第八章 暖房費
十一月に入ると、夜のハウスに暖房が要る。
一号と二号は、正月用の小菊が蕾をつけている。夜の温度が下がると、蕾の育ちが遅れて、正月の出荷に間に合わなくなる。霜が降りるほど冷えれば、蕾そのものが傷む。だから夜のあいだは、重油の暖房機を焚いて、十二度を保つようにしている。
暖房機は一棟に一台ある。サーモスタットのつまみを回して温度を決めると、それを下回ったときにだけ火が入る。朝、灯油缶のような音を立てて、燃料のタンクの目盛りが下がっているのを見る。それで、夜のあいだにどれだけ焚いたかがわかる。
その年、重油の値段は、去年の一・五倍になっていた。
農協の燃料の担当者が、配達のついでに、今年はどこも大変ですよ、と言った。暖房を止めて、正月の出荷をやめた家もあるという。
「杉本さんのところは、光明殿さんがあるから」
担当者はそう言って、伝票に数字を書いた。
光明殿があるから、というのは、本当だった。正月の三が日、光明殿は一年でいちばん参拝の多い時期になる。暮れの二十八日に、ふだんの三倍の束を納める。その売り上げで、冬の燃料代はほとんど賄える。十年、そうやってきた。
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十一月の一回目の交流の日も、小春は八時四十分のバスで出ていった。
朝の収穫には、来なかった。
わたしは一号に入って、サーモスタットのつまみを見た。十二度のところに合わせてある。昨夜の最低温度は十一度だった。暖房機は夜中に何度か火が入ったはずだった。
わたしは、つまみを回した。
十度のところで止めた。
理由は、あった。重油が高い。今日は小春がいない。いない日に、ハウスをいつもどおり暖めておく必要はない。
そう考えてから、おかしい、と思った。小春がいてもいなくても、菊の育ちには関係がない。菊は、小春のために咲くわけではない。
それでも、わたしはつまみを戻さなかった。二号も、十度に下げた。三号の輪菊は、正月の分ではないので、もともと八度にしてある。そちらは触らなかった。
暖房機の横には、燃料のタンクがある。冬のあいだは、週に一度、農協から届けてもらった重油を、ポンプでタンクに移す。わたしはそれを、交流の日の土曜の夜にやることにしていた。小春のいない日の夜は、手が空いているからだ。満タンにしておけば、一週間はもつ。
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昼に、光明殿の事務所から電話があった。
尚人の母だった。正月の本数の確認で、例年どおりでいいか、という電話だった。
「例年どおりで大丈夫です」
「よかった。今年は燃料が高いって聞いたから、心配してたのよ」
「大丈夫です」
「そう。それとね、杉本さん」
尚人の母は、少し声を落とした。
「お正月、小春ちゃんに、八階で一緒にって言ってるんだけど。杉本さんは、どう思う?」
「正月は、交流の日ではないので」
「そうよね。そうなんだけど」
尚人の母は、それ以上は言わなかった。電話を切る前に、菊、よろしくね、と言った。
わたしは、受話器を置いてから、ノートを開いた。今日の日付の欄に書いた。
光明殿より電話。正月、八階で一緒に、と。断った。
断ったのかどうか、自分でもよくわからなかった。交流の日ではない、と言っただけだ。けれども、ノートには、断った、と書いた。
受話器を置いたあとの尚人の母の声を、わたしは何度か思い返した。断られるとわかっていて聞いた人の声だった。わたしが何と答えるか、あの人は先に知っていた。知っていて、聞いた。わたしがノートに書くことも、知っていたのかもしれない。
*
小春は、その日、十七時五分に帰ってきた。
角から出てくる前に、わたしはもう時計を見ていた。
五分の遅れだった。わたしは玄関の外で、その五分を待った。角から出てきた小春は、紙袋を提げていなかった。何も持っていなかった。
「おかえり」
「ただいま」
「寒かったでしょう」
「ううん。八階、暖かいから」
小春は玄関で靴を脱いで、居間に行った。こたつに足を入れて、そのまま横になった。
わたしは台所で夕飯の支度をしながら、小春の背中を見ていた。
八階は、暖かいのだという。光明殿のビルは、地下の収蔵庫の温度と湿度を一年じゅう一定に保っていると、尚人の母が言っていたことがある。お骨のためだという。その空調が、上の階にも回っているのかもしれない。
わたしは、ノートの帰宅の欄に、十七時五分、と書いた。
分数の列に、五、と書こうとして、手を止めた。
五分なら、バスの遅れかもしれない。表に入れるほどのことではない。わたしは、五、とは書かなかった。
夕飯は、湯豆腐にした。小春は、鍋の湯気の向こうで、黙って豆腐を崩していた。
夕飯のあと、小春がスマホを持って台所に来た。
「見る?」
画面に写真が出ていた。部屋の写真だった。六畳くらいの洋室で、窓が大きい。窓の外に、市内の景色が広がっていた。駅のホームと、線路と、遠くの山。夕方で、空が橙色だった。
窓の前に、机が一つ置いてあった。机の上には何もなかった。壁際にベッドがあって、白いカバーがかかっていた。
「八階の、奥の部屋。使っていいって」
「誰が」
「おばあちゃん。お父さんも、いいって」
小春が自分から写真を見せてきたのは、はじめてだった。交流が始まってから、小春は向こうのことをほとんど話さなかった。聞けば、ふつう、と答えるだけだった。
わたしは、画面の中の机を見ていた。
「使うって、泊まるわけじゃないでしょう」
「泊まらないよ。取り決めで、泊まりはないって」
小春はそう言って、スマホを引っ込めた。
「ただ、机があると、勉強できるから。向こうで」
「うちにも机、あるでしょう」
「あるよ」
小春は、それ以上は何も言わなかった。二階に上がる前に、洗面所で歯を磨いた。歯ブラシの音が、しばらく続いていた。
わたしは、ノートを開いて、今日の日付の下に書いた。
八階、奥の部屋。机。ベッド。窓から駅。
ベッド、と書いたところで、ペンが止まった。泊まりはない、と小春は言った。取り決めにも、そう書いてある。
わたしは、ベッド、の字の上に線を引かなかった。
*
その夜、十一時過ぎに、一号を見に行った。
外は風がなく、空に星がたくさん出ていた。息が白かった。ハウスの扉を開けると、中の空気は外より少しだけ暖かかった。暖房機は止まっていた。温度計は、十一度を指していた。
ハウスの中を、端から端まで歩いた。蕾は固く、黄色はまだ緑の萼の中に隠れていた。一本一本に、同じ間隔で支柱が立っている。ネットの目が、暗がりの中で、白い格子のように浮いていた。わたしが立てた支柱で、わたしが張ったネットだった。菊は、その目の中でしか伸びられない。
十度に下げたつまみを、わたしはもう一度見た。
戻そうかと思った。今夜は冷えそうだった。十度で止めておけば、夜中に火が入って、十度は保たれる。それで蕾が傷むことはない。ただ、育ちが少し遅れるだけだ。
わたしは、つまみに触らずに扉を閉めた。掛け金をかける音が、思っていたより大きく響いた。
家に戻って、出荷の帳面を開いた。十年、毎日つけている帳面だ。今日の欄に、天気と、切った本数と、ハウス内の最低温度を書く。最低温度の欄は、明日の朝に書き入れる。夜のあいだの一番低い温度を、朝に温度計で読むからだ。
帳面には、サーモスタットの設定を書く欄はない。
十年、一度も変えたことがなかったからだ。
わたしは、欄の外の余白を見た。そこに書いておくこともできた。十度に変更、と。
わたしは、ペンを置いた。
下げた温度を、帳面につけなかった。
十年で、はじめてのことだった。




