Ep.5 /・二重・らせん・構造・
玄関のドアが開き、カバンを雑に下ろす音と同時に、日常の仮面が剥がれ落ちるような重苦しい空気がリビングへと流れ込む。
外でどれだけ輝かしいモデルの卵として振舞っていようとも、この家の中に一歩足を踏み入れた瞬間、彼らはただの子供だった。
「―――ただいま〜」
「あら、二人ともおかえりなさい。最近二人して遅いけど、何してるの?」
「あー……私は仕事の一環、かな」
「俺もそんな感じだ」
和袴は投げやりな調子でそう言い捨てると、自分のスニーカーを脱ぎ捨てるように乱暴に玄関の上がり框に放り出した。
背負っていた重いトートバッグが床に鈍い音を立てて落ちる。
その背中には、大学での華やかな評価やSNSの賞賛とは裏腹に、家に足を踏み入れた瞬間にまとわりつく息苦しい澱みが、まるで鉛のように重くのしかかっていた。
悠楓もまた、姉に続くようにぶっきらぼうに呟き、脱いだウィンドブレーカーを雑にハンガーラックへと放り投げる。
「そう?まぁ、和袴はアレだけど、悠楓はちゃんと勉強もしなさいよ」
「わかってるって」
リビングのソファに腰掛けた母親・柴原 一楓の冷ややかな視線が、帰ってきたばかりの二人を上から舐め回すように捉える。
そんな一楓の言葉を癒すように、隣に座った父・柴原 誇登は温かい太陽色の瞳を悠楓と和袴に向けた。
「……そう言えば和袴、この間今度SQUADHの重役を任せられると言っていたな。
悠楓も、最近は何かに頑張って打ち込んでるようだし、お父さん、とても誇らしいよ。
どんな事をするんだ?」
「お母さんにも言ったけど、そう言うのは守秘義務だから言えないの」
和袴は自分を褒めてくれた父親の顔をまっすぐに見ることができず、とっさにそっぽを向きながら、トゲのある声音でそう言い放つしかなかった。
「まぁ、何を任されたとしても精一杯頑張れよ」
「もちろん。私、絶対に父さんみたいなデザイナーになりたいから」
「ふっ、そうか」
誇登の言葉は純粋な父親としてのエールだったが、その優しさは皮肉にも、一楓の冷徹な検閲のスイッチを押す引き金でしかなかった。
和袴の硬直した背中を見つめながら、一楓は優雅にカップの紅茶を傾け、毒を含んだ言葉を静かに紡ぎ出す。
「よかったわね、和袴」
「え……、?」
「あなたにはお父さんみたいな才能があって」
「……どういう意味」
一楓の唇から滑り出たその声は、祝福の響きを帯びながらも、氷点下の冷気をまとっていた。
和袴の喉元が小さく引きつり、呼吸の仕方を忘れたように胸の奥がキュッと締め付けられる。
「もし才能がなければ、和袴はきっと人一倍努力を重ねなければならなかった。
努力しなくてすんだのは、その才能のおかげなのよ」
褒め言葉の皮を被ったその断定は、防音室で聞いたどの音よりも鋭く、和袴の心臓を抉った。
誇登に向けられていたはずの温かい眼差しはいつの間にか消え失せ、一楓の表情には「お前の価値はそこまでだ」と言い聞かせるような、絶対的な拒絶の色が浮かんでいる。
一楓が放ったその一言は、和袴がこれまでに流してきた汗も、夜を徹してデザインの試行錯誤を繰り返した記憶も、そのすべてを一瞬にして無価値なものへと叩き落とした。
「……一楓、和袴だって努力して……」
「お父さんは黙ってて。和袴はもちろん凄いわ。その年齢でデザイナーのタマゴとして日々成長しているもの」
夫の制止を片手で軽くいなすように、一楓は冷ややかな笑みを崩さない。
その言葉は褒めるための言葉ではなく、最低限母親としての体裁を保つための仮面だった。
「……っ」
「……けれど、そんなのはみんな同じよ。あなたは、その才能に甘んじてるだけ。
だから何かが足りないって感じるのよ」
その残酷な定義を聞かされた瞬間、和袴のなかに巣食っていた黒い澱みの正体が鮮やかに浮かび上がった。
「何かが足りない」――幼い頃から母にそう囁かれ続け、どれほど結果を出しても満たされなかった心の穴の理由は、自分の実力不足などではなく、最初から母親によって仕組まれた無限ループの呪いだったのだ―――。




