っ伏して深く息を吐き出し、鈴原が眼鏡を外して目頭を押さえた。栗原もまた、パイプ椅子に重く背中を預け、長く息を吐いた。
誰も死ななかった。犯人が仕掛けた悪魔の盤面を、現場の直感と勇気が打ち破ったのだ。
数時間後。イブニングニュースの時間帯。
都内で放送される八局のテレビ局のうち、七局までは安堵の空気に包まれていた。『日昇テレビ』をはじめとする各局は生還の喜びを強く打ち出し、二つの現場から解放された行員たちの歓喜の声を中継リレーで伝えている。
渋谷本店の中継でマイクを向けられた内田が涙ぐみながら安堵を語ったかと思えば、画面は横浜支店からの映像に切り替わり、ハツ代が「爆発しなくてよかったけど、もうこんな時間! 夕飯の買い物に行かなくちゃ!」とカメラの前を慌てて走り去る姿が映し出され、スタジオのキャスターたちが微笑ましい顔でそれを見守っていた。
だが、残りの一局――元々政府や警察への批判報道を売りにしている『日暮テレビ』だけは、全く論調が異なっていた。
彼らが意図的に映し出すのは、極度の緊張から体調を崩して嘔吐する者や、恐怖のあまり泣き崩れる者たちの姿ばかりだ。さらに、パニックに陥っていた一部の行員の「警察の特殊部隊が爆発物を処理するのが当たり前じゃないんですか!」という不満の声を切り取り、さもそれが現場の総合的な見解であるかのようにテロップで大きく報じ、警察の無能さを執拗に糾弾していた。
関川は不機嫌そうに舌打ちをし、苛立たしげに首をポキリと鳴らした。
だがその時、全球のテレビ局の画面が一斉に切り替わった。『緊急記者会見』のテロップと共に、無数のフラッシュを浴びて壇上に現れたのは、警視庁のトップ・警視総監の猿川だった。
細身のスーツを隙なく着こなし、光を反射する丸眼鏡の奥に、計算高く冷酷な光を宿した細い目。
関川はギリッと奥歯を噛み締めた。数時間前、電話越しで『却下だ』と吐き捨て、現場に全責任を押し付けようとした狡猾な男だ。
『――この度の事件において、多大なるご不安と混乱を招いたことを深くお詫び申し上げます』
猿川はカメラの前で深々と頭を下げた。そして、顔を上げてきっぱりと言い放った。
『まず第一に、犯人が首謀者として名指ししていた「栗原剛」氏についてですが……捜査の結果、彼の一件は全くの無実、濡れ衣であることが判明いたしました。現在、当人の安全確保のため、彼のご家族はすでに警察の保護下にあります。そして栗原氏当人におきましても、我々警察が責任を持って、文京区にある「大原警察署」にて身柄を確保し、安全に保護しております』
「……は?」
関川が、間の抜けた声を漏らした。
(文京区、大原警察署……ここじゃないか。なぜわざわざ、日本中に保護場所をバラす?)
画面の中で、猿川はさらに言葉を続ける。
『また、事件の関連性は未だ確定しておりませんが、先んじて大原警察署の近くにある商店が爆破された一件において、巡回中の捜査員が現場付近で「緑のフードを被った不審な男」を発見しております。現在、警視庁は本件に捜査官を全配備し、目下総力を挙げて当該容疑者の捜索に当たっております。都民の皆様にはどうかご安心いただきたい』
猿川は丸眼鏡を中指で押し上げ、そう締めくくった。
「おい、どういうことだ」
関川が動きを止め、画面を凝視する。
「俺たち現場の刑事に責任を押し付けるって話じゃなかったのか? さっき、俺たちの手で逮捕状を出させたばかりだぞ!? ……そうか、最初から栗原を『無実の悲劇のヒーロー』に仕立て上げ、この署に爆弾魔をおびき寄せるためのエサにするつもりだったんだな……!」
横に座っていた鈴原が、ノートPCをパタンと閉じ、氷のように冷たい声で言った。
「……やってくれましたね。猿川の野郎、犯人の本当の狙いが分かりますよね?」
「……栗原、だろうな」
関川は栗原を見た。
日本中の警察を出し抜き、二つの銀行を人質に取った、異常な執念を持つ爆弾魔。そいつの唯一の目的は、栗原剛という男を破滅させることだ。
そして今、狡猾な警視総監は、テレビカメラを通じて日本中の人間――すなわち、逃走中の犯人に教えたのだ。
『栗原剛は今、文京区の大原警察署にいる』と。
しかも、「捜査官を全配備して外を捜索中」ということは、現在この大原警察署の周辺警備は完全に手薄になっているということだ。
「……やりやがったな、猿川」
関川の顔から血の気が引いた。
「俺たちを切り捨てるどころか……狂った爆弾魔の矛先を、この署に向けさせる気だ」
関川は忌々しそうに、震える声で吐き捨てた。
「ここに来るぞ……ッ!!」
その言葉が取調室に響き渡った瞬間。
署の外から、パトカーのサイレンとは違う、ひどく不穏なブレーキ音が連続して聞こえ始めた。




