4-1 猫武者
雨玻町総合病院。
その一角には、通常の病室とは明らかに違う区画があった。
――隔離病棟。
白い壁。厚い防護ガラス。電子ロック付きの扉。廊下にはC.H.A.R.M.から派遣された警備員と、病院側の職員が交代で立っている。
そこに、一人の少年が収容されていた。
先日、デビガノイドの中から救出された少年である。
学校では目立つグループの中心にいた少年。
弱い立場の相手に横暴な態度を取っていた少年。
そして、デビデヴィ・クライシスによってデモンコアにされた少年。
彼は一度、人間の姿に戻った。
だが、事態はそれで終わらない。
目覚めた直後、少年は暴れた。
点滴を引き抜き、看護師の腕を掴み、止めに入った男性職員を突き飛ばした。
近くにあった医療用トレーを投げつけ、ガラスを割り、叫びながら病室の扉を叩き続けた。
それは、ただ気が立っているという程度の話ではなかった。
目は焦点が合っておらず、誰に向けて怒っているのかも分からない。
見舞いに来ていた家族の声にも反応せず、ただ目の前にいる者すべてを敵のように睨みつけた。
その結果、看護師二名が軽傷。
病院職員一名が肩を打撲。
警備員一名が顔面に打撲を負った。
鎮静剤が投与され、ようやく少年は眠った。
そして今。
その病室の前に、一人の女性が立っていた。
C.H.A.R.M.調査主任、――風間カリン。
三十歳。
艶のある黒髪を後ろでまとめ、細いフレームの眼鏡をかけている。
白衣の下には体の線が分かる黒いタイトな服。
知的でありながら、どこか人を惑わせるような雰囲気をまとった女性だった。
カリンは分厚い防護ガラス越しに、ベッドの上の少年を見つめていた。
少年は眠っている。
拘束具で手足を固定され、医療機器につながれている。
顔色は悪い。
しかし検査数値上は、危険な異常は見つかっていなかった。
「身体異常なし。血液検査も大きな問題なし。脳波も鎮静剤の影響を除けば正常範囲……ね」
カリンはタブレット端末を指でなぞりながら、低く呟いた。
隣に立つ若い護衛が尋ねる。
「つまり、問題はないということですか?」
「いいえ」
カリンは即答した。
「問題しかないわ」
「え?」
「検査で異常が出ないのに、あれだけ暴れる。そこが問題なのよ」
カリンは少年の顔を見つめたまま、眼鏡の位置を直す。
「この子の身元は?」
「すぐに判明しました。県立雨玻町第一高校の生徒です。交友関係も確認済み。昨日、彼の友人たちから聞き取りを行っています」
「例の証言ね」
「はい。謎の女性に胸を刺され、赤い球体のようなものに変えられた、と」
「たしか……デモンコア」
カリンは小さく呟く。
敵幹部がそう呼称していた。
「人間の負の感情を核にした、悪魔兵器の中枢……推測通りなら、かなり悪趣味な技術。今までいろんな異次元敵性存在を見てきたけど、ここまでの技術力を持った敵は初めてね。」
「ですが、ゲキ・マキシマムがデビガノイドを倒したことで、彼は人間に戻りました」
「戻ったように見えただけ、かもしれないわ」
護衛は言葉を失う。
カリンは端末の記録を開いた。
そこには、少年の生活記録や学校での評判がまとめられている。
「確かに、元々の性格にも問題はあったみたいね。学校内では高圧的。グループ内での支配欲も強い。弱い立場の相手に対して横暴な言動あり」
「……かなり問題児ですね」
「でも、誰彼かまわず暴れるタイプではない」
カリンは鋭く言った。
「彼は自分より弱いと見なした相手に対して横暴だった。逆に言えば、相手を選んでいたのよ。自分の立場を崩さない範囲で、自分が優位に立てる相手を選んでいた」
「今回のように、病院職員や看護師へ無差別に?」
「そこが違う」
カリンは病室の中の少年を見つめた。
「デモンコアから戻った後に、悪魔エネルギーを完全に浄化しきれていない可能性があるわ」
「残留悪魔エネルギー……ですか」
「ええ。肉体ではなく、心の奥にこびりついている。怒りや恐怖、劣等感を増幅して、本人の意思とは別に暴走させる」
「そんなことが……」
「あるかもしれない。だから調べてるの」
カリンは腕を組む。
その表情は冷静だった。
だが、瞳の奥にはわずかな苛立を宿す。
「魔法少女の浄化でも完全に抜けない悪魔エネルギー。もしそうなら、かなり厄介よ」
「ゲキ・マキシマムの浄化が不完全だったと?」
「そう結論づけるには早いわ。彼は初戦で、しかも即席の魔法少女。むしろ初見でデモンコアを破壊せず人間へ戻せただけでも異常よ」
「異常、ですか」
「ええ。褒め言葉としてね」
――その時。
廊下の向こうで、鈍い音がした。
何かが倒れる音。続いて、短い呻き声。
護衛が即座に振り返る。
「何だ?」
廊下の警備員の声が聞こえた。
「おい、そこで止ま――ぐあっ!」
次の瞬間、重い衝撃音。通信機からのノイズ。
カリンの目つきが変わった。
「来るわ」
白衣の内側から、彼女は小型拳銃を抜いた。
護衛も同時に拳銃を構える。
通常弾ではない。
――C.H.A.R.M.製の特殊弾。
悪魔エネルギーを帯びた対象の動きを一時的に鈍らせるための弾丸。
「主任、下がってください」
「嫌よ。見えないところに下がったら、何が起きるか分からないでしょ」
「ですが――」
「あなたが前。私が後ろ。三秒以上足止めできれば十分」
「三秒ですか」
「できない?」
「……やります」
護衛が扉の前に立つ。
廊下の照明が一つ、また一つと消えた。
足音はしない。だが、何かが確実に近づいている。
空気が重くなる。
まるで廊下全体に、黒い布をかぶせられたように。
護衛が小さく息を呑む。
「主任……これは」
「悪魔反応。しかも濃い」
カリンは拳銃の照準を廊下へ向ける。
「――でも、デビドールではない」
暗がりの向こうに、影が立つ。
人型。
しかし、人間ではない。
丸い頭部と猫のような耳。
着ぐるみじみた輪郭。
だが、身にまとっているのは古めかしい日本甲冑。
――腰には刀。
その姿は奇妙だった。
可愛らしさと不気味さが同居している。
《《遊園地のマスコット》》が、そのまま戦場の亡霊になったような姿。
「止まりなさい!」
護衛が叫ぶ。影は止まらない。
護衛が発砲し、特殊弾が三発、廊下を走る。
だが、影は揺れたように見えただけ。
次の瞬間、護衛の体が吹き飛ぶ。
「がっ……!」
壁に叩きつけられ、床へ崩れ落ちる。
カリンは目を見開いた。
「速い……!」
彼女も撃つ。
一発。
二発。
影は首をわずかに傾けただけで、それをかわした。
刀は抜いていない。
ただ、腕を振るっただけだった。
衝撃がカリンの腹部を打つ。
「っ……!」
体が浮き、背中から壁に激突した。
……息が詰まる。
拳銃が手から滑り落ち、視界が揺れる。
白い廊下が歪む。
カリンは床に膝をつきながら、必死に顔を上げた。
影は病室の扉の前に立っていた。
電子ロックが黒い火花を散らして壊れ、扉がゆっくりと開く。
猫のような影は、少年のベッドへ近づいていく。
カリンは手を伸ばした。
「待ち……なさい……」
影は振り返らない。
鎮静剤で眠る少年を、軽々と抱きかかえる。
そして、初めて口を開いた。
「こ奴は、まだ使える」
……恐ろしく渋い声だった。
見た目の奇妙さとはまるで合っていない。
低く、重く、刃のように冷たい声。
影の手から、禍々しい黒いエネルギーが溢れた。
それが少年の胸へ流れ込み、少年の体が痙攣する。
肌の下を黒い光が走り、胸元に赤い球体が浮かび上がった。
人間に戻ったはずの少年が、再び赤い球体へと変わっていく。
カリンの喉から、掠れた声が漏れた。
「再……変換……?」
影は赤い球体『デモンコア』を抱える。まるで拾った道具を回収するように。
人間を扱う手つきではなかった。
カリンはその姿を見つめた。
意識が遠のいていく。
最後に聞こえたのは、低く渋い声だった。
「主命を果たす」
その言葉を最後に、カリンの視界は黒く閉じた。




