↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
柘榴  作者: 真核生物
PR
2/11

第二章 申立て

家庭裁判所は、市役所の裏手にあった。


五階建ての古い建物で、入口で名前を言うと、三階の待合室に行くように言われた。待合室は二つあって、申立人と相手方で分かれている。わたしは相手方のほうだった。


部屋には長椅子が三つ並んでいて、先に来ていた女の人がひとり、ハンカチを握って座っていた。わたしと目が合うと、少しだけ頭を下げた。わたしも下げた。それきり、お互いに見なかった。


十時を十分過ぎて、名前を呼ばれた。


調停室は狭かった。机が一つと椅子が四つ。窓にはブラインドが下りていて、隙間から隣のビルの壁が見えた。調停委員は二人で、六十過ぎの男の人と、五十くらいの女の人だった。


「杉本さんですね。今日はお疲れさまです」


女の人のほうが言った。


「まず、手続きのご説明をしますね。調停というのは、裁判所が何かを決める場ではなくて、お二人の話し合いをお手伝いする場です。わたしたちが交互にお話を伺います。相手方の方と、同じ部屋でお顔を合わせることはありません」


「向こうは、来ているんですか」


「申立人ご本人は、ウェブ会議で参加しておられます。代理人の弁護士さんの事務所から、画面越しに。代理人の方は、こちらに来ておられます」


「ウェブ会議」


「調停は、ご本人に出てきていただくのが原則なんですが、いまは、画面でつないで参加することもできるんです」


「そうですか」


顔は出さないだろう、とは思っていた。尚人は昔から、人の前に出ない人だった。結婚式も、写真を撮るのを嫌がった。光明殿の開業の式典にも出なかったと聞いている。代表者の挨拶は、尚人の父が読んだ。


「法律が変わったのは、ご存じですか」


男の人が言った。


「新聞で、少し」


「この四月から、離婚したあとも、父母の二人ともが親権を持てるようになりました。共同親権といいます。以前に離婚されて、どちらか一人が親権者になっている場合でも、家庭裁判所に申し立てて、共同親権に変更することができます。今回の申立ては、それです」


「わたしが何か、いけなかったんですか」


「そういうことではありません」


女の人がすぐに言った。


「杉本さんが親権者としてふさわしくない、という申立てではないんです。お父さんも、親として関わりたいということです。それと、親子交流。以前は面会交流と言っていたものですね。月に何回、お嬢さんとお父さんが会うか。その取り決めです」


わたしは膝の上で手を組んだ。


「十年、一度も会いたいと言わなかったんですよ」


「そう伺っています」


「養育費は、ちゃんと払ってもらっています。それは、ありがたいと思っています。でも、会いたいとは一度も」


「はい」


「それが、なんで今」


二人は顔を見合わせた。男の人が、手元の書類をめくった。


「代理人の方から伺っているのは、お嬢さんのご意思を尊重したい、ということです」


「小春の」


「お嬢さんとは、この一年ほど、連絡を取り合っておられるそうです」


*


いったん部屋を出るように言われて、待合室に戻った。


今度は向こうの話を聞く番なのだという。ハンカチを握っていた女の人は、もういなかった。長椅子の端に、誰かが置いていったパンフレットがあった。「子どもにとって望ましい話し合いのために」という題で、表紙に、手をつないだ大人と子どもの絵が描いてあった。大人は二人いて、子どもは真ん中にいた。


三十分ほどして、また呼ばれた。


調停室に戻ると、男の人が、代理人の方からのお話です、と前置きして、書類を読み上げた。


お父さんは、この十年、娘さんに会わずにきたことを悔いておられる。自分から会いたいと言うことは、親権者であるお母さんの生活を乱すことになると考えて、控えてきた。しかし娘さんのほうから連絡があり、娘さんが自分の考えをはっきり持った年齢になったことを知った。法律も変わった。娘さんが望むなら、父親として関わりたい。


「それと」


男の人は書類から目を上げた。


「お父さんは、お嬢さんが毎朝ハウスに入って、菊を切っていることもご存じでした。白と黄色で切る時期が違うことも。お嬢さんから聞いたそうです」


わたしは、何も言わなかった。


白と黄色で切る時期が違うことを、わたしは小春に教えたことがない。小春は、見て覚えたのだと思う。それを、尚人に話していた。


「杉本さん」


女の人が、わたしの顔をのぞきこんだ。


「大丈夫ですか」


「大丈夫です」


わたしは、そのあとのことをあまり覚えていない。


いくつか質問をされて、答えた。小春の学校のこと。成績のこと。家での様子。休みの日に何をしているか。


休みの日は、朝の六時にハウスに入る。収穫を手伝って、九時に家に戻る。午前中は宿題をして、午後は部屋にいることが多い。夕方に一度、水やりに出る。夕飯は六時半。風呂は八時。十一時には電気が消える。


わたしは全部、答えられた。


「よく見ておられますね」


女の人が言った。褒めているのだと思った。


最後に、次の期日が決まった。六月の十日。親権のことは時間がかかるので、次の期日では、先に親子交流の取り決めから話し合いましょう、と言われた。


「取り決めというのは」


「月に何回、何時から何時まで、どこで会うか。それを決めて、まず実際にやってみる。お嬢さんがどう感じたかは、調査官が伺います」


「小春が、嫌だと言ったら」


「そのときは、そのように伺います」


わたしは、わかりました、と言った。


帰り際に、女の人が、弁護士さんはつけられないんですか、と聞いた。つけるほどのことではないと思います、とわたしは答えた。女の人はそれ以上何も言わなかった。


*


帰りのバスを待つあいだ、駅前のドラッグストアに入った。


文房具の棚は奥の端にあった。ノートが何種類か並んでいて、わたしはB5の大学ノートを一冊取った。表紙が薄い灰色で、罫線の幅が七ミリのものだ。出荷の帳面と同じものだった。


レジで、袋はいりますかと聞かれて、いりません、と言った。


バスに乗ると、駅の北口のロータリーが窓の外を流れていった。ロータリーの向こうに、八階建てのビルが見えた。灰色の壁で、窓が少ない。屋上の縁から、木の枝が少しだけはみ出している。


光明殿だった。


毎週木曜に、わたしが菊を届けているビルだ。裏の搬入口から入って、二階の事務所で伝票に判をもらう。十年、そうしてきた。尚人がどの階にいるのか、わたしは知らない。


*


家に着いたのは、四時過ぎだった。


小春はまだ学校から帰っていなかった。わたしは台所の椅子に座って、ドラッグストアで買ったノートを出した。


表紙にマジックで「記録」と書いた。


一ページ目を開いて、しばらく何を書くか考えた。


出荷の帳面には、決まった書き方がある。日付、天気、温度、本数。書くことが決まっているから、迷わずに書ける。こちらには、まだ決まった書き方がなかった。


小春が帰ってきたら、聞かなければならないことがある。いつから連絡を取っていたのか。どうやって。何を話したのか。


わたしは、それを聞くつもりだった。


聞いて、答えを書いておくつもりだった。


書くことを、先に決めておこうと思った。


日付。何を聞いたか。小春が何と答えたか。そのとき、どんな顔をしていたか。出荷の帳面に色と本数の欄があるように、こちらにも欄を作っておけば、迷わずに書ける。


わたしは定規を出して、一ページ目の左端に、細い縦の線を一本引いた。線の左に日付を書き、右に中身を書く。それだけの決まりだった。


玄関の戸が開く音がした。ただいま、という声がして、靴を脱ぐ音がした。


わたしはペンを取って、一ページ目の一行目に、今日の日付を書いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。