95日目:記憶を、取り戻した
「私からの説明は、以上になります」
必路五雲は、静かにこの東屋から立ち去った。ただ一つ、専門家の住所だけを残して。
まとわりつく嫌な空気は、なにも気候的な、天気的なものだけでなかった。
まるで、蛇に巻き付かれたかのような、そんな気分だった。
気持ちとは裏腹に、感覚とは裏腹に、世界は眩しく光り輝いている。
屋根の先から見える空は青く、海は青かった。
「……どうすりゃ、いいんだ」
膝に肘をつき、視線を軽く下に落とす。煉瓦の隙間に生える草に、蟻が登っている。
そんな当たり前の状況を見ることで、ようやく正気を戻せるかと思ったが、そうもいかなかった。視線を、隣に動かす。未だに、彼女は固まったままだ。
「……あの、」
いつのまにか、彼女に先ほどの雰囲気は消えていた。あれだけ強がっていた、創造主だと、高笑いさえしそうな勢いだった彼女は、もうここにはいなかった。
しおらしい、お嬢様のような、掠れた声。
その声で、私に声をかけた。
「私は、生きているのでしょうか?」
……そうだよな。
ここまで、成長せずとも、できずとも、いろんな人と出会ったのだ。
それが、全てうそだと、物語で、妄想なのだと言われてしまったら、パニックにならざるを得ない。あたしだってそうなのだから、彼女はもっとそうなのだろう。
「……なんて言えばいいんだろうな」
沈黙だけが、許される現状。
あたしらは、静かに模索した。
答えを。誰もが幸せになれる答えを。
「言えることは、ただ一つ」
無戦姫改め妹は、そう呟いた。
「私は、この世界から出れば、死んでしまう」
正確に言うなら、死ぬために今まで活動していたということになる。
あたしには、何が正しいのか、何をすべきなのか、分からない。
「……」
蝉が鳴く。波が音を立てる。風が吹き荒れる。
その間に、言葉はない。
その刹那、突如として、頭痛があたしを襲った。
脳の中をいじくられているような、そんな感覚。
「うううううぅうぅぅうっぅうっぅうう」
あたしは、そんなうめき声の直後、全てを思い出した。
書き換えられる前の記憶が、よみがえったのだ。
「どうして?」
あたしの名前。あたしの両親。あたしの家族。通っている学校。住んでいる家。すべてを、思い出した。
こいつは、紛れもなく妹だ。
そして、事件は間違いなく起きていた。
あたしが父親に初めて反抗したあの時のことも、最後にこの子と話がしたいと思っていたことも、あの書置きも、そして、あの人のことも、思い出した。
そんな時だった。
東屋にたどり着くまでの階段のてっぺんに、人影が見えたのだ。
「……ふぅ。ようやくたどり着いた。まったく、凄い山だよな、ここ。いやいや、虫が多くてきつかったけど、ここから見える景色は予想通り、最高だね」
その姿に、妹は驚愕する。
対するあたしはというと、まったくそれに気づくことは無かった。
「……あなたは」
力なく立ち上がる妹に、彼は「ああ、座って座って」と優しく制した。
「いやあ、それにしても暑いねぇ」
手で仰ぎながら、彼は前に座った。五雲が座っていたその席へと座った。
「ちょっと、いじっちゃったんだけど、大丈夫だったかな?」
指で「ちょっと」を表現する。
その姿で、思い出す。
この世界に来ても、こいつはダサいんだな。
自然に立つ短い髪。いつでも笑っているかのような柔らかい目つき。おしゃべりな口。焼けた肌。力強そうな手足。弱々しい胸板。相も変らぬ、ファッションセンス。
「久しぶりだね、先橋姉妹」
あたしの名前は、先橋未咲季。
妹の名前は、先橋咲依。
そして、こいつの名は。
「お久しぶりです。健太郎さん。雛重健太郎さん」
さん付けをするのは、妹だけである。
あたしは、一度の読み間違えから、ひなげしって呼んでいる。
「ひなげし、かよ」
「悪いかよ」
久しぶりの盟友に、笑みがこぼれる。




