十九時十分の来訪者
場面は変わり、文京区・大原警察署の一階エントランス。
銀行での前代未聞の立てこもり事件、そして栗原警部補の疑惑がひとまずの決着を見せ、署内の空気は独特の弛緩に包まれていた。
先ほどの警視総監の記者会見を受け、大原署にいた人員のほとんどは「緑色のフードの男」を捜索するため、あわただしく外へと駆り出されていった。現在、署内に残っているのは、事後処理と片付けに追われる数名の署員だけである。
ロビーの壁掛けテレビでは、十八時から特番扱いで放送されていたイブニングニュースが終わり、和やかなBGMと共に「来週の星座占い」が流されていた。
壁の時計の針は、十九時十分を指している。
自動ドアが開き、夜の冷たい空気と共に、三人の男たちが署内へ入ってきた。
二人の屈強な中年男性に両脇を抱えられるようにして連行されてきたのは、うつむき加減の、まだ十八歳ほどのひょろりとした少年だった。
「すいません! こいつ、道端で急に俺たちに殴りかかってきたと思ったら、へなへなと座り込んで抵抗しなくなったんですよ!」
息を切らした中年男性の一人が、当直窓口に向かって声を荒げる。
「薬でもやってるのか、気味が悪くて連れてきました! しっかり調べてやってくれ!」
その騒ぎを聞きつけ、奥から二十代の女性署員である田中と鈴木が出てきた。
「落ち着いてください。お怪我はありませんか? 詳しい事情をお聞きしますので、あなた方お二人はこちらの別室へどうぞ」
田中と鈴木は、興奮冷めやらぬ中年男性二人を宥めながら、ロビー横の事情聴取室へと案内していく。
そして、一人ロビーに残された少年の対応にあたったのは、当直窓口に座っていた柳瀬だった。五十代で白髪交じりの頭髪、制服のベルトに腹の肉が乗った中年太りの男だ。昔気質で、常に相手を見下したような高圧的な態度をとることで署内でも煙たがられている。
「おい、こっちに来い」
柳瀬は顎でしゃくり、少年を窓口前のパイプ椅子に座らせた。バインダーとボールペンを手元に引き寄せ、面倒くさそうに溜息をつく。
「……で? 何があったんだ、お前。自分から喧嘩売ったのか?」
柳瀬が太い声で尋ねる。
少年は、うつむいたまま、ボソボソと呟いた。
「……すみません」
「あ? 聞こえねえよ。何があったって聞いてんだ」
「すみません……。すみません……」
少年は壊れたレコーダーのように、ただ抑揚のない声で謝罪の言葉を繰り返すだけだった。
(チッ……面倒くせえガキだ。まあいい、さっさと自供させて調書巻いて終わりにすっか)
柳瀬は少年の態度を「おびえて自供を始めた」のだと勝手に解釈し、舌打ちをしながら調書の作成に意識を向けた。
「おい、名前と年は。どこに住んで――」
ガタッ、と。
パイプ椅子が乱暴に鳴る音がして、柳瀬は顔を上げた。
少年がおもむろに立ち上がっていた。
「……すみません」
少年の口から、また同じ言葉がこぼれる。だが、その顔は先ほどまでとは全く違っていた。
目は三日月のように細められ、口角は耳元まで裂けんばかりに吊り上がっている。何の感情も読み取れない、異様な「満面の笑み」を浮かべていたのだ。
「……あ? なんだお前」
柳瀬は背筋にゾクッと冷たいものが走るのを感じたが、それを誤魔化すようにバンッと机を叩いた。
「座れ! なにニヤニヤしてんだ、気持ち悪い野郎だな!」
恫喝する柳瀬の目の前で。
少年は不敵な笑みを顔に貼り付けたまま、着ていた分厚いダウンジャケットのジッパーに手をかけ、一気に下へと引き下げた。
ジャケットの内側。
少年の胴体には、黒い粘土状のブロックが何重にも巻き付けられ、無数の導線が這い回っていた。そして彼の手には、小さな起爆スイッチが握られている。わざと殴りかかり、無抵抗で連行されることで、警察署の内部に「爆弾」を運び込んだのだ。
柳瀬の目が驚愕に見開かれ、喉から悲鳴が上がるよりも早く。
少年は、満面の笑みで、そのスイッチを押し込んだ。
ドォォォォォォンッ!!!
凄まじい閃光と爆風が、大原警察署の一階エントランスを跡形もなく吹き飛ばした。
窓ガラスが粉々に砕け散り、コンクリートの破片が夜の通りへと散弾のように降り注ぐ。星座占いの陽気な声は、鼓膜を破るような轟音と立ち上る黒煙の中に、一瞬で掻き消された。
同じ頃、署の奥にある取調室。
足元を突き上げる巨大な地震のような衝撃と轟音に、関川が叫び、鈴原が床に伏せた。
「な、なんだッ!?」
関川が身を起こし、取調室の扉をバンッと開け放つ。
廊下の奥、エントランスがあるはずの方角から、もうもうと黒煙が立ち上り、火災報知器のけたたましいベルが鳴り響いていた。
「……関川さんッ!!」
鈴原が眼鏡を押さえながら立ち上がり、関川の背中を追う。
二人の刑事は、栗原を取調室に残したまま、地獄と化した署の入り口へと全速力で駆け出していった。




