虚像のパレード
栗原が幕の内弁当の最後のおにぎりを平らげた頃には、事態はもはや後戻りできない次元へと突入していた。
取調室の壁に備え付けられたテレビからは、どのチャンネルを回しても同じ文字が躍っている。
『緊急特番:連続テロの黒幕! 教祖・栗原剛とは何者か!?』
『警視庁内部に巣食う闇! 謎の宗教法人「栗原教」の実態に迫る!』
つい数時間前まで、ただの「足で稼ぐうだつの上がらない刑事」だった男の顔写真が、まるで世紀の大悪党のように画面いっぱいに映し出されていた。何者かの手によって、突如として『栗原教』なるペーパー教団の存在がでっち上げられ、瞬く間にメディアの餌食となっているのだ。
「……見事なもんだ。俺がいかに冷酷でカリスマ性のある男か、コメンテーターたちが熱弁を振るっているぞ」
栗原は、空になった弁当箱の隅にあるバランを割り箸でつつきながら、どこか感心したように呟いた。
「呑気なことを言っている場合かッ!」
関川の怒鳴り声が、取調室の空気を震わせた。
「これは警察の威信に関わる大問題だ! 身内から無差別テロの首謀者が出たとなれば、警視庁は終わりだ。お前、本当に何も知らないんだろうな!」
「何度も言ってるでしょう。全くの無実だ」
栗原は割り箸を置き、まっすぐに元相棒を見据えた。
「関川さん。手っ取り早い方法が一つありますよ。……俺を釈放してください。真実を知りたいなら、俺を外に出せばいい。どこのどいつがこんなふざけた絵図を描いたのか、俺が自分の足で調べてきますよ」
「……馬鹿を言え」
関川は吐き捨てるように言った。
「そんなことができるはずがないだろう。今、お前を外に出せば、警察はテロリストの要求に屈したことになる。日本政府の、そして日本警察の歴史に残る最大の汚点だ。お前はここで大人しくしていろ。……鈴原!」
関川が廊下に向かって声を張ると、静かに扉が開いた。
「お呼びですか、警部」
現れたのは、無造作に掻き上げた癖のある長めの髪をした男だった。
百八十センチを超える長身に、上質なスーツをどこか気怠げに着崩している。その立ち姿には、獲物を狙う獣のような野性味と、研ぎ澄まされた知性が危ういバランスで同居していた。切れ長の冷たい目元を、細いフレームの鋭い眼鏡が覆っている。
警視庁捜査一課、鈴原。栗原の同僚であり、一課の中でも一、二を争う「切れ者」として名高い男だ。
「遅いぞ、鈴原。この『栗原教』なるふざけた組織の実態調査はどうなっている」
「今、サイバー犯罪対策課にも協力を仰いで洗い出しているところです。……それにしても、栗原さん」
鈴原は、切れ長の目を細めて栗原を見た。
「休暇前に派手にやらかしましたね。あなたが教祖様だなんて、悪い冗談にも程がある」
「全くだ。俺はただ、マツダ商店の塩辛を買って帰りたかっただけなんだがな」
栗原の軽口に、鈴原は薄く笑った。
「すぐに化けの皮を剥がしてやりますよ。少々お待ちを」
そう言い残し、鈴原が取調室を出て行ってから、およそ一時間が経過した頃だった。
再び扉が開き、タブレット端末を手にした鈴原が戻ってきた。その顔には、先ほどの余裕とは違う、ひどく呆れ果てたような疲労感が漂っていた。
「……調べがつきました。結論から言うと、馬鹿馬鹿しいにも程があります」
「どういうことだ、鈴原」
関川が身を乗り出す。
「『栗原教』……。そんな宗教法人はもとより、テロ組織もペーパーカンパニーも存在しません。それはただの、学生が作った『ゲームサークル』の名前です」
「……は?」
栗原と関川の声が重なった。
「都内の大学に通う、栗原蓮という学生がリーダーを務めるオンラインサークルです。いわゆる、プロゲーマー志望の若者たちが、初心者にゲームの勝ち方を教える『塾』のようなコミュニティの名称でした。……つまり、今回のテロの真犯人は、ネット上に転がっていた無関係な学生のサークル名を拝借して、声明文に仕立て上げただけです」
取調室に、重苦しくも間の抜けた沈黙が落ちた。
「……ゲームの、塾だと?」
関川が、こめかみを押さえながら唸る。
「そんな子供の遊びの名前一つで、都内がパニックに陥っているというのか……!」
「ええ。真犯人は、警察を、いや日本中を完璧に小馬鹿にしています」
鈴原が忌々しげに眼鏡を押し上げた、その時だった。
壁のテレビから、ニュースキャスターの緊迫した声が流れてきた。
『――専門家によりますと、この「栗原教」は、ロシアの過激派地下組織と深い繋がりを持つ、極めて危険な悪の秘密結社である可能性が高いとのことです! 資金源は海外のダークウェブを経由しており——』
画面の中では、したり顔の有識者たちが、「栗原教」の恐ろしさと、教祖・栗原剛の冷酷な手口について、ありもしない妄想をさも真実であるかのように面白おかしく語り合っている。
学生のゲームサークルを、「ロシアのテロ組織」だと大真面目に報道するメディアの無粋な暴走。
「……おい、鈴原」
栗原は、ぬるくなった大黒天ビールの缶を弄りながら、呆れ顔でテレビを指差した。
「あいつら、俺がロシア語ペラペラだと思ってるぞ」
「笑い事じゃありませんよ」
鈴原が深く溜息をつく。
「真実がどうであれ、世間はすでに『悪の秘密結社・栗原教』の存在を信じ切っています。この熱狂は、もう誰にも止められない」
姿なき真犯人が仕掛けた虚像は、メディアという拡声器を通して、もはや警察の手に負えない本物の「怪物」へと変貌しようとしていた。




