EP.1/影と光のアイロニー
『いやー、本当和袴ちゃんは凄いな〜。叔父さんも鼻が高いよ!え、あー……弟くん……?まぁ、頑張ってるよな……!』
『え!?お姉さんってあの一千万フォロワーもいる「WACU」さんなの?
しかもアパレルブランド、SQUADHで働いてるなんて……大学生なのに本当凄いね!』
顔がいい。
ただそれだけ。
絵が描けるわけでも、服が作れるわけでもない。
篠宮 悠楓はどこへ行っても 篠宮 和袴の弟というラベルを貼られた、飾りの人形に過ぎないのだった。
『私には何か足りない……!どうしたらもっと……もっと……!』
和袴はいつも自室でそう言っていた。
才能があるからこそ、それを絶えず維持する事に精一杯なのだ。
彼女にはきっと、隣にいる悠楓の事は見えていないのだろう―――……。
これは今よりもほんの少し先の未来のお話。
放課後の静けさが染み込む教室で、柴原悠楓はカリカリと走るシャープペンシルの音に自分の焦燥を重ねていた。
ノートの隅に無意味に塗りつぶされていく黒鉛の澱。
それを、斜め向かいの席から微動だにせず見つめる視線があることに、悠楓は気づかない。
夜白幸羽の瞳は、焦りに満ちた悠楓の横顔を正確に捉えたまま離れない。
ただの補習の終わりを告げるためではなく、その胸の奥で砕け散りそうな自尊心の破片をこぼさないように、幸羽は静かに言葉を選んでいた。
「―――……悠楓?」
ペン先が紙を抉るような鋭い音がピタリと止まる。
クラスメイトで友人の夜白 幸羽から呼ばれた名前に跳ねるように肩を揺らし、悠楓は慌てて虚ろだった視線を正面へと引き剥がした。
隠しきれない焦燥を隠すように、唇を引き結んで見せない強がりを作る。
「……!え、あ、悪ぃ、幸羽……!ちょっと考え事してた!」
「構わないが、大丈夫か?疲れているなら今日の個人補習はこれくらいにして―――」
幸羽はテキストからスッと目を外し、斜め向かいに座る友人の横顔をまっすぐに見据えた。
底の見えない深い瞳には、隠しきれない懸念と、それ以上に重い温度が宿っている。
「……っ、いや、本当に大丈夫だから!」
反射的に声を張り上げた悠楓の喉が、わずかに震える。
見抜かれることへの恐怖と、これ以上踏み込まれたくないという防衛本能が、その瞳を鋭く尖らせた。
「っ……!そ、そうか」
「俺は……もっと、もっとやらねぇと……」
「……」
言葉を失った静寂のなか、ただ二人の間の距離だけがやけに生々しく感じられる。
幸羽は目の前で壊れかけている少年の細い肩を見つめ、ゆっくりと息を吐き出して筆箱と参考書を紺色の学生鞄へ滑り込ませた。
「……?幸羽?何片付けてんだよ」
「俺も今日は体育があったから少し疲れてな。休憩にキャラメルフラッペでも飲みに行かないか?」
「……!……ま、まぁ幸羽がそう言うなら仕方ねぇけど」
パッと明るくなった顔を慌てて不機嫌な仮面の下に隠し、悠楓はわざとらしく大きく息を吐いてから立ち上がった。
その分かりやすいチョロさに、幸羽の唇の端がかすかに緩む。
「ふふ。あぁ、ありがとう」
差し出された手を拒絶するかわりに、幸羽はわずかに目を細めてその言葉を受け入れた。
つられて引き締めていたはずの唇の端がかすかに緩むのを、悠楓は気づかないふりをして乱雑に立ち上がる。
気恥ずかしさを誤魔化すように、悠楓がわざとらしく大きく息を吐き出したときだった。
「やっほー、二人とも〜」
ガラリと開いた教室の扉から、見慣れた明るい声が夕暮れの静けさを切り裂くように飛び込んでくる。
「青砥。まだいたのか?」
悠楓とは違って、ピシッとシワ一つなく整えられたカッターシャツにネクタイ、そしてブレザー。
お堅い制服とは対照的に、明るい太陽の様な声は隣の教室の風紀委員長・青砥 灯鈴の物だった。
「うん!ちょっと勉強がね……。篠宮と幸羽は何してたの?」
「俺らも勉強。ま、これから帰るけどな」
灯鈴はそう言うと、パタパタと軽やかな足音を響かせて二人の机へと歩み寄り、制服のスカートの端を軽くつまみながら覗き込んだ。
その整えられた前髪が揺れるたび、夕暮れのオレンジ色の光が彼女の明るい笑顔をふんわりと縁取る。
悠楓は気恥ずかしさを隠すようにシャープペンシルを雑にペンケースへ投げ入れ、ぶっきらぼうにそっぽを向いた。
「え、なら一緒に帰ろうよ!私鍵閉め任されてるからさ!」
灯鈴はそう言って、悪びれない満面の笑みで二人のカバンを勝手に持ち上げる勢いを見せる。
その無遠慮なまでの明るさに、悠楓は「おい、勝手に触るなよ」と小さく悪態をつきながらも、どこかで救われたような複雑な息を吐き出すのだった。
「……!ん〜〜〜っ!」
放課後、悠楓、幸羽、灯鈴の三人は学校近くのカフェに来ていた。
甘く冷たいフラッペが喉を通り抜けた瞬間、強張っていた悠楓の肩の力が少しだけ抜ける。
その様子を、幸羽はコーヒーの苦みを含んだカップを傾けながら、どこか穏やかな眼差しで見つめていた。
「美味いか?」
ストローから唇を離した悠楓の鼻先を、微かに甘いキャラメルの香りが掠める。
冷たさに少しだけ麻痺した舌で、彼は「あぁ、まぁまぁだな」とわざとらしくぶっきらぼうに呟き、カップの表面に浮いた水滴を指先で弾いた。
「本当、この味初めて飲んだけど美味しいね〜!」
灯鈴の底抜けに明るい声がテーブルの空気を軽やかに塗り替える中、
「だな」
悠楓は小さく相槌を打ちながら、ストローをもう一度くわえて冷たさを飲み込んだ。
「幸羽は飲まなくてよかったの〜?コーヒーだけだけど……」
「あぁ。俺は甘い物が苦手だからな」
目の前でコーヒーの黒い液体を静かに揺らす幸羽は、甘い香りが充満するテーブルの中でも相変わらず涼しい顔を崩さない。
「その割には篠宮の持つキャラメルフラッペ見てたね」
「?」
「そうか……?」
その言葉の裏で、幸羽の視線が悠楓の指先――冷えたキャラメルフラッペのカップを握る細い指をかすかに掠めたことに、本人ですら気づいていない事を灯鈴が軽々と指摘してみせる。
その指摘にふい、と悠楓から目をそらした幸羽に悠楓は違和感を感じたその時。
テーブルの空気を切り裂くように、灯鈴が無邪気な声を響かせた。
「あ、そうだ二人とも!アパレルブランド「SQUADH」って知ってる?」
「あー……」
その名前が飛び出した瞬間、店内の心地よいBGMが遠ざかったかのように、悠楓の指先がピタリと止まる。
今巷の若者に大人気なファッションアパレルブランド「SQUADH」。
その名前は悠楓もよく知っていた。
「あの有名なファッションブランドか?」
幸羽が静かにコーヒーカップを持ち上げながら、わずかに眉をひそめた。
その横で悠楓は、まるで面倒くさい厄介ごとを引き当ててしまったと言わばかりに、深々と息を吐き出してストローを噛み締める。
「そうそう!私あそこの社長さんといつか会ってみたいんだよね〜……」
「あー、姉が知り合いの伝手でそこの事務で働いてるから、頼めば会わせてもらえるかもだけど」
灯鈴は目を輝かせ、まるで遠い夢物語を語るかのように両手を組んだ。
その無邪気な熱量とは裏腹に、悠楓の胸の奥では、和袴の部屋から聞こえてきた必死な唸り声や、自分に向けられる「姉の弟」という重苦しいラベルの記憶が嫌でも蘇ってくる。
気恥ずかしさを隠すようにぶっきらぼうに言い放った悠楓の言葉に、灯鈴の体がガバッと前のめりになった。
「え、本当に!?」
「ま、まぁ……」
「和袴さん、そこで働いていたのか。知らなかったな」
幸羽はコーヒーカップに映る自分の顔を静かに見つめながら、その言葉の裏にある重みを測るように呟く。
「ねぇねぇ、篠宮のお姉さんに会わせてよ!」
「……良いけど、期待はするなよ」
灯鈴の声が、夕暮れの店内に弾けるように響く。
その名前が出た瞬間、幸羽の目がわずかに細められ、悠楓は面倒くさそうに肩をすくめた。
和袴という存在が、自分たちの日常をどこか遠くへ、きらびやかで息の詰まる世界へと引きずり込もうとしていることの予感が、冷たいフラッペの氷の音と共に、静かに二人の間に落ちたのだった―――。




