五本の赤い線
『生きて、家族の待つ家に帰るんだ』
スピーカーから響いた「鈴原」と名乗る刑事の熱を帯びた言葉は、パニックに陥っていた行内を一時的に静まり返らせた。
だが、その沈黙はすぐに、泥のような疑心暗鬼へと変わっていった。
「……待てよ。昨日や今日、テレビでずっと言ってたじゃないか。今回のテロの首謀者である『教祖様』は、警察関係者だって」
渋谷本店のロビーで、一人の男性行員が震える声で呟いた。
「犯人は、そいつの解放を求めてるんだろ!? つまり警察の中にテロリストの仲間がいるってことじゃないか! そんな奴らの言うこと、本当に信じていいのかよ!」
その言葉は、横浜支店でも全く同じようにさざ波となって広がっていた。
「罠かもしれない……! 爆弾を探すふりをして、俺たちを吹き飛ばす気だ!」
「嫌だ、動きたくない!」
極限状態での警察への不信感。誰もが疑心暗鬼に囚われ、足が竦む中。
渋谷本店で、一人の若者がスッと立ち上がった。黒縁眼鏡をかけ、短髪で清潔感のある若手行員・内田だ。
「警察が信じられないなら、なおさら自分たちで探すしかないでしょう!」
内田は血走った目で同僚たちを怒鳴りつけた。「向こうの支店を吹き飛ばしたって、きっと僕らも死ぬ! 探しましょう!」
彼は震える足を叱咤し、有線電話を取って外のSIT(警視庁特殊犯捜査係)との通信を自ら繋いだ。
一方、横浜支店。
こちらで沈黙を破ったのは、清掃員の制服を着た小柄な女性だった。
「馬鹿言ってんじゃないよ! 疑ってる暇があったら、その節穴みたいな目ん玉見開いて探しなさいな!」
勇猛果敢に声を張り上げたのは、くるくるパーマの掃除のおばちゃん・ハツ代だった。
「爆発したら警察が悪いとか言ってる場合じゃないの! 私は今日の夕飯の買い物に行かなきゃいけないんだからね!」
ハツ代もまた有線電話をひったくり、外で待機している神奈川県警SIS(特殊捜査班)との通信を繋ぐ。
内田とハツ代の行動に背中を押されるように、二つの銀行で、行員総出の決死の爆弾捜索が始まった。
時を同じくして、東京の取調室。
コンコン、と控えめなノック音が響き、一人の若い捜査員が部屋に入ってきた。彼は無言で関川に一枚の紙を手渡すと、逃げるように退室していく。
関川はその紙を受け取ると、パイプ椅子に座る栗原の前の机に、ペラリと放り投げた。
「逮捕状だ」
関川は、ひどく疲れた顔で、皮肉を込めて笑った。
「すまんな。事務手続き上どうしても必要で、バタバタしてたから中々用意できなかったんだ。……これでお前も、正式な容疑者だな」
日本中を巻き込む連続爆破テロの首謀者『教祖・栗原剛』。
今、まさに何百人もの命を救うために現場の説得を行っている男が、書類上は「この事件の最大の容疑者」として逮捕されたのだ。あまりにも滑稽で、最悪なブラックジョークだった。
「……遅えよ」
栗原は逮捕状を一瞥すると、フッと鼻で笑い、リモコンを取って壁のテレビの電源を入れた。
横浜と渋谷の現在の状況を知るためだ。
画面には、夜闇に包まれた銀行を遠巻きに映す空撮映像が流れていた。銀行の周囲は赤色灯で埋め尽くされ、規制線の外側には野次馬と報道陣が群がっている。
『――ご覧ください! 警察は電波遮断構造と起爆のルールの前に、未だ突入できずにいます! そして現在、なんと銀行内に閉じ込められた行員たちの手によって、爆弾の捜索と除去が始まろうとしているとのことです!』
ヘリコプターからの騒がしい中継の声。
そして画面の右下には、悪趣味な赤いテロップが点滅していた。
『同時爆破まで 残り30分00秒』
「……胸糞悪いショーだ」
鈴原が忌々しそうに眼鏡を押し上げる。
メディアはもはや、この悲劇を消費するための娯楽として扱っていた。
その時、関川の警察無線から、横浜で待機しているSISの岩崎の切羽詰まった声が響いた。外にいる岩崎たちは、銀行の有線電話の受話器を警察無線のマイクにガムテープで固定し、強引に本部の関川たちへ行員の音声を中継していたのだ。
『警部、報告します! 横浜のハツ代さんが、給湯室のゴミ箱の裏から不審物を発見しました! 黒い箱です。これよりSISから解析と切断指示に入ります!』
直後、渋谷の回線からも内田の震える声が響く。
「……ありました。配電盤の隙間です。これが……爆弾……ッ」
「よし、SIT! ただちに内田へ起爆回路の切断指示を出せ!」
関川が渋谷側の待機部隊に向かって叫ぶ。
『内田さん。決して本体は動かさないで。表面のカバーを外すと、色の違うコードが何本か見えますか? それが起爆回路です』
渋谷のSIT隊員が、極度の緊張で声を上擦らせながら指示を出す。関川の無線の奥からも、岩崎がハツ代に同様の指示を出している声が微かに重なって聞こえていた。
「カバー……外しました……」
内田が息を呑む音が聞こえた。
『よし。構造がわかれば私が切るべき線を指示します。何色の線がありますか!』
問いかけに対し、内田はしばらく黙り込んだ。
そして、悲鳴のような声でこう言った。
「……あ、赤です」
『赤い線ですね。他には?』
「他にはありません! 同じ太さの、赤い線が5本だけです! ぜ、全部同じに見えます……!」
その報告を聞いた瞬間、取調室の栗原と関川は絶句した。
時を同じくして、関川の無線から横浜の岩崎の切羽詰まった声が響く。
『警部! 横浜の爆弾も同様です! ダミーを含め、五本すべてが識別不能な赤い線で構成されています! SISからの切断指示は……不可能です!』
「……五本すべてが、同じ赤い線だと?」
関川がワナワナと震える声で呟く。
どれか一本が正解で、残りの四本は切った瞬間に即起爆するデビトラップ(罠)。生存確率はわずか20パーセント。目視で判別できない以上、遠隔で「これを切れ」と指示することは不可能だった。
「ダメだ」
関川が崩れ落ちるように机に両手をついた。「こんなもの……ただのクイズじゃないか。当てずっぽうで切らせるわけにはいかない……ッ!」
誰もが絶望に言葉を失う中。
栗原だけは、画面の右下で無情に減っていく『残り時間』のテロップを、鋭い眼光で睨みつけていた。
(極限の状況下でパニックを起こさせ、「間違った選択」をさせるための悪意の塊……!)
栗原がマイクを握り直そうとした、その直後だった。
『――ちょっと待ってくださいハツ代さん! 勝手に触らないで!』
無線の奥から、岩崎のひどく慌てた声と、ハツ代の甲高い声が聞こえてくる。
『もう! 警察が決められないなら、私が勘で切るわよ! えーい、この一番端っこのやつ!』
「ハツ代さん!!」
岩崎の絶叫と重なるように。
パチンッ、と。
警察無線越しに、ニッパーが赤い線を切断する乾いた音が、残酷なほど鮮明に響き渡った。




