第六章 帳面
十月の二回目の交流の日、小春は十七時四十七分に帰ってきた。
わたしは五時から玄関の外に立っていた。五時半に一度家に入って、台所の時計と、スマホの時計と、電子レンジの時計を見比べた。三つとも同じ時刻を指していた。それからまた外に出た。
角から小春が出てきたのは、あたりがもう暗くなりかけたころだった。
「遅かったね」
「バス、一本遅らせた」
「なんで」
「おばあちゃんと話してたら、時間過ぎちゃって」
小春はそれ以上は言わずに、家に入った。靴を脱ぐとき、少しふらついて、壁に手をついた。疲れているように見えた。
わたしはノートを開いた。
十月二十四日(土)。曇り。八時四十分のバスで出発。帰宅、十七時四十七分。
帰宅の欄の横に、わたしは小さく数字を書いた。四十七。
*
その夜、わたしはノートを最初から読み返した。
六月からの交流は、十回あった。帰宅の時刻を一つずつ拾っていくと、十七時を過ぎているものがいくつかあった。
六月十三日、十七時十二分。
七月二十五日、十七時八分。
八月二十二日、十七時二十分。
九月二十六日、十七時二十五分。
十月十日、十七時四十分。
十月二十四日、十七時四十七分。
六回だった。
わたしは新しいページを開いて、表を作った。左の列に日付、次の列に帰宅時刻、その次に遅れた分数。定規を使って線を引いた。出荷の帳面と同じように、縦の線は赤で、横の線は黒で引いた。
遅れた分数の列を、上から足した。百五十二分。
二時間半を少し過ぎていた。
十七時までに帰ること、とは、取り決めには書いていない。十時から十七時まで、と書いてあるだけだ。それは、わたしにもわかっていた。けれども、十七時まで父親の家にいて、そこからバスに乗ったら、町に着くのは六時を過ぎる。十四歳の子どもが、暗くなってから一人で帰ってくることになる。そういう取り決めを、裁判所がするはずがない。
十七時というのは、こちらに帰り着く時刻のことだ。
わたしはそう読んでいた。
*
十月十日、四十分遅れた日のことも、わたしは覚えている。
その日、小春は手に何か持って帰ってきた。握りこぶしほどの大きさで、赤茶色をしていた。屋上の柘榴だった。
「もらった。おばあちゃんが、お母さんにって」
小春はそれを台所のテーブルに置いた。
わたしは、ありがとう、と言った。それを手に取らずに、冷蔵庫の上の棚に置いた。食べるつもりはなかった。捨てるつもりもなかった。
柘榴は、そのまま棚の上にあった。
一週間ほどして、朝、台所に入ると、皮が縦に裂けていた。裂け目から、赤い粒がいくつか見えていた。乾いて、少し縮んでいた。わたしはそれを見ないようにして、朝ご飯の支度をした。
見ないようにしていたのに、裂け目がどれくらい広がったかは、毎朝わかった。二日目には指一本分。四日目には、粒が一つ、棚の下に落ちていた。わたしはそれを拾って、流しに捨てた。
粒は、思っていたより固かった。指でつまむと、薄い膜の中で、赤い汁が片側に寄った。
*
代理人に手紙を出す前に、わたしは家庭裁判所に電話をかけた。
調停のときに渡された紙に、書記官の名前と電話番号が書いてあった。電話に出たのは、若い男の人の声だった。
「取り決めを守ってもらえない場合は、どうすればいいんでしょうか」
「具体的には、どのような」
「帰りの時刻が、守られていないんです」
わたしは、六回の日付と時刻を読み上げた。書記官は、少し間を置いてから言った。
「調書の記載は、十時から十七時まで、ということですね」
「はい」
「そうしますと、十七時まで父親のもとにいる、という内容にも読めますので、ご帰宅の時刻が十七時を過ぎたことが、直ちに取り決めに反するとまでは」
「子どもが、暗くなってから一人で帰ってくるんですよ」
「そのようなご心配がおありでしたら、次回の期日で、帰宅時刻を明確にする形で取り決めを見直すご相談をされるのがよいかと思います」
わたしは、わかりました、と言って電話を切った。
電話を切ってから、ノートに、書記官、と書いた。その横に、取り決めに反するとまでは、と書いた。反するとまでは言えない、とは書かなかった。書記官は、そこまでは言わなかったからだ。
その夜、わたしは出荷の帳面と、交流のノートを並べて開いた。
出荷の帳面の数字は、誰に見せても同じ意味になる。三百本は三百本で、九度は九度だ。交流のノートの数字も、そうでなければならない。十七時四十七分は、十七時四十七分だ。それをどう読むかで、意味が変わってはいけない。
わたしは、書記官の言ったことを、もう一度ノートで読んだ。取り決めに反するとまでは。
そのあとに続くはずだった言葉を、わたしは自分では書き足さなかった。
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次の日、わたしは代理人の弁護士に手紙を書いた。
電話にしようかとも思ったが、書いておいたほうが、あとで言った言わないにならない。便箋に、取り決めの内容と、六回の日付と時刻を書いた。今後は、十七時までに帰宅できるよう、父親の側でも配慮してほしい、と書いた。
ノートの表のページをコンビニでコピーして、同封した。
封をする前に、もう一度読み返した。感情的な言葉は一つも入っていなかった。日付と、時刻と、分数と、お願いだけだった。これなら、誰が読んでも、わたしが何を求めているかわかる。
ポストに入れて、家に戻った。
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一週間後に、返事が来た。
代理人の事務所の名前が入った封筒で、中は一枚だけだった。
拝啓、から始まって、ご連絡の件、承知いたしました、とあった。申立人に申し伝えます、とあった。それから、帰宅の時刻については、お嬢さまのご意向もございますので、次回の期日において調停委員を交えて協議させていただければと存じます、とあった。
敬具、で終わっていた。
お嬢さまのご意向、というところを、わたしは何度か読んだ。
小春の意向とは、何のことだろう。小春が、遅く帰りたいと言っているということだろうか。そんなことは、小春から一度も聞いていない。聞いていたら、わたしはノートに書いている。
わたしは代理人の手紙を、ノートの表のページに挟んだ。
挟む前に、手紙の日付と差出人を、表の下の余白に書き写した。手紙がどこかへ行ってしまっても、届いたことだけは残る。
それから、しばらく表を眺めた。六つの日付のうち、四つが第四土曜だった。第四土曜のほうが遅れる、という決まりがあるわけではない。数字がたまたまそう並んでいるだけだった。わたしは、それも余白に書いておこうかと迷って、やめた。
*
その週の土曜は、交流の日ではなかった。
朝の六時にハウスに入ると、小春は来ていなかった。
七時になっても来なかった。わたしはひとりで白を切った。二百本切ったところで手を止め、家に戻った。小春の部屋の戸は閉まっていた。ノックすると、中から、ごめん、寝てた、という声がした。
「具合、悪いの」
「ううん。眠かっただけ」
「そう」
戸は開かなかった。
わたしは台所に降りて、ノートを開いた。交流の日ではないので、日付の欄だけ書いて、あとは空けておいた。それから、少し迷って、余白に書いた。
朝の収穫、来ず。理由、眠かった。
書いてから、表のページを開いた。
赤と黒の線で区切った表に、日付と時刻と分数が並んでいる。いちばん上に、わたしは見出しをつけていなかった。何の表なのか、書いていなかった。
わたしはペンを取って、表のいちばん上に書いた。
遅刻。
その下に、六つの日付が並んでいた。




