祝日前のスケープゴート
その日は、まとわりつくような不快な湿気が街を覆っていた。
四十二歳、独身。警視庁捜査一課、栗原剛は、地獄のような二十四時間勤務を終えたばかりだった。徹夜明けの脳は、ひどく質の悪い霧に包まれたようで、足取りもどこか覚束ない。
明日からは、数年ぶりに溜まった有給を消化する予定だ。リュックの中には、先ほどまでいた署の会議室で余っていた幕の内弁当が二つと、鮭のおにぎりが三つ。そして、駅前のコンビニで奮発して買った少し高価な『大黒天ビール』が、冷たい音を立てて入っている。
「……あとは、マツダ商店の塩辛があれば完璧だな」
栗原は、住宅街の片隅にある、昭和の香りを色濃く残した『マツダ商店』の暖簾をくぐった。ここのおばちゃんが仕込む自家製のイカの塩辛は絶品で、栗原の密かな楽しみの一つだった。
目的の塩辛の瓶を探して、薄暗い店内をウロウロと歩き回り、年季の入った冷蔵棚の前で立ち止まる。無意識にリュックの重みを整えた、その時だった。
「ほら、やっぱりやってんじゃん! 隠したって無駄だよ、この泥棒猫!」
鼓膜を突き刺すような絶叫。振り返る間もなく、ツリ目にパンチパーマの店主、松田が栗原の腕を万力のような力で掴んでいた。
「……おばちゃん、落ち着け。急にどうした」
「落ち着いてられるかい! あんた、さっきから棚の前でこそこそ怪しい動きしやがって。最近、この辺じゃ万引きが多発してんだよ。あんたみたいな『いかにも』な顔した連中にな!」
松田は栗原のリュックを力任せに引き絞り、強引にジッパーをこじ開けた。中から転がり出たのは、まだ微かに温もりの残る幕の内弁当とおにぎり、そして黄金のラベルのビールだ。
「ほら見なさいよ! うちの店の手作り弁当じゃないか。会計、済ませたのかい!」
「いえ、これは、さっきまでいた職場の……」
「言い訳は署でいいな! 泥棒!」
間もなく、けたたましいサイレンを鳴らしてパトカーが滑り込んできた。飛び出してきたのは、血気盛んな若手巡査二人だった。胸の名札には『佐藤』とある。
「マツダさん、またですか? 今月もう三回目ですよ。……で、今日の犯人はこいつですね」
佐藤は呆れたように溜息をつき、三日ほど剃っていない無精髭に、ヨレヨレのジャンパーを羽織った栗原を、ゴミを見るような目で見分した。
「……君、誤解だ。これは盗んだものじゃない。中身をよく見てくれればわかる」
「説明? 結構ですよ。どうせ聞き飽きた言い訳をするんでしょ? あんたみたいなタイプは、そうやって時間を稼ごうとするんだ」
佐藤は鼻で笑い、栗原を突き飛ばすようにパトカーの方へ促した。
「待て。俺は身分を――」
栗原が内ポケットに手を伸ばそうとした瞬間、佐藤が鋭い声を上げ、栗原の腕を力任せに押さえつけた。
「動くな! 何を取り出す気だ? 抵抗するつもりか!」
「……身分証だ。警察手帳がここにある。捜査一課の栗原だ」
一瞬の静寂。その後、佐藤ともう一人の巡査は顔を見合わせ、噴き出すように笑った。
「はっ! 警察手帳だってよ。おい、聞いたか? 今時の万引き犯は、警察官のフリをして逃げようとするらしい。……おじさん、嘘をつくならもう少しマシな設定にしなよ。その汚い格好で一課の捜査官? 笑わせないでくれ」
佐藤は栗原の言葉をあしらうように無視し、手慣れた手つきで手錠をはめた。カチリ、という冷たい音が、栗原の手首に食い込む。
「痛たた……。手荒だな。……おい、リュックの中の弁当とビールは丁寧に扱え。それは大事な『証拠』なんだからな」
「黙ってろ! 盗人の分際で……。ほら、乗れ!」
栗原は、パトカーの後部座席に押し込まれた。窓の向こうで勝ち誇った顔をする松田のおばちゃんを眺めながら、彼は深く溜息をついた。
「……せっかくの大黒天が、ぬるくなっちまうな。絶品の塩辛も買えずじまいか」




