駆け出しの見習い魔術師 ◇風の先にあるもの
塔に登って、瞬く間に三か月が過ぎた。
見習いたちの朝は早い。
夜明けとともに起き出して、早いうちから物見台に立つ。
先輩弟子たちが、風読みの修行を手伝ってくれる。
風読みの修行を通して、同期や先輩弟子と顔見知りになれるので、今後、塔で暮らすのなら意外に重要な時間だ。
いつもは、その後朝食をとって、午前は術式や数列、古代語をつかった体系魔法の訓練や師匠との議論の時間だった。
エイラは風読みが好きだった。
もはや手助けが、ほとんどいらないのは、半身が大梟だからかもしれないと、勝手に思っている。
風に身を委ねれば、遠くの町の匂い、人々の息遣い、ちょっとした立ち話――それらが、すべて手に取るようにわかった。
それに、とても遠くまで、よく見える。
どこかで咲いた芙蓉ふようの花に、滴が落ちる瞬間。
そして、生まれてから一度も見たことのなかった海。
その波間に太陽の光が反射してできる光の道。
無我夢中で風読みをしているとき、エイラはまるで、自分が羽根を持ったように、無邪気な気持ちになれた。
今日も、風読みの物見台へと続く暗い螺旋階段を登っていると、背後に気配を感じた。
振り返ってみると、ロディスが後ろからついてきていて、にっこり微笑んでいた。
「おはよう、エイラ」
「おはよう、ロディス」
エイラも微笑み返す。
滑らないように足元に気を配りながら、塔の鋸壁きょへきへ出る。
苔むした石壁は、昨夜の雨の名残で湿って、ひんやりとしていた。
眼下には、朝霧に沈む森が海原のように広がっている。
ここは、地上の喧騒が届かない、天空の孤島だ。
二人で並んで立ったところで、ロディスが口を開く。
「エイラ、昨夜メザルに確認したのですが……あなたは風読みだけでなく、遠見とおみもしているかもしれません」
エイラは少し目を見開いた。
「……遠見?」
ロディスはうなずき、壁際の石に腰を下ろす。
塔の周囲を囲む森の先、山々の彼方へ視線を投げるようにして言葉を続けた。
「風読みは、気流に意識を乗せる術です。香りや音の伝わりを感じ取ります。
経験した記憶をもとに情報が再構築される。でも……見たことのない情景、たとえば海が見えるというのは、少し違うと思うんです」
隣の鋸壁に立っていた少女が、栗色の髪を二つ結びに揺らし、興味深げにこちらを振り返った。
エイラは静かに呼吸を整え、目を閉じる。
穏やかな陽の光が額をあたためるのを感じながら、遠くの風の筋を探す。
森を抜けてきた朝の風が、まるで応えるように頬を撫でていく。
その風の源をたどると――
蔦に覆われた古城に、絹糸のような雨が降っているのが見えた。
「あちらの方角の古いお城に、弱い雨が降っています。……確かめようがありませんが」
エイラは肩をすくめた。
「それ、本当だと思う」
少女がこちらに歩み寄ってきた。
「私はアイビー。半身も蔦なの。そのまんまだよね」
少女は両手を胸の前で合わせた。
「でね。ある程度、蔦が生えてるところで何が起きてるか、大体わかるの。
あの大きな楡の木の方角にあるお城でしょ? 今、本当に小雨が降ってるよ」
アイビーが小さく拍手すると、ロディスも微笑んだ。
「メザルが喜んでいましたよ。まったく、何も教えなくても学び取ってくれて楽ちんだ、とのことです」
「風読みと遠見の違いは何でしょう?」
「風読みは、香りや音から情報を得ます。映像が浮かぶ人もいますが、実際には匂いや音でイメージを作っているんです。だから、現地に行ってみると少し違っていることがある。遠見は……その目で、実際に見ている」
ロディスの言葉に、アイビーが笑った。
「難しいよね。たとえば――今日のごはんは何だろう……くんくん。お肉を焼いてるな。そういえば料理番がすごい勢いで包丁をたたいてたな。きっと、今日の料理はひき肉料理の何かだ! これが風読み」
大げさな身振りに、周りが思わず吹き出す。
「でも、そんなことしなくても、ちゃんと見えています。
今日の夕食は――おっきなハンバーグです。これが遠見――お分かり?」
アイビーの笑顔につられて、エイラもふっと口元をほころばせた。
緊張していた背筋が、少しだけ緩む。
けれど――そのときだった。
何かが、こちらを見ている気がした。
水鏡に映るもうひとりの自分と、ふいに目が合ったような感覚。
それは自分自身なのに、自分ではない。
名を知らぬ記憶。
輪郭のない面影。
ほんの一瞬、風が頬を撫でていった。
冷たく、けれど、どこか懐かしいような。
心の奥にそっとふれるような、静かなまなざし。
(――誰?)
エイラはゆっくりと風に意識を潜らせていく。
香り、音、そして光のかすかな揺らぎ――。
風の道を辿って、その視線の来た方角を探す。
――けれど、そこにあったのは、ただの静寂だった。
森のざわめきと、朝の匂い。
そして鳥の羽ばたき。
まだ届かない、もっとそのはるか先の場所。
胸の奥を淡く締めつけるような、もどかしさだけが残った。
「エイラ?」
ロディスが隣で声をかける。
その声は、霧の中で見つけた灯台の光のように、遠くへ飛び去ろうとしていたエイラの意識を塔に引き戻した。
彼女はゆっくりと目を開いた。
心配そうな翡翠色の瞳が、すぐ近くにある。
(……ああ、戻ってこられた)
無意識に安堵のため息が漏れる。
「――ごめんなさい、何でもないわ」
そのとき、視界の隅でヨナが静かに羽をふるわせた。
エイラが目を凝らしていた遥か彼方を見つめ、胸の奥から、鋭く澄んだ声をひとつ響かせる。
――クィ、アアアァァ……。
それは、笛の音のようでもあり、慟哭のようでもあった。 まるで、遠くにいる片割れを呼ぶように。
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そして、遥か遠く――あわいの空。
――キャア。
黒銀の梟が、弧を描いていた。
イラヤはゆっくりと空を仰ぎ、小さくつぶやいた。
「――呼び合っているんだね」
傍らでその声を聞いた幼い少女が、そっと空に目を向ける。
無垢な青灰の瞳が、懐かしい姿を捉えようとした。
けれど、イラヤは大きく温かい手で、やさしくその目を覆い、視界を閉ざした。
「もう、うちにおはいり。遠見を使ってはいけないよ」
暗闇の中で、少女は不思議そうに瞬きをする。
イラヤは黒い髪を優しくなでた。
「まだその時ではないからね。……お前たちは、まだ」




