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駆け出しの見習い魔術師 ◇王族の娘

駆け出しの見習い魔術師 ◇王族の娘

 漆黒の闇をまとったような巨大な狼が、少女に飛びかかり、草むらに押し倒した。その額には、銀色の毛並みが星のように輝いている。




 ロディスの半身、ラジだ。




 その動きには、狩人のような俊敏さと王者の威圧感があった。


 捕食対象に挑む勢い――けれど、瞳の奥でにやりと笑う。




 ただのじゃれつきだったらしい。




「もふっ――、ラジ、それくすぐったいから!」


 エイラが笑いながら膝を抱えると、狼は得意げにふわふわの体を押しつけてきた。




 もふもふの腹毛がくすぐったくて、エイラは笑いながら体をよじる。


「わ、やめて、ラジ、そこは反則っ――!」




 くすぐられるたびに転がって、とうとう石畳の上で仰向けになる。




 ラジはここぞとばかりに、どっしり乗ってきた。


 尻尾をぶんぶん振りながら、ぺろりと舌を出す。




 その顔には茶目っ気しかない。


 だらけた表情でエイラの腹に頭からつっこんでいる様子に、シルが遠巻きに目を細めた。




「それ、絶対くすぐって遊んでるよね――わたしもやりたい」


「順番待ちね」




 ロディスが茶化して、膝の上の魔導書に目を落とすと、ラジはその声に反応してちらっと顔を出す。




 瞳はきらきらと澄み、耳はぴょこぴょこ。


 何とも言えず、かわいらしい。




 ――そのとき。




 塔の中庭に風がひとつ、違う音を連れてきた。


 世界がすっと現実へ引き戻されるような音だった。




 ラジが耳をそばだて、立ち上がる。


 一瞬、においを嗅ぐように鼻先を上げた。


 遊びの空気が、にわかに引き締まる。




 カツン、と石畳に響く鉄靴てつぐつの音。


 背筋が自然に伸びるような、落ち着いた気配。




 エイラはすぐに、その足音の癖に気づいた。




 振り返れば、見覚えのある灰の外套を羽織った男が木漏れ日のなかに立っていた。




 年季の入った皮の胸当て。


 目元の皺が、かすかに揺れる。




「――エイラ殿」


 声は低く、穏やかだった。




 その響きには、歴戦を潜り抜けてきた重みがあった。




「ルセル……!」


 ルセルは騎士団の役職を歴任した後、今は王の話し相手として宮廷に出入りしている。




 喜びいっぱいで立ち上がるエイラの前で、騎士は微笑みながら恭しく膝をついた。


「ご立派に成られましたな。 今のあなたを、亡き王弟殿下やご両親がご覧になれば、きっとお喜びになられたことでしょう。 ご友人方も、こんにちは」




 シルが緊張したように居住まいをただす。


 ラジはロディスにぴたりと寄り添い、ロディスはその頭を静かに撫でていた。




 その光景に、ルセルは目許でやわらかく笑い、再びエイラに向き直る。


 懐から、一通の封書を取り出した。




「王よりの命です。今年の謁見式は――代理ではなく、あなた自ら謁見に参るようにとのことです」




 エイラはためらいがちに封書を受け取り、しげしげと見つめた。


 中庭の陽光はあたたかいのに、手のひらの中だけが冷たく感じられる。




「……大伯父は、私に王族の娘としての務めをお求めになるのかしら」




 ルセルの穏やかな褐色の瞳の奥が、光ったように思えた。


「それは、エイラ殿が直接、王に確かめていただくのがよいでしょう。


 あなたの言葉で、答えを出されるとよい」




 ルセルは、穏やかな微笑と口調を崩さなかった。




 少し離れた場所でそれを聞いていたシルが、そっとロディスの袖を引く。


「ねえ、王族の娘の義務って何なの? うちの家は商家だから疎くて……ロディスは貴族の出でしょう?知ってる?」




 ロディスはわずかに眉を寄せた。


「政略結婚、外交使節への応対、後継者の育成……」




「政略結婚……!」


 シルは驚いたように口元を押さえた。




「王族で、この年になるまで婚約者が決まっていないのは珍しいんだ。 今の王様は貴族の早婚に反対しているから、そういう例は増えるだろうけど。エイラはね。今の王様の弟の孫娘なんだよ」




「私、エイラと一緒にいてとても楽しいのに……。そう思うでしょ? ロディス、謁見には参加できないの? ちょっと、見てきてよ」




 ロディスは暗い表情でうなずいた。




「僕も、エイラとまだまだ一緒に学びたいよ。せっかく仲良くなったんだ。 ――父に話してみる」




 ◇




 それから数日――。




 封書に記された日付は、思っていたよりも早かった。




 仕立て直した礼服に身を包みながら、エイラはざわめく胸の奥を何度も鎮めようとする。




 エイラは両親を早くに亡くし、祖父も物心ついたころには没していた。




 血筋はあっても後ろ盾のない立場。




 かつてはそれを気楽だとさえ思っていたが、冷静になってみれば違う。




 エイラは、両親や祖父の遺産の相続人。




 爵位こそ返上しているが、その財を目当てに近づく大貴族は少なくないだろう。




 さらに、王が自分を養女にして外交や政略結婚の駒にすることも――十分にあり得るのだ。




(――どちらも、嫌だ)




 逃れる唯一の方法は、魔術師として大成し、替えの利かない存在になること。




 母がそうだったように、塔が介入してくれる道を模索するしかない。




 成人まで猶予があると勝手に信じていたのは、浅はかだった。




 エイラは丁寧に髪をとかし、結い上げた。




 鏡の中の自分に、作り物の笑みを引いてみせる。




 ――謁見の儀。 王族の血を引く者として、初めて王に向き合う場。




 ここで、塔の魔術師としての価値と未来を示せなければ。




 これからの人生はフリルとカーテンに囲まれ、ゴシップとお茶会、そして甘い騎士物語に慰められる日々になるだろう。




(とんでもない!)




 エイラはぶるりと身震いした。




 拳を固め、背筋を伸ばす。 呼吸を整え、ただ一歩を踏み出す。




 ――大博打、大芝居の始まりだ。

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