灰に沈んだ晩餐
その男が『マツダ商店』に現れたのは、昼下がりの気だるい空気が漂う頃だった。
年齢は四十手前といったところか。泥汚れの目立つ緑色のフード付きジャンパーを深く被り、無精髭を隠すように俯いている。
「あの、塩辛をね。二つほど、この箱に入れて送りたいんだ。詰めるのは僕がやるから、場所を貸してくれないかな」
男の声は低く、どこか抑揚に欠けていた。
「シロネコ宅配便の発送、ここから出来たよね?」
「えぇ、もちろん。今時うちみたいな店を使ってくれるなんて、ありがたいわねぇ」
店主の松田は、つり目にパンチパーマを揺らしながら快く応じた。彼女の視線は、レジ横に置かれた旧式のテレビに釘付けになっている。
画面の中では、栗原剛の事件への関与を否定する警察の公式会見や、「栗原教」の実態は単なるゲームサークルであったという訂正報道が、慌ただしく流されていた。
「あら、見てよこの男」
松田は、画面に映る栗原の顔写真を指差し、作業をしている男に話しかけた。
「この男、こないだうちで万引きしたのよ。そんな冴えない男が教祖様だなんて、有り得るわけないじゃないねぇ。世の中、物好きもいたもんさ」
ガハハと高笑いする松田の横で、男は黙々と段ボールに瓶を詰め、ガムテープを貼る作業を終えた。男は発送料と小包をカウンターに置くと、ボソリと呟いた。
「……それじゃあ、その人は取り調べをされちゃって、もう塩辛は食べられないでしょうね」
「え? 何だい?」
聞き返した松田を無視し、男はそそくさと店を立ち去った。
「なんだかねぇ。愛想は悪いし、汚らしい男だねぇ」
松田が男の背中に向かって悪態をついた、その時だった。
凄まじい爆音が商店街を震わせた。
男が手渡した段ボール箱の中身は、イカの塩辛などではなかった。詰められていたのは、殺傷能力の高いプラスチック爆弾。
爆心地となった『マツダ商店』は、一瞬にしてオレンジ色の炎に包まれた。火の手は瞬く間に隣接する建物へと燃え広がり、栗原が愛したあの小さな商店は、見る影もなく全焼した。
その報告は、すぐさま所轄の取調室にいた関川、鈴原、そして栗原の耳にも届けられた。
「……なんだって?」
栗原の喉から、掠れた声が漏れた。
「マツダ商店が、爆破……?」
「ああ。たった今、消防から連絡が入った。全焼だそうだ。店主の安否はまだ不明だが……」
関川が言い終わる前に、栗原の目から大粒の涙が溢れ出した。
「嘘だろ。……もう、あの塩辛、食えねぇのかよ。あの絶妙な塩加減、もう二度と……」
机に突っ伏して、子供のように肩を震わせて泣きじゃくる栗原。その姿に、鈴原は眼鏡のブリッジを押し上げながら、呆れ果てたように溜息をついた。
「栗原さん……。この状況で、泣くポイントはそこですか?」
「当たり前だろ! あれは俺の人生の数少ない楽しみだったんだぞ!」
「いい加減にしろ! そんなことを言っている場合じゃないぞ、栗原!」
関川が怒鳴りつける。
だが、その怒号をかき消すように、取調室のスピーカーから新たな緊急情報が流れ込んだ。
『――速報です。たった今入った情報によりますと、渋谷区の大丸銀行・本店で、武装グループによる立てこもり事件が発生した模様です! 犯人グループの要求は……「栗原様の即時釈放」。繰り返します、犯人は栗原様の釈放を要求しています!』
関川と鈴原の表情が、同時に凍りついた。
だが、リポーターの絶叫はまだ終わらない。
『……すみません、続報です! 今入った情報によりますと、大丸銀行・横浜支店でも、全く同様の立てこもり事件が発生したとのことです! 同時刻に複数の拠点で立てこもり……これは組織的な同時多発テロの可能性があります!』
「同時、だと……?」
鈴原が鋭い眼鏡の奥の瞳を戦慄させた。
渋谷と横浜。
姿なき真犯人は、栗原が「最後のご馳走」を失った喪失感に浸る隙すら与えず、日本中を震撼させる本格的なチェスの一手を打ってきた。
「……関川さん。お腹が空いてたのは、もう治りましたよ」
涙を拭った栗原の目が、これまでにないほど冷たく、鋭い「刑事の眼光」へと変わっていた。
「ぬるくなったビールも、もう要りません。……さあ、真打の登場だ。俺をここから出さないと、本当に日本が壊れますよ」




