↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
柘榴  作者: 真核生物
PR
3/11

第三章 光明殿

木曜の朝は、四時半に起きる。


前の日の夕方に組んでおいた百二十束を、軽トラックの荷台に積む。束は二十束ずつ段ボールに立てて入れ、段ボールを六つ並べる。上から防水のシートをかけて、ゴムのロープで留める。


市内までは一時間十分かかる。町を出て県道を下り、トンネルを二つ抜けると、国道に出る。国道は七時を過ぎると混むので、六時には出るようにしている。


その朝、小春は起きてこなかった。


木曜はいつも起きてこない。学校のある日だからだ。わたしは台所に朝ご飯を用意して、メモを置いて出た。メモには「ご飯、温めて」とだけ書いた。


先週の夜のことは、そのメモには書かなかった。


*


あの日、小春は、制服のまま台所の入口に立って、わたしの話を聞いた。


いつから連絡を取っていたのか、と聞くと、去年の秋から、と答えた。どうやって、と聞くと、スマホで、と答えた。お父さんのほうから連絡が来たの、と聞くと、少し黙ってから、わたしから、と言った。


「なんで」


「会ってみたかったから」


「会ったの」


「まだ」


「何を話してたの」


「ふつうのこと」


「ふつうって」


「学校のこととか。菊のこととか」


わたしはノートに書いた。去年の秋。スマホ。小春から。まだ会っていない。学校のこと、菊のこと。


小春は、わたしがペンを動かしているのを見ていた。


「書くの」


「忘れないように」


小春は何か言いかけて、やめた。それから、着替えてくる、と言って二階に上がった。


一度会ってみるかと聞いたのは、夕飯のときだった。小春は、箸を止めて、うん、と言った。迷ったようには見えなかった。


*


国道に出ると、空が白んできた。


このあたりから先は、景色が急に変わる。山が遠くなり、田んぼの代わりに倉庫とガソリンスタンドが並ぶ。信号が増える。わたしはラジオをつけずに走る。菊を積んでいるときは、揺らさないことだけを考えている。


尚人と知り合ったのは、十七年前の木曜だった。


そのころ光明殿はまだ建ったばかりで、仏花の納め先を探していた。農協の紹介で、わたしが試しに五十束を届けた。搬入口で伝票に判を押したのは、尚人の母だった。尚人は、事務所の奥の扉の向こうにいた。声だけが聞こえた。


菊の出来について、何か言っていた。茎がまっすぐでいい、とか、そういうことだった。わたしは扉に向かって、ありがとうございます、と言った。扉は開かなかった。


尚人の顔を見たのは、それから半年後だった。見合いのような席を、尚人の母が作った。尚人は、ほとんど話さなかった。帰り際に、菊、いつもありがとうございます、とだけ言った。


結婚して、六年一緒に暮らした。そのあいだも、尚人は光明殿の奥の部屋にいることが多かった。何をしているのかと聞くと、管理です、と言った。何を管理しているのかは、聞かなかった。


結婚してからは、市内の佐伯の家で暮らした。町のハウスは、父と母に任せた。木曜の朝に父が軽トラックで菊を運んでくると、わたしは搬入口まで降りていって、伝票を受け取った。自分の育てた菊を、受け取る側に立っていた六年だった。


離婚して町に戻ったとき、父はもう鋏を持てなくなっていた。わたしは四つの小春を連れてハウスに入り、父の帳面は引き継がずに、新しい帳面を一冊買った。それが、いまの帳面の一冊目だ。


父の帳面には、数字しか書いていなかった。わたしの帳面には、余白がある。


光明殿の搬入口は、ビルの裏手の細い路地に面している。


シャッターの横にインターホンがあって、押すと、どちらさまですか、と女の人の声がする。杉本です、お花です、と言うと、シャッターが上がる。十年、同じやりとりをしている。声の主は何度か変わった。


荷台から段ボールを下ろして、台車に載せる。エレベーターで二階に上がり、事務所の前の作業場に置く。そこで光明殿の人が束を数え、伝票に判を押す。


その日、伝票を持って出てきたのは、尚人の母だった。


七十八になるはずだった。背が低く、白髪を後ろでひとつにまとめている。紺のカーディガンを着て、首から名札を下げていた。名札には「受付 佐伯」とあった。


「杉本さん、いつもありがとう」


「いえ」


尚人の母は、段ボールの中の束をひとつ取り出して、鼻を近づけた。菊の匂いを嗅ぐ人は、あまりいない。この人は昔からそうだった。


「いい菊ね。今年も」


「ありがとうございます」


「上、見ていく? 新しいブースができたの」


断ろうと思ったが、尚人の母はもうエレベーターのボタンを押していた。


*


三階は参拝のフロアだった。


廊下の両側に、小さな部屋が並んでいる。部屋といっても、扉のない仕切りで、奥行きは二メートルもない。正面の壁に、黒い石の板がはめ込んであって、その前に焼香台と花立てがある。花立てには、わたしの菊が挿してあった。


「ここにカードをかざすとね」


尚人の母は、焼香台の横の小さな機械に、自分の首から下げたカードを当てた。


壁の奥で、低い音がした。


モーターの回る音だった。遠くで何かが動いて、止まって、また動く。その音が少しずつ近づいてきて、正面の黒い石の板が、音もなく横に開いた。


開いたところに、厨子が収まっていた。


金色の縁取りのある、小さな箱だった。前面に家紋が入っていて、その下に名前を刻んだ札がついている。見本のためのもので、中は空なのだと尚人の母は言った。


「地下二階にね、全部しまってあるの。三千二百基。カードをかざすと、機械が探して、ここまで運んでくるのよ。一分もかからない」


「地下に」


「そう。お参りの人は、どこにあるのか知らなくていいの。呼べば来るんだから」


尚人の母はもう一度カードをかざした。石の板が閉じて、壁の奥でまたモーターの音がした。今度は遠ざかっていく音だった。


わたしは、閉じた石の板を見ていた。


継ぎ目がほとんどわからなかった。さっきまでそこに箱があったとは、言われなければ気づかない。


*


廊下の奥のブースに、参拝の家族が来ていた。


四十くらいの夫婦と、小学生の男の子だった。男の子が、母親に言われて、カードを機械にかざした。壁の奥でモーターの音がして、黒い石の板が開いた。中から、金色の縁取りの厨子が出てきた。


男の子は、厨子に向かって手を合わせた。


それから、首をかしげて、母親の顔を見上げた。


「おじいちゃん、いつもどこにいるの」


「下のほうよ」


「下って、どこ」


「下のほう。呼んだら来てくれるの」


男の子は、ふうん、と言って、もう一度、厨子に手を合わせた。花立てには、わたしの白い菊が二本挿してあった。昨日の夕方に、わたしが切ったものだった。


参拝が済むと、父親がもう一度カードをかざした。厨子は奥に引っ込み、石の板が閉じた。モーターの音が遠ざかっていった。家族は、ブースを出て、エレベーターのほうへ歩いていった。


男の子は、一度だけ振り返った。閉じた石の板のほうを見て、それから、走って両親に追いついた。


*


帰り際、エレベーターの前で、尚人の母がわたしの手を取った。


乾いた、軽い手だった。


「尚人のこと、ごめんなさいね。急に、あんなことして」


「いえ」


「あの子は、昔から、自分で言わないのよ。人にやらせるの。でも、悪い子じゃないの」


わたしは何と答えていいかわからなかった。


エレベーターの扉が開いた。わたしが乗り込むと、尚人の母は扉を手で押さえた。


「小春ちゃん、大きくなったわね。もう、わたしより背が高いの」


扉が閉まった。


わたしはエレベーターの中で、階数の表示を見上げていた。二、一。


小春を、ここに連れてきたことは一度もない。


離婚してから十年、一度もない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。