第四章 取り決め
二回目の調停で、取り決めができた。
親権のことは、まだ決まらなかった。それは時間をかけて考えることで、家庭裁判所の調査官という人が、これから小春の話を聞いたり、家の様子を見たりするのだという。親子交流のほうだけ、先に決めておきましょう、と調停委員の女の人が言った。
月に二回。第二と第四の土曜日。午前十時から午後五時まで。
場所は、父親の自宅。光明殿の八階が、佐伯の家の住まいになっているのだという。わたしは、それも知らなかった。
行き帰りは、小春がひとりでバスを使う。中学三年なら、それで問題ないでしょう、と男の人が言った。わたしは、送っていきます、と言った。女の人が、お嬢さんご本人は、ひとりで行けると言っておられるそうです、と言った。
調書というものを読み上げられて、わたしは、はい、と言った。
「ほかに、決めておきたいことはありますか」
最後に、男の人が聞いた。
わたしは少し考えた。行き帰りのこと。食事のこと。泊まりはないのか。泊まりはない、と女の人が言った。食事は、昼を向こうで食べる。行き帰りはバス。
「帰りの時間は」
「十七時までです」
「それなら、大丈夫です」
わたしはそう答えた。十七時までに帰ってくる、という意味だと思っていた。十七時まで向こうにいる、という意味にも読めることに、そのときは気づかなかった。気づいていたとしても、わたしは同じように答えたと思う。どちらでも同じことだと思っていた。
調停委員の二人は、うなずいて、書類に何か書き込んだ。
*
家に帰ってから、小春に取り決めのことを話した。
台所のテーブルに向かい合って座り、わたしはノートを開いて、書き写した内容を読み上げた。第二と第四の土曜日。十時から十七時。お父さんの家。バス。
小春は、黙って聞いていた。
「何か、聞いておきたいことある?」
「ない」
「行きたくなくなったら、言っていいんだからね」
「うん」
小春はノートのほうを見ていた。
「それも、書くの」
「なにを」
「わたしが、何て言ったか」
「書いておいたほうが、あとで困らないでしょう」
小春は、そうだね、と言った。それから、椅子から立って、麦茶を出しに冷蔵庫へ行った。わたしは、ノートに、質問なし、と書いた。
*
帰りのバスの中で、取り決めの紙をノートに書き写した。
第二、第四土曜。十時から十七時。父の自宅。バス。
書き写しながら、わたしは少しだけ安心していた。決まりがあれば、それを守ればいい。守られているかどうかは、見ていればわかる。見ていて、書いておけばいい。
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一回目は、六月の十三日だった。
その朝、小春はいつもどおり六時にハウスに入った。わたしも入った。二人で黄色を切った。小春の鋏の音は、いつもと同じ間隔だった。
八時に家に戻って、小春が着替えているあいだ、わたしは二階の小春の部屋の窓を開けにいった。梅雨の晴れ間で、湿気がこもっていたからだ。
窓を開けて振り返ったとき、机の上のものが目に入った。
薄いパンフレットだった。表紙に、灰色のビルの写真と、「光明殿のご案内」という文字があった。わたしが毎週、搬入口で見ている建物の、正面からの写真だった。
パンフレットの真ん中あたりが、少しふくらんでいた。
開くと、白い小菊が一輪、挟まっていた。花びらが平らに押されて、紙のように薄くなっている。四月に、小春が一本だけよけていた、あの小さい白だった。
押し花にする、と言っていた。
押し花にするには、重しがいる。辞書でも、図鑑でもいい。小春の机には、辞書が三冊並んでいた。そのどれにも挟まず、このパンフレットに挟んでいた。
わたしはパンフレットを閉じて、元の位置に戻した。角が机の端とそろうように置いた。
窓は、開けたままにしておいた。
階段を降りながら、わたしは自分の手を見た。パンフレットを閉じた手だった。ハウスで脇芽を摘むときと同じように、指先に力が入っていた。
摘んだ脇芽は、元には戻らない。閉じたパンフレットは、開けばまた小菊が出てくる。そのことに、わたしは少しだけ安心した。
*
八時四十分のバスに、小春は乗った。
バス停までは歩いて五分だった。わたしは玄関で見送った。小春は、行ってきます、と言った。いつもの声だった。リュックを背負っていて、中に何が入っているのかは聞かなかった。
バスが出たのを見届けてから、ノートを開いた。
六月十三日(土)。晴れ。八時四十分のバスで出発。服装、紺のパーカー、ジーンズ。リュック。顔色、ふつう。朝食、全部食べた。
そこまで書いて、ペンを置いた。
書くことは、ほかにもあった。机の上のパンフレット。挟まっていた小菊。けれども、それを書くと、わたしが小春の部屋で何をしたかも書くことになる。窓を開けにいっただけだ。それは本当だ。
わたしは、パンフレットのことは書かなかった。
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昼のあいだ、二号の小菊の脇芽を摘んだ。
脇芽は、放っておくと花が小さくなる。一本の茎にいくつも蕾がつくと、栄養が散ってしまう。だから、残したい蕾のほかは、小さいうちに指で摘んでおく。どれを残すかは、わたしが決める。
二号の畝を半分ほど摘み終えたところで、手を止めて時計を見た。一時だった。
小春はいま何をしているのだろう、と思った。
八階の、佐伯の家。わたしはそこに行ったことがない。どんな部屋なのか、窓から何が見えるのかも知らない。尚人はいるのだろうか。いるとして、小春と何を話しているのだろう。
わたしは、また脇芽を摘みはじめた。
*
三時に、一度家に戻った。
台所で麦茶を飲みながら、壁の時計を見た。小春が出ていってから、六時間と少し経っていた。ノートを開いて、出発の欄の下に、昼食、と書き足した。何を食べたのかは、帰ってきてから聞けばいい。欄だけ先に作っておけば、聞き忘れることはない。
昼食の下に、もう一つ欄を作った。誰と。
その下にも作ろうとして、手が止まった。何を話したか。それは、小春が話さなければ埋まらない欄だった。聞けば答えるだろう。ふつう、と。
わたしは、何を話したか、の欄を作らなかった。代わりに、聞いた話、と書いた。小春が自分から話したことだけを書く欄だ。そういう欄なら、空いていても、わたしのせいではない。
*
市内から町へ戻るバスは、夕方は二十分おきに出ている。十七時までに帰るなら、四時五十分に町の停留所に着く便に乗ってくることになる。
わたしは四時四十分に玄関の外に出て、道の先を見ていた。バス停は角を曲がった先にあるので、ここからは見えない。歩いて五分だから、五時前には角から小春が出てくるはずだった。
五時になった。
角からは、誰も出てこなかった。
五時五分に、わたしはスマホを見た。何も来ていなかった。電話をかけようかと思って、やめた。取り決めでは、五時までに帰ること、とは書いていない。十時から十七時まで、と書いてあるだけだ。十七時に向こうを出るのか、十七時にこちらに着くのか、そこは決めていなかった。
決めておくべきだった、と思った。
決めておけば、いまこうして道の先を見ている理由も、はっきりしたはずだった。
五時十分に、角から小春が出てきた。
走ってはいなかった。いつもの歩き方で、リュックを背負って、まっすぐこちらに歩いてきた。わたしを見つけると、少しだけ手を上げた。
「ただいま」
「おかえり。どうだった」
「ふつう」
小春はそう言って、家に入った。
わたしは玄関の外で、スマホの時計をもう一度見た。
それからノートを開いて、帰宅の欄に書いた。
十七時十二分。




