行員に告ぐ
第七章:行員に告ぐ
渋谷本店、一階ロビー。シャッターが下ろされた薄暗い空間は、異様な熱気とパニックに包まれていた。
「押しましょうよ! 向こうの支店を吹き飛ばせば、俺たちは助かるって犯人が言ってたじゃないか!」
「でも、そんなことしたら人殺しに……相手は同じ大丸銀行の仲間ですよ!?」
「顔も知らない奴らが仲間かよ! 後から『勝手に作動した』と言えばいいだろ! どうせ警察は外から見てるだけで、中は誰にもわからねえんだから!」
怒号と悲鳴が交錯する中、支店長は脂汗をダラダラと流しながら起爆装置を握りしめ、頭を抱え込んでいた。
「……勝手なことを言うなッ!」
支店長が血走った目で叫んだ。
「命だけの問題じゃない……! 日本を代表するメガバンクの支店が一つ吹き飛べば、どれだけの影響が出ると思ってるんだ……ッ!」
己の命か、同じ看板を背負う顔も知らぬ同僚たちの命か、それとも銀行という巨大な組織の重圧か。極限の葛藤が、行員たちの理性を削り取っていく。
一方、横浜支店。こちらの状況は少し違っていた。
「む、無理だ……! 何百人もの命なんて……私にはこんな責任、背負いきれないッ!」
プレッシャーに完全に押し潰された支店長は、あろうことか、近くにいた清掃員のおばちゃんに起爆装置を押し付け、頭を抱えて床にうずくまってしまった。
起爆装置を押し付けられた小柄な女性――ハツ代は、くるくるパーマの頭を振り立て、前歯の銀歯を剥き出しにして呆れたようにため息をついた。
「情けないねぇ、それでも男かい!」
ハツ代は起爆装置をひったくると、周りで「早く押せ」と騒ぎ立てる行員たちをギロリと睨みつけた。
「いいかい! 私の目の黒いうちは、誰にもこの起爆装置に指一本触れさせないからね!」
ピシャリと言い放つと、彼女は迷うことなく窓口のデスクの引き出しに起爆装置を放り込み、勢いよくガタン! と閉めた。
時を同じくして。
「本庁の面子より、現場の命が優先でしょうがッ!」
臨時指揮所として慌ただしく署員が行き交うフロアの片隅で、関川の怒声が響き渡った。
彼は受話器を握りしめ、警視庁の上層部と激しい口論を繰り広げていた。
「いいですか、突入すれば即座に爆発するんです。おまけに電波遮断構造のせいで無線は通じない。なら、残された銀行の有線設備を乗っ取って、中の行員に直接呼びかけ、爆弾を探させるしか道はないはずです! そのための説得役として、この事件の全容を把握している栗原を――」
そこまで言いかけて、関川は忌々しそうに口を噤んだ。
『却下だ』――受話器の向こうの冷酷な声は、現場の切迫感を微塵も理解していなかった。
『首謀者として世間を騒がせている栗原を行員と接触させるなど言語道断。本庁から専門のネゴシエーター(交渉人)を向かわせる。有線での呼びかけも、彼らが到着するまで待機せよ』
「ふざけないでいただきたい! 現場では今この瞬間も、パニックになった行員がボタンを押しかけているかもしれないんだ! 交渉人の到着を待っていたら手遅れになります! 残り時間はあと五十五分しかないんですよ!」
関川は必死に食い下がったが、上層部は『命令に従え』と一方的に通信を切った。
「……上は、現場の命より面子と手続きが大事らしい」
関川は受話器を乱暴に叩きつけると、深く、ひどく重い溜息を吐いた。
苛立ちと無力感に苛まれながら、関川は冷たいリノリウムの廊下を歩く。五十五分後には、数百人の命が消え去るかもしれないというのに、自分たちの手足は組織の鎖で雁字搦めにされている。
行き場のない怒りを抱えたまま、関川は重厚な鉄扉の冷たいノブを握り、栗原たちの待つ取調室へと足を踏み入れた。
部屋の中では、壁の小型テレビから絶望的なニュースが垂れ流されていた。
栗原は無言のままテレビに近づき、電源ボタンを押し込んだ。ブツン、という音とともに画面が真っ暗になり、取調室に静寂が戻る。
「……関川さん。クビが飛ぶ覚悟はできてますか」
栗原が振り返り、静かに問うた。
関川はフッと鼻で笑い、有線ケーブルが繋がれたマイクを栗原の胸に押し付けた。
「俺のクビなら、十八年前からお前の道連れにするって決めてるさ。……やれ、栗原。こういう時の泥臭い説得は、本庁のエリート交渉人より、お前みたいなバカな熱血漢の方がずっと響く」
組織の命令への、明確な反逆。
栗原はマイクを力強く握りしめ、頷いた。そして、迷うことなくスイッチを入れる。
渋谷本店と横浜支店、二つの銀行の館内放送のスピーカーに、ジリッと低いノイズが走った。
『――あー、マイクテスト。……聞こえるか』
低く嗄れた栗原の声。その無許可の音声が、回線を繋いでいた現場の指揮本部のモニターにも筒抜けになった直後だった。
「おい関川ッ! 今の音声はなんだ! お前、本庁の命令を無視して誰に喋らせている!」
ドタドタという慌ただしい足音と共に、取調室の分厚い扉がバンバンと外から激しく叩かれた。血相を変えて飛んできたのは、所轄の署長である武田だ。
「すぐに辞めさせろ! そのマイクを下ろせ! 警察の威信をこれ以上泥に塗る気か!」
薄くなった頭頂部に汗をにじませた小太りの中年男のヒステリックな喚き声が響く。関川は無言で扉の鍵をガチャリと内側からかけ、その前にドンと背中を預けて立ち塞がった。
「……外でハゲチャビンが騒いでるが、気にするな。時間はねえ、続けろ」
関川が扉越しに武田の体当たりを堪えながら、栗原に顎でしゃくる。
「……ハゲチャビンって」
極限の緊張の中、関川のあまりにくだらない語彙に、栗原は思わず吹き出しそうになり、一瞬だけ小さく笑みをこぼした。
「マイク、入ってますよ栗原さん」
すかさず横から、鈴原が小声で冷静なツッコミを入れる。
栗原はコホンと小さく咳払いをして、表情を引き締め直した。
今、自分が「栗原剛」だと名乗れば、ニュースの炎上を見ている行員たちはパニックを起こし、犯人の罠だと勘違いしてボタンを押してしまうかもしれない。混乱を避けるため、栗原は咄嗟に口を開いた。
『警視庁捜査一課の、鈴原だ』
横でノートPCを叩いていた本物の鈴原が、ピタッと手を止め、目を丸くして栗原を見た。栗原は構わず、腹の底から絞り出すような、熱く、実直な声で語りかける。
『いいか、よく聞いてくれ。あんたたちの手元にあるその起爆装置のボタンは、絶対に押すな。向こうの支店を吹き飛ばすなんてのは、犯人の真っ赤な嘘だ。あれは、押した瞬間に自分たちの銀行を吹き飛ばすための、悪趣味な自爆スイッチだ』
ドンドンッ! と背後で武田署長が扉を叩く音が響く。だが栗原は微動だにせず、スピーカー越しの行員たちの心へ直接訴えかける。
『犯人は、あんたたちが他人の命を犠牲にしてでも助かろうとする、その弱さを嘲笑おうとしている。……警察が中に入れば、爆発するルールになっているのは本当だ。だから、俺たちは外から動けない。……頼む』
栗原は、深く頭を下げながらマイクに語りかけた。
『あんたたちの力が必要だ。外には、渋谷にSIT、横浜にSISの部隊が待機し、有線で指示を出せる体制を整えている。彼らと連携して、爆弾を見つけ出してくれ。……自分を殺すな。人殺しにもなるな。生きて、家族の待つ家に帰るんだ』
通信を切る。
栗原の演説は録音され、直ちに横浜支店の館内アナウンスにも流された。
取調室には、熱を帯びた声の余韻と、扉の外でまだ喚き散らしている武田署長の「開けろ!」という声だけが残った。
栗原が深く息を吐き出し、パイプ椅子に腰を下ろしたその時。
ずっと黙っていた鈴原が、新調した眼鏡を中指でクイッと押し上げ、どこか呆れたような、しかし微かに口角を上げた顔で言った。
「……僕に責任押し付けないでくださいよ」
「悪いな」栗原はニヤリと笑った。「お前の名前の方が、少しは頭が良さそうに聞こえるだろ?」
張り詰めていた空気がほんの少しだけ緩んだ、その直後だった。
関川の胸ポケットで、本庁直通の暗号化端末が無機質なコール音を鳴らした。壁の時計を見れば、タイムリミットまで残り四十分を切ろうとしている。
関川が通話ボタンを押して耳に当てると、先ほどまで「待機せよ」と高圧的に喚いていた上層部の冷徹な声が響いた。
『――方針が変更された。時間的問題を踏まえ、専門交渉人の配備は見送る。爆発回避の対応はすべて、現場判断に一任する』
「……随分と急な心変わりだな。エリート交渉人が間に合わないから、現場に丸投げか?」
関川が皮肉交じりに返すが、電話の向こうの声音は一切の感情を排したまま続けた。
『いいか、もし二つの銀行で爆発が起きた場合、公式発表は「現場の判断ミス」とする。その報道対策として、全責任は現警視総監と、現場指揮官であるお前の辞任という形で事態の収拾を図る。これは決定事項だ』
その言葉を聞いた瞬間、関川は奥歯をギリッと噛み締めた。
本庁の狙いは明白だった。彼らは最悪の事態――何百人もの市民が吹き飛ぶ大惨事――が起きた時のための「トカゲの尻尾切り」の準備を終えたのだ。
現場の暴走によるミスだという筋書きをメディアに取らせることで、本庁の体裁と警察の組織的権威だけは無傷で保つ。あまりにも露骨で、吐き気がするほど保身的な通達だった。
「……てめえらの保身のために、喜んでクビを差し出してやるよ。その代わり、現場のやり方には二度と口出しするな」
関川は吐き捨てるように言い、一方的に通信を切った。
「本庁ですか?」
鈴原の問いに、関川はふんと鼻を鳴らした。
「ああ。上層部のクソどもが、爆弾が爆発した時の言い訳づくりを終えたらしい。現場の判断ミスってことにして、俺と総監のクビを切って本庁の体裁を守るそうだ」
関川は忌々しそうに首をポキリと鳴らし、栗原を見た。
「……まあいい。これで大手を振って、俺たち現場の人間のやり方でやれるってことだ。腹括れよ、お前ら」




