第一章 小菊
四月の小菊は、夜に電気をつけて咲かせる。
菊は日が短くなると花芽をつける。だから春に咲かせたいときは、冬のあいだ夜中に電灯をともして、まだ日が長いのだと思わせておく。灯りを消すと、菊は季節が変わったと思って蕾をつける。それで、春の彼岸から四月にかけての出荷に間に合わせる。
うちのハウスは三棟ある。一号と二号が小菊で、三号が輪菊だ。
朝の六時に一号に入ると、小春がもう鋏を持って立っていた。
「早いね」
「目が覚めたから」
小春は中学三年になったばかりで、始業式は明後日だった。春休みのあいだ、朝の収穫はほとんど毎日手伝ってくれた。わたしが頼んだことは一度もない。起きてくると、長靴を履いて、ハウスに入っている。
小菊は一本の茎に花がいくつもつく。そのうち七分ほど開いたものを選んで、根元から切る。開きすぎたものは日持ちがしないし、固いものは店に並べても開かない。見分けがつくようになるまで、わたしは二年かかった。小春は小学四年のころには、もう迷わずに切っていた。
「これ、黄色いほう、先に出す?」
「白を先に。黄色は明日でいい」
「わかった」
小春は白の畝に移った。背中を丸めて、鋏を入れる。ぱちん、ぱちんと、同じ間隔で音がする。
わたしは入口の机で、出荷の帳面を開いた。
日付。天気。ハウス内の最低温度と最高温度。切った本数を、色ごとに。出荷先ごとに何束。
十年、同じ帳面をつけている。一冊が一年半ほどでいっぱいになり、いまのが七冊目だ。昔のものは納屋の段ボールに入れてある。何年の何月に何本切ったかを、わたしはだいたい帳面で答えられる。
最低温度、九度。最高温度、二十四度。
書き終えて顔を上げると、小春が一本、切らずに眺めていた。白い小菊で、ほかのものより花が小さかった。
「それ、どうかした」
「なんでもない」
小春はそれを切って、ほかの束とは別に、作業台の端に置いた。
*
白を三百本、黄色を百二十本切った。
十本ずつ輪ゴムでまとめ、長さを揃えて、水揚げのバケツに立てる。一時間ほど水を吸わせてから、仏花の束に組む。小菊を二本、輪菊を一本、それに葉物を添えて、セロファンで巻く。うちの仏花はそれで一束になる。
出荷先は三つある。町の直売所と、農協と、市内の光明殿だ。
光明殿は、駅の北口にある納骨堂だった。ビルの中に遺骨を預ける施設で、参拝に来た人のために、ブースごとに生花を置いている。その花を、わたしが納めている。毎週木曜に百二十束。売り上げの四割近くがそこだった。
光明殿を経営しているのは、佐伯という家だった。
わたしの元の夫の家だ。
離婚したのは十年前で、小春は四つだった。親権はわたしが取った。そのころの法律では、離婚したら親権はどちらか一人のものになる。話し合いは短かった。尚人は、小春をよろしく頼みます、と言っただけだった。
離婚してからも、菊は届け続けた。光明殿の担当者が変わるたびに、取引をやめましょうかと聞いたが、どの担当者も、続けてください、と言った。尚人の母が、そう決めているらしかった。
わたしは、それでいいと思っていた。仕事は仕事だ。
*
九時に小春が家に戻り、わたしはひとりで束を組んだ。
十一時に、直売所へ持っていく分を軽トラックに積んだ。直売所は町の県道沿いにあって、農家が自分で値段をつけて棚に並べる。わたしの棚は入口から三つ目で、仏花を十束、小菊のばら売りを二十束置く。
管理人の野口さんが、レジの奥から出てきた。六十半ばの女の人で、直売所ができたときからそこにいる。
「杉本さん、今日は白が多いね」
「彼岸のあと、白が残るんです。黄色から先に売れるから」
「そうなの。わたし、白のほうが好きだけどね」
野口さんは棚の値札を直しながら、そういえば、と言った。
「こないだの土曜、小春ちゃん、朝一番のバスに乗ってたよ。市内に何か用事?」
「図書館だと思います」
「偉いねえ。うちの孫なんか、休みの日は昼まで寝てるよ」
わたしは、そうですね、と言った。
土曜の朝に小春がどこへ行ったのか、わたしは聞いていなかった。朝の収穫のあと、出かけてくる、と言ったのは覚えている。帰ってきたのは夕方だった。図書館だと思ったのは、小春がいつも、本を何冊か抱えて帰ってくるからだ。その日も、何か抱えていた気がする。
「小春ちゃん、毎朝ハウス入ってるんでしょう。えらいわ。そういう子は、どこ行っても大丈夫よ」
野口さんはそう言って、レジに戻っていった。
昼過ぎに、郵便受けを見にいった。
チラシと農協の広報のあいだに、封筒が一通挟まっていた。書留でも何でもない、ふつうの郵便だった。
封筒は茶色で、角形の二号だった。差出人の欄に、市の家庭裁判所の名前が印刷してあった。
心当たりはなかった。
台所の椅子に座って、はさみで封を切った。中には紙が何枚も入っていた。一枚目は「期日通知書」とあり、日付と時刻と、部屋の番号が書いてあった。五月の二十日、午前十時。
その後ろに、手続きの説明書きと、裁判所までの地図と、何かを書いて返送するための用紙が入っていた。いちばん下に、申立書の写しが二通あった。
申立人の欄に、佐伯尚人と書いてあった。
相手方の欄に、わたしの名前があった。
一通目の事件名の欄には「親子交流」とあった。二通目の事件名の欄には五文字あって、わたしはそれを何度か読んだ。
*
夕方、小春が二階から降りてきた。
わたしは封筒を、出荷の帳面の下に入れた。
「ご飯、なに」
「煮物。あと、鮭」
「うん」
小春は冷蔵庫を開けて、麦茶を出した。コップに注いで、立ったまま飲んだ。
「今日の白いの、なんで別にしたの」
「え」
「一本だけ、よけてたでしょう」
小春は少し考えて、ああ、と言った。
「ちっちゃかったから」
「ちっちゃいのは、どうするの」
「押し花にしようと思って」
小春はコップを流しに置いて、二階に上がっていった。階段の途中で、一度だけ足音が止まった。何かを言いかけたようにも思えたけれど、そのまま上がっていった。
わたしは帳面を開いて、今日の欄の下に、小さく書き足した。
白一本、小春。押し花。
書いてから、なぜ書いたのか自分でもわからなかった。ただ、書いておけば、あとで何があったか思い出せる。十年、そうしてきた。
小春が二階に上がってしまってから、わたしは台所で煮物の火を止めた。
鍋の蓋を開けると、湯気が上がって、眼鏡が曇った。眼鏡を外して、エプロンの端で拭いた。拭きながら、封筒のことを考えた。
尚人に電話をかけることは、考えなかった。離婚してから、尚人と直接話したことは一度もない。養育費のことも、光明殿の取引のことも、全部、間に誰かが入った。そのほうが、お互いに楽だった。
楽だと思っていたのは、わたしだけだったのかもしれない。
*
夜、ハウスの電照を見に行った。
一号も二号も、もう灯りは消してある。蕾はついたのだから、あとは咲くのを待つだけだ。三号の輪菊だけが、まだ白い電球の下にあった。夜の十一時から明け方の四時まで、タイマーで点く。輪菊は来月の分で、まだ冬だと思わせておかなければならない。
ハウスの中は、灯りのせいで昼のように明るかった。
外から見ると、そこだけが四角く浮いて見える。周りの田んぼも山も真っ暗で、その中に光る箱が一つだけ置いてある。
わたしはしばらく、それを眺めていた。
家に戻って、台所の椅子に座り、帳面の下から封筒を出した。
申立書の二通目を、もう一度見た。
事件名は、親権者変更。
申立ての趣旨の欄に、一行だけ書いてあった。未成年者の親権者を、相手方から、父及び母に変更する。
父及び母、というところを、わたしは指でなぞった。




