第七章 調査官
家庭裁判所の調査官は、十一月の二週目の火曜日に来た。
岡部という女の人で、三十代の半ばくらいに見えた。紺のスーツに、歩きやすそうな黒い靴を履いていた。町のバス停から歩いてきたのだと言った。わたしが迎えにいくと言ったのを、電話で断った人だった。
「今日は、お宅の様子を拝見して、お母さんのお話を伺います。お嬢さんとは、別の日に、裁判所でお話を伺うことになっています」
「わたしは、そこには」
「同席はご遠慮いただいています。お嬢さんが、誰にも気を遣わずに話せるようにするためです。お父さんも同席されません」
岡部さんは、玄関で靴をそろえて上がった。
*
最初に、家の中を見ていった。
台所。居間。風呂と洗面所。二階の、わたしの部屋と小春の部屋。岡部さんは、どの部屋でも少しだけ立ち止まって、ぐるりと見回した。メモを取ることはなかった。見て、覚えているようだった。
小春の部屋では、机の前で少し長く立ち止まった。
机の上には、辞書が三冊と、教科書と、筆箱があった。光明殿のパンフレットは、なかった。わたしはそれを、岡部さんが来る前に確かめていた。どこにしまったのかは、知らない。
「きれいにしておられますね」
「小春が自分で片づけるんです」
「そうですか」
本当は、片づけているのかどうか、わたしはよく知らなかった。小春の部屋に入るのは、窓を開けるときと、洗濯物を置くときだけだ。机の上がいつもきれいなのは、わたしが入る前に、小春が何かをしまっているからかもしれなかった。そう思ったのは、岡部さんが机の前で立ち止まっているあいだだった。
それから、ハウスを見たいと言った。
一号に入ると、岡部さんは、わあ、と小さく声を出した。小菊が蕾をそろえていた。正月用の黄色で、畝いっぱいに、同じ高さで並んでいた。
「全部、同じ高さなんですね」
「そろえるんです。高さがばらばらだと、束にしたときに見栄えが悪いので。脇芽を摘んで、支柱を立てて、ネットで押さえます」
「毎日、手をかけるんですね」
「菊は、放っておくと好きなほうに伸びますから」
岡部さんは、ネットの目に指を入れて、茎に触れた。触れただけで、曲げようとはしなかった。
「お嬢さんも、お手伝いされるんですか」
「毎朝、してくれていました」
「していました」
「このところ、少し。朝が起きられないみたいで」
岡部さんは、そうですか、と言った。
台所を通るとき、岡部さんが冷蔵庫の上の棚に目を留めた。
「柘榴ですか」
「いただきものです」
「割れてますね」
「割れるものなんだそうです。熟すと」
岡部さんは、そうなんですね、と言って、それ以上は聞かなかった。わたしも、誰からもらったのかは言わなかった。
*
居間に戻って、お茶を出した。
岡部さんは、小さなノートを出して、そこから先はメモを取りながら話を聞いた。小春が生まれたときのこと。離婚したときのこと。この十年のこと。小学校と中学校のこと。友だちのこと。
わたしは、全部答えた。
答えられないことはほとんどなかった。小春が何歳で歩いたか。何歳で自転車に乗れるようになったか。小学校の担任の名前。中学の部活を一年でやめた理由。一年の冬に、インフルエンザで五日休んだこと。
「よく覚えておられますね」
「書いてありますから」
「書いて」
わたしは台所に立って、ノートを持ってきた。
交流の記録のノートと、それから、納屋の段ボールから出しておいた出荷の帳面の束も持ってきた。出荷の帳面には、ページの余白に、小春のことがところどころ書いてある。今日は熱。今日は運動会。今日は初めて鋏を持たせた。
岡部さんは、交流のノートを受け取って、一ページずつめくった。
日付。天気。出発時刻。服装。顔色。帰宅時刻。持ち帰ったもの。聞いた話。
表のページで、岡部さんの手が止まった。
赤と黒の線。遅刻、という見出し。六つの日付と、時刻と、分数。いちばん下の合計、百五十二分。
岡部さんは、しばらくそのページを見ていた。
「代理人の方に、これをお送りになりましたか」
「コピーを送りました。手紙と一緒に」
「そうですか」
岡部さんは、ノートをめくる手を少しだけ速めて、最後まで見た。それから、ノートを閉じて、両手でわたしに返した。
「お借りしてもいいですか、と言いたいところなんですが」
「どうぞ、持っていってください」
「いえ、原本はお手元に置いておいてください。必要があれば、コピーをお願いするかもしれません」
岡部さんは、自分の小さなノートに、何か短く書きつけた。
*
岡部さんは、最後に、小春の小さいころの写真を見たいと言った。
わたしは居間の押し入れから、アルバムを三冊出した。一冊目は、小春が生まれてから三歳まで。二冊目は、四歳から小学校に上がるまで。三冊目は、小学校のあいだ。中学に入ってからは、スマホで撮るようになって、アルバムは作っていない。
岡部さんは、一冊目をゆっくりめくった。
生まれたばかりの小春。病院の産着を着て、目を閉じている。お宮参り。初めての正月。つかまり立ち。
一冊目の写真の何枚かには、尚人が写っていた。どれも、端のほうだった。顔が半分切れていたり、背中だけだったりした。正面から写っているものは、一枚もなかった。尚人は、写真に撮られるのを嫌がったからだ。
二冊目から、尚人はいなくなる。
岡部さんは、二冊目の最初のページで手を止めた。四歳の小春が、ハウスの中で、菊の畝のあいだに立っている写真だった。背丈が、菊とちょうど同じくらいだった。
「かわいいですね」
「そのころから、ハウスが好きで」
「お父さんが写っているのは、一冊目だけなんですね」
「離婚しましたから」
岡部さんは、うなずいて、アルバムを閉じた。
*
岡部さんは、最後にもう一つだけ、と言って、小さなノートを開いた。
「お嬢さんが、お父さんのおうちから帰ってきたとき、お母さんは、どんなふうに迎えておられますか」
「玄関の外で待っています」
「毎回ですか」
「毎回です。バスが遅れることもありますから」
「帰ってきたお嬢さんに、最初にかける言葉は」
わたしは少し考えた。おかえり、と言っている。それから、どうだった、と聞く。遅れた日は、遅かったね、と言う。
そう答えると、岡部さんは、ありがとうございます、と言って、ペンを動かした。何と書いたのかは、見えなかった。わたしのノートなら、その答えを一行で書く。おかえり。どうだった。遅かったね。
岡部さんのペンは、もう少し長く動いていた。
*
帰り際、玄関で靴を履きながら、岡部さんが言った。
「お嬢さんは、どんなときに、いちばん楽しそうにしていますか」
わたしは少し考えた。
「ハウスで、菊を切っているときです」
「そうですか」
「あの子は、見分けがつくんです。どれが七分咲きか。誰にも教わらないで」
「お母さんが、教えたわけではないんですね」
「教えていません。見て覚えたんです」
岡部さんは、立ち上がって、鞄を肩にかけた。玄関の戸を開けると、外は晴れていて、十一月にしては暖かかった。
「今日は、ありがとうございました」
「いえ」
岡部さんは一歩外に出て、それから振り返った。
「記録、丁寧ですね」
そう言って、頭を下げて、バス停のほうへ歩いていった。
わたしは玄関に立ったまま、手の中のノートを見ていた。表紙の「記録」の字が、少しかすれていた。
褒められたのだと思った。
ノートを台所の引き出しにしまってから、湯呑みを二つ洗った。岡部さんの湯呑みには、お茶が半分残っていた。




