Ep.7 /終わりなき夢遊
閉ざされたドアの向こうから返事はない。
廊下に漂うキムチ鍋の温かな匂いが、かえって室内の冷え切った空気を際立たせていた。
悠楓は小さく息を吐き出すと、もう一度、わずかにトーンを落とした声で扉を叩く。
「―――おい和袴。夕飯出来たから食べに来いよ」
『……いらない。お腹空いてないし、食べたくない』
篭った声が扉を隔てて返ってくる。
その響きには、拒絶だけでなく、底知れない疲弊の色がまとわりついていた。
「お前の好きなキムチ鍋作ったんだけど」
『いらないってば。もう私に構わないでよ』
引くべきか、それとも押し込むべきか。
悠楓は言い淀みながらも、自分の手でしっかりと握りしめたお玉の感触に意識を向け、もう一度言葉を紡いだ。
「だから―――あ?お前鍵空いて……」
「……っ!入ってこないで!」
ガチャリ、と軽い音を立ててドアノブが回る。
鍵がかけられていないことに気づいた悠楓は、嫌な予感を胸にその押し手を開いた。
部屋の中に踏み込んだ悠楓の視界に飛び込んできたのは、散乱したスケッチブックの山と、頭を抱えて震える和袴の姿だった。
「これ……ファッション画……?……捨てんのか?」
「そうよ。頑張っても頑張っても認められないなら、もう辞めるしかないじゃない」
足元に転がる紙片に目を落とした悠楓の息が止まる。
それは昨日まで和袴が命を削るようにして描き上げていたデザイン画の数々だった。
「……後悔すんじゃねぇのか」
振り返った和袴の双眸には、涙ではなく、すべてを諦めた乾いた光が宿っていた。
その鋭すぎる視線が、悠楓の胸を突き刺す。
次の言葉が放たれた瞬間、室内の空気が凍りついた。
和袴の口から零れ落ちた刃のような言葉は、図らずも悠楓が最も隠し続けていた核心を抉り抜く。
「別に。努力もしてない、才能もないあんたなんかにはわからないでしょ……!」
「……そうだよ。わからねぇから聞いてる。本当にお前はそれでいいのかよ」
喉元まで出かかった反論を飲み込み、悠楓は自身の内側でうず巻くコンプレックスをねじ伏せるように、真っ直ぐに姉を見据えた。
「……っ!うるさい!後悔するとか、それでいいのかとか、そんな言葉、もう聞きたくないっ……!」
「……」
和袴の精神はすでに限界を超えていた。
姉の細い肩が激しく震え、感情の決壊が間近に迫っていることが誰の目にも明らかだった。
「私の事何て放っておいてよ!」
突発的に振り上げられた和袴の手が、悠楓の持っていた小鍋を捉える。
刹那、悠楓の体が反射的に動いた。
「危なッ……!」
ガッシャーン!
陶器が床に叩きつけられ、派手な音を立てて無数の破片へと変わる。
それに伴い、熱を帯びた液体が辺りに飛び散った。
「っ……ぁっつー……」
「ぁ……はる……か……?ごめ……っ」
飛んできた熱湯が悠楓の首元と腕を直撃し、激しい痛みが走る。
だが、それ以上に悠楓の思考を停止させたのは、目の前で真っ青になっている姉の姿だった。
「……っ、和袴怪我は?」
「私は……何も掛かってない……」
自分の感情に呑まれて弟を傷つけてしまった現実を直視し、和袴の顔から血の気が引いていく。
上ずった声で答える和袴の目には、大きな涙の膜が張られていた。
「なら良かったけど……。はぁ……皿片付けてくる」
これ以上ここに居続ければ、お互いの傷をさらに広げるだけだと悟ったのか。
悠楓はそれ以上言葉を重ねず、背中を向けて部屋を出た。
「ぁ……」
バタンッ。
重く冷たい音を立てて扉が閉まる。
取り残された部屋の中で、和袴は震える膝を抱え込むようにして床に崩れ落ちた。
「……っ、いっ……」
部屋を出た廊下の暗がり、誰の目もない空間で、悠楓は初めて痛みに顔を歪めた。
熱湯をかぶった首元と腕が、ヒリヒリとした鋭い痛覚を訴えてくる。
だが、それ以上に悠楓の足を重くさせていたのは、自分の無力さと、あの崩れ落ちた姉の表情が脳裏から離れないという精神的な重圧だった。
「あ、悠楓〜!このキムチ鍋めちゃくちゃ美味しいぞー!な、母さん!」
「……え、えぇ……」
父・誇登の底抜けに明るい声がダイニングに響き渡る。
しかし、誇登の言葉に応えるようにして短く言葉を紡いだ母・一楓はどこか居心地悪そうにしていた。
「……え……?別に何でも……」
「何でもないわけないだろう……!ほら、見せなさい!母さんは湿布を取ってくれるか?」
「……わかったわ」
誇登の勢いに気圧されながらも、一楓はゆっくりと席を立って冷蔵庫に向かった。
そんな彼女の瞳に映っていたのは、悠楓なのか、それとも……。
「……父さん」
「うん?」
わずかに掠れたその声には、先ほどまで姉の前で見せていた気丈さが嘘のように削ぎ落とされていた。
息子の異変を察した誇登は、濡れたタオルを置くと、静かに視線を悠楓へと向けた。
「俺……やっぱり和袴の気持ちわかんねぇ……。わかってやれねぇ……」
「……!」
絞り出されたその言葉は、悠楓の心を縛って離さない呪いとなっていた。
息子の突拍子もない言葉に誇登はわずかに手の動きを停止させる。
暴れられて、泣き叫ばれて、怪我を負わされて、それでも悠楓は和袴と向き合うことを辞めたくなかった。
いや、自分が姉に向き合わなければこの家は本当に崩壊すると、どこかで気づいていたのかもしれない。
「俺は……和袴と違って才能もないし……努力も……あいつに比べたらしてない……っ。だから……」
「……和袴にそう言われたのか……?」
それ以上、何を返すべきか分からず、誇登はただ静かに我が子の背中を見つめることしかできなかった。
「……あいつは関係ねぇ。俺が勝手にそう思っただけだ……」
「……そうか」
「……俺が庇ってやれたら……母さんを説得させられたら……何か……変わってたのかな……」
過去の呪縛に囚われたまま立ち尽くす悠楓の呟きは、夜の静寂の中に虚しく溶けていった―――……。




