第三章 光明殿
木曜の朝は、四時半に起きる。
前の日の夕方に組んでおいた百二十束を、軽トラックの荷台に積む。束は二十束ずつ段ボールに立てて入れ、段ボールを六つ並べる。上から防水のシートをかけて、ゴムのロープで留める。
市内までは一時間十分かかる。町を出て県道を下り、トンネルを二つ抜けると、国道に出る。国道は七時を過ぎると混むので、六時には出るようにしている。
その朝、小春は起きてこなかった。
木曜はいつも起きてこない。学校のある日だからだ。わたしは台所に朝ご飯を用意して、メモを置いて出た。メモには「ご飯、温めて」とだけ書いた。
先週の夜のことは、そのメモには書かなかった。
*
あの日、小春は、制服のまま台所の入口に立って、わたしの話を聞いた。
いつから連絡を取っていたのか、と聞くと、去年の秋から、と答えた。どうやって、と聞くと、スマホで、と答えた。お父さんのほうから連絡が来たの、と聞くと、少し黙ってから、わたしから、と言った。
「なんで」
「会ってみたかったから」
「会ったの」
「まだ」
「何を話してたの」
「ふつうのこと」
「ふつうって」
「学校のこととか。菊のこととか」
わたしはノートに書いた。去年の秋。スマホ。小春から。まだ会っていない。学校のこと、菊のこと。
小春は、わたしがペンを動かしているのを見ていた。
「書くの」
「忘れないように」
小春は何か言いかけて、やめた。それから、着替えてくる、と言って二階に上がった。
一度会ってみるかと聞いたのは、夕飯のときだった。小春は、箸を止めて、うん、と言った。迷ったようには見えなかった。
*
国道に出ると、空が白んできた。
このあたりから先は、景色が急に変わる。山が遠くなり、田んぼの代わりに倉庫とガソリンスタンドが並ぶ。信号が増える。わたしはラジオをつけずに走る。菊を積んでいるときは、揺らさないことだけを考えている。
尚人と知り合ったのは、十七年前の木曜だった。
そのころ光明殿はまだ建ったばかりで、仏花の納め先を探していた。農協の紹介で、わたしが試しに五十束を届けた。搬入口で伝票に判を押したのは、尚人の母だった。尚人は、事務所の奥の扉の向こうにいた。声だけが聞こえた。
菊の出来について、何か言っていた。茎がまっすぐでいい、とか、そういうことだった。わたしは扉に向かって、ありがとうございます、と言った。扉は開かなかった。
尚人の顔を見たのは、それから半年後だった。見合いのような席を、尚人の母が作った。尚人は、ほとんど話さなかった。帰り際に、菊、いつもありがとうございます、とだけ言った。
結婚して、六年一緒に暮らした。そのあいだも、尚人は光明殿の奥の部屋にいることが多かった。何をしているのかと聞くと、管理です、と言った。何を管理しているのかは、聞かなかった。
結婚してからは、市内の佐伯の家で暮らした。町のハウスは、父と母に任せた。木曜の朝に父が軽トラックで菊を運んでくると、わたしは搬入口まで降りていって、伝票を受け取った。自分の育てた菊を、受け取る側に立っていた六年だった。
離婚して町に戻ったとき、父はもう鋏を持てなくなっていた。わたしは四つの小春を連れてハウスに入り、父の帳面は引き継がずに、新しい帳面を一冊買った。それが、いまの帳面の一冊目だ。
父の帳面には、数字しか書いていなかった。わたしの帳面には、余白がある。
光明殿の搬入口は、ビルの裏手の細い路地に面している。
シャッターの横にインターホンがあって、押すと、どちらさまですか、と女の人の声がする。杉本です、お花です、と言うと、シャッターが上がる。十年、同じやりとりをしている。声の主は何度か変わった。
荷台から段ボールを下ろして、台車に載せる。エレベーターで二階に上がり、事務所の前の作業場に置く。そこで光明殿の人が束を数え、伝票に判を押す。
その日、伝票を持って出てきたのは、尚人の母だった。
七十八になるはずだった。背が低く、白髪を後ろでひとつにまとめている。紺のカーディガンを着て、首から名札を下げていた。名札には「受付 佐伯」とあった。
「杉本さん、いつもありがとう」
「いえ」
尚人の母は、段ボールの中の束をひとつ取り出して、鼻を近づけた。菊の匂いを嗅ぐ人は、あまりいない。この人は昔からそうだった。
「いい菊ね。今年も」
「ありがとうございます」
「上、見ていく? 新しいブースができたの」
断ろうと思ったが、尚人の母はもうエレベーターのボタンを押していた。
*
三階は参拝のフロアだった。
廊下の両側に、小さな部屋が並んでいる。部屋といっても、扉のない仕切りで、奥行きは二メートルもない。正面の壁に、黒い石の板がはめ込んであって、その前に焼香台と花立てがある。花立てには、わたしの菊が挿してあった。
「ここにカードをかざすとね」
尚人の母は、焼香台の横の小さな機械に、自分の首から下げたカードを当てた。
壁の奥で、低い音がした。
モーターの回る音だった。遠くで何かが動いて、止まって、また動く。その音が少しずつ近づいてきて、正面の黒い石の板が、音もなく横に開いた。
開いたところに、厨子が収まっていた。
金色の縁取りのある、小さな箱だった。前面に家紋が入っていて、その下に名前を刻んだ札がついている。見本のためのもので、中は空なのだと尚人の母は言った。
「地下二階にね、全部しまってあるの。三千二百基。カードをかざすと、機械が探して、ここまで運んでくるのよ。一分もかからない」
「地下に」
「そう。お参りの人は、どこにあるのか知らなくていいの。呼べば来るんだから」
尚人の母はもう一度カードをかざした。石の板が閉じて、壁の奥でまたモーターの音がした。今度は遠ざかっていく音だった。
わたしは、閉じた石の板を見ていた。
継ぎ目がほとんどわからなかった。さっきまでそこに箱があったとは、言われなければ気づかない。
*
廊下の奥のブースに、参拝の家族が来ていた。
四十くらいの夫婦と、小学生の男の子だった。男の子が、母親に言われて、カードを機械にかざした。壁の奥でモーターの音がして、黒い石の板が開いた。中から、金色の縁取りの厨子が出てきた。
男の子は、厨子に向かって手を合わせた。
それから、首をかしげて、母親の顔を見上げた。
「おじいちゃん、いつもどこにいるの」
「下のほうよ」
「下って、どこ」
「下のほう。呼んだら来てくれるの」
男の子は、ふうん、と言って、もう一度、厨子に手を合わせた。花立てには、わたしの白い菊が二本挿してあった。昨日の夕方に、わたしが切ったものだった。
参拝が済むと、父親がもう一度カードをかざした。厨子は奥に引っ込み、石の板が閉じた。モーターの音が遠ざかっていった。家族は、ブースを出て、エレベーターのほうへ歩いていった。
男の子は、一度だけ振り返った。閉じた石の板のほうを見て、それから、走って両親に追いついた。
*
帰り際、エレベーターの前で、尚人の母がわたしの手を取った。
乾いた、軽い手だった。
「尚人のこと、ごめんなさいね。急に、あんなことして」
「いえ」
「あの子は、昔から、自分で言わないのよ。人にやらせるの。でも、悪い子じゃないの」
わたしは何と答えていいかわからなかった。
エレベーターの扉が開いた。わたしが乗り込むと、尚人の母は扉を手で押さえた。
「小春ちゃん、大きくなったわね。もう、わたしより背が高いの」
扉が閉まった。
わたしはエレベーターの中で、階数の表示を見上げていた。二、一。
小春を、ここに連れてきたことは一度もない。
離婚してから十年、一度もない。




