Ep.2/路肩に転がる人生
「ん〜……!疲れたー」
天海大学の講義棟を抜け出し、夕暮れに染まり始めたキャンパスの歩道を歩きながら、篠宮和袴は伸びをした。
その緩んだ背中を見計らったかのように、背後から軽やかな足音が近づいてくる。
「お疲れ、和袴!」
「彩蕗!わざわざ高校終わりに迎えに来てくれたの?私の講義が終わる時間と違うはずなのに……」
振り返るとそこには、進学校の制服姿のまま満面の笑みを浮かべる、和袴の親友で高校三年生の赤城 彩蕗が立っていた。
和袴は驚きに目を丸くしながらも、どこか呆れたような、しかし嬉しさを隠しきれない複雑な笑みを浮かべる。
「ううん!今日は一日お姉ちゃんの所でデザイン練ってたんだ〜」
「もう……。成績がいいからって授業サボってたら意味ないでしょ」
「良いじゃん!和袴、今日はお姉ちゃんの事務のバイト無いんだよね?
じゃあ和袴の家お邪魔しちゃダメかな?」
アスファルトの照り返しが和らぎ始めた夕刻、彩蕗の高く後ろの位置で結ばれた肩に付くくらいのツインテールが風に揺れる。
彼女の足元には、お気に入りのブランドのキャンバススニーカーがあり、未来への焦燥とエネルギーをそのまま形にしたような無邪気な瞳が和袴を捉えていた。
「良いわよ。今日は母さんと父さんも仕事だし」
「やった〜!おとうとくんいるかな〜?」
「いるんじゃない?今日も幸羽くんと家で勉強するって言ってたし。
でも、悠楓に変な事吹き込まないでよ?」
呆れたようにため息をつく和袴の指先には、大学の課題が詰まった重いトートバッグが食い込んでいる。優秀ゆえの余裕を見せる彩蕗の頭を軽く小突くその仕草には、長年連れ添った親友同士ならではの気安い信頼が滲んでいた。
「わかってるって〜」
彩蕗は軽く舌を出しながら、悪びれもせずにケラケラと笑ってみせた。
その茶目っ気たっぷりの笑顔には、どれだけ怒らせても許されてしまうような天性の人懐っこさが備わっている。
和袴は呆れたように小さく息を吐き出すと、手にしていた重たいトートバッグを持ち替え、夕暮れに染まる自宅へと足を向けた。
「あ、和袴ちゃん!これからサークルのメンバーでITセンターに行くんだけど和袴ちゃんも行かない?」
ふと、キャンパスの敷地内ですれ違った友人が、明るいトーンで声をかけてくる。
和袴は振り返り、パッと華やかな笑みを浮かべた。
「ITセンター?良いね〜!……でも、ごめん。親友と先約があるからまた今度にするわ」
「そ、そうなんだ!わかった!」
「ごめんね〜。行こ、彩蕗」
「あ、待ってよ〜!」
慌てて後を追う彩蕗のキャンバススニーカーが、夕暮れのコンクリート舗装を軽やかに蹴る。
二人の足取りは、これから始まる賑やかな放課後の予感に弾むように軽かった。
彩蕗の軽い足取りに合わせて、和袴は苦笑しながらもその細い肩を並べて夕暮れの住宅街を歩いた。
赤く染まる空の下、高校最後の進路やデザインへの情熱について絶え間なくおしゃべりを続ける親友の横顔を見ていると、大学生活の重圧で凝り固まっていた和袴の心が少しずつほぐれていくのを感じる。
やがて見覚えのある見慣れた一軒家のシルエットが視界に入り、和袴は慣れた手つきでバッグから鍵を取り出した。
ガチャリと乾いた音が響き、玄関の扉が押し開けられる。
外の喧騒を断ち切るように、廊下からはかすかに漂う生活の匂いと、リビングから漏れ聞こえるシャープペンシルが紙を叩く微かな音が届いていた。
玄関の三和土にパンプスのヒールを下ろしながら、和袴は軽く肩を回してバッグの重みを逃がす。
その背中を追うように、赤城彩蕗は自分のスニーカーを器用に脱ぎ捨て、まるで自分の家であるかのようにひょいとリビングの敷居を覗き込んだ。
「ただいま〜……あ」
「げっ……」
夕暮れの淡い光が差し込む廊下の奥、リビングのテーブルに向かい合って座っていた二つの影――勉強道具を広げたまま硬直する柴原悠楓と、いつもの涼しげな顔のままこちらを振り返る夜白幸羽の姿が視界に飛び込んでくる。
予期せぬ男子の存在、それも弟の親友である幸羽の姿に、彩蕗の瞳が興味津々とばかりにパチリと大きく見開かれたのだった。
ただいま、も交わさぬままお互いがお互い引き気味で見つめ合う。
「ちょっと、大学から帰ってきた姉に向かってげ、とは何よ。げ、とは」
荷物を抱えたまま呆れたように眉をひそめる和袴に対し、悠楓はバツが悪そうにシャーペンを机へ放り投げた。
「うるせぇな。別に何でもねぇよ」
「はぁ?幸羽くんもいるのにそう言う言い方はないでしょ!ごめんね、幸羽くん!いらっしゃい」
逃げるように目を逸らす弟の生意気な態度に、和袴のなめらかな額にはうっすらと青筋が浮かび上がる。
その一触即発の姉弟喧嘩の気配を、幸羽はまるで遠い国の出来事でも眺めるかのように、涼しげな瞳を伏せながら冷めた紅茶のカップをそっと傾けていた。
「どうも。お邪魔してます、和袴さん」
「今日は母さんも父さんもいないから、ろくにおもてなし出来なくてごめんね」
「いえ。お構いなく」
幸羽の低く落ち着いた声がリビングの空気をスッと引き締めるのと同時に、赤城彩蕗はその整えられたふわりとしたツインテールを揺らしながら、和袴の背中を押しのけるようにリビングのフローリングへと勢いよく踏み込んだ。
「お邪魔しまーすって、あ!」
スニーカーを脱いでリビングへやって来た彩蕗は、まるで新しいおもちゃを見つけた子供のような好奇心をその瞳に宿し、和袴の背中を押しのけるようにしてリビングへと踏み込んだ。
夕暮れのオレンジ色の光が廊下のフローリングを長く引き延ばす中、彼女の足元でピカピカと光るスニーカーがピタリと止まる。
ピシャリと閉ざされたはずの日常の空間に、赤城彩蕗という名の心地よい台風が吹き荒れようとしていることを、まだ誰も――特に篠宮悠楓は知る由もなかった―――。




