盤上の教祖
所轄の警察署、取調室。
パイプ椅子に腰掛けた栗原の前で、佐藤巡査が手帳の確認を終えた。その顔からは、一気に血の気が引いていた。
「……け、警視庁……捜査第一課……警部補……栗原剛……」
「非番明けでね。会議の余りの弁当を持って帰るところだったんだ。……外してくれ。肩が凝る」
「も、申し訳ありませんでしたぁ!」
佐藤が椅子をひっくり返さんばかりの勢いで謝罪し、手錠を外した。……その時だった。
扉が音もなく、だが重厚な圧力を伴って開いた。
「……下がっていろ。佐藤巡査」
静かに、低く、鼓膜を震わせるような声。
そこに立っていたのは、警視庁捜査一課の関川警部だった。
丁寧に整えられた白髪混じりのロマンスグレー。仕立ての良いネイビーのスーツを隙なく着こなし、その立ち姿は刑事というより、どこか虚無的な色気を漂わせた老練な舞台俳優のようだった。
ニヒルな笑みを湛えているようにも、すべてを冷徹に突き放しているようにも見えるその貌は、取調室の安っぽい空気を一瞬で塗り潰した。
「関川さん。……所轄の万引き騒ぎに、わざわざ一課の警部様がご登場ですか?」
「万引きはどうでもいい。お前を『重要参考人』として拘束する」
関川は、栗原の皮肉を柳に風と受け流し、机に一枚の写真を叩きつけた。さきほど都内で発生した、コンビニ強盗犯の顔写真だ。
「こいつが自供を始めた。『捜査一課の栗原という刑事から、強盗を指示された』とな」
栗原は眉をひそめた。
「……そんな男、見たこともない。嫌がらせにしては手が込みすぎている」
「とぼけるな! お前の指示書も出ているんだぞ」
関川が問い詰めようとした、その瞬間。取調室の扉が勢いよく開き、別の刑事が駆け込んできた。
「関川警部! 新たに通り魔事件が発生、犯人を確保しました! ……ですが、犯人が『栗原刑事に頼まれた』と供述しています!」
その報告を聞いた瞬間、関川の静謐な佇まいが決壊した。
「――ふざけるなッ!!」
ドォォン! と、関川が思い切り机を叩いた。パイプ椅子がガタガタと震え、室内の空気が破裂したかのような緊張感に包まれる。
「栗原ァ! コンビニ強盗だけじゃない、今度は通り魔だと!? これも全部、誰かの『嫌がらせ』だと言うつもりか! 現場でお前の名前が連呼されているんだぞ、説明しろ!」
「……関川さん、落ち着いてください。俺が指示を出すわけがない。俺はさっきまで署であなたと一緒に会議に出ていたはずだ」
「お前の『共犯者』がどこにいるかなんて、俺の知ったことか!」
関川が怒鳴り散らした直後、彼の胸元で無線機がけたたましく鳴り響いた。
『――緊急通信! 本庁より各局! 新宿駅構内のゴミ箱で小規模な爆発が発生! 繰り返す、新宿駅で爆弾テロが発生! 負傷者多数!』
取調室の空気が、完全に凍りついた。
強盗、通り魔、そして今度は無差別の爆破テロ。
「……爆破だと?」
関川が絶句し、無線のスイッチを強く握りしめる。
栗原もまた、眉間を深く寄せた。
(このタイミングで爆発事故? ……いや、偶然にしては出来すぎている。これも俺に結びつける気か?)
まさか。
そんな不吉な予感が栗原の背筋を這い上がった、その直後だった。
廊下から、血相を変えた別の刑事が取調室に飛び込んできた。
「関川警部! 報道機関と本庁宛てに、爆破の犯行声明文が届きました! ……要求は、要求は……!」
「もったいぶるな! 言え!」
「っ……『教祖・栗原様を解放せよ。さもなくば、この街は火の海に沈む』……以上です!」
まさに、だった。
栗原の不吉な予感は、これ以上ない最悪の形で的中する。
刑事の絞り出すような報告に、関川の顔から表情という表情が抜け落ちた。
あまりに完璧すぎる「でっちあげ」。
たった一日で、万引き犯から国家を揺るがすテロリストの首領へ。異常なスピードで組み上げられていく巨大な罠を、栗原はどこか他人事のように眺めていた。
グウ、と。
沈黙の中、栗原の腹が、これ以上ないほど場違いな音を立てた。
「……関川さん」
栗原は、没収されたリュックを指差した。
「どうやら、長丁場になりそうだ。これ、今ここで食べてもいいですか? ……お腹が空いてちゃ、誰がこんなふざけた絵図を描いたのか、考える頭も回らない。脳を動かすには燃料が必要なんです」
関川の動きが止まった。
怒りで逆立っていた空気が、一瞬で「零度」まで冷え込む。
関川は、ゆっくりと顔を上げ、栗原を射抜くように凝視した。その瞳には、激情を通り越した、深い、深い嫌悪と冷徹な怒りが宿っていた。
「……本気で、言っているのか。栗原」
声は驚くほど小さく、だがカミソリのように鋭かった。
栗原は動じず、真っ直ぐに元相棒を見つめ返す。
「これ、ここの署員が美味そうに食ってたやつですよ。……それと、そのぬるくなった大黒天も。一本つけてくれると助かるんですがね。……さあ、始めましょうか」
関川は数秒の沈黙の後、吐き捨てるように言った。
「……食え。毒でも入ってれば手間が省ける」
栗原は震える指で割り箸を割った。
外ではサイレンが鳴り響き、自分の名前が悪魔の代名詞として世界を駆け巡っている。
彼は、冷めきった幕の内弁当を口に運びながら、静かに、そして実直に、「敵」の姿を追い始めた。




