魔族の国
「魔族たちの忠誠の誓いの厳かな残響は、クソデカいクレーターが抉れた戦場跡の死んだような静寂へと、ゆっくりと溶けていった。
俺は巨大な穴の底で、目を限界まで丸くしたまま、完全に思考を停止して固まっていた。周囲の重力は未だに完全にねじ曲がったままで、自分の手足がまるで頑丈な鉛の塊のように重く感じられた。
「おい、マジで言ってんのかよ!?」
俺の絶叫が、
静まり返った戦場に滑稽に響き渡った。
「俺はただ平穏に引きこもりたいって言っただけだろ! なんで俺の猫は生態系を破壊する掃除機になって、俺は立ってるだけで惑星を破壊し始めて、
あんたたちは俺をラスボスみたいに扱ってんだよ! こんなの契約書に書いてなかったぞ!」
イナは地面に両手をフラットに叩きつけた姿勢のまま、決して顔を上げようとはしなかった。
「その謙遜こそが、
エイン様の絶対的な威厳を証明しております。
真の支配者は力を渇望しません。ただ、
力がその絶対的な意志に従うのです」
「謙遜してねぇよ! 本気で怠けたいだけだ!!」
俺は重たい両手をぶんぶんと振り回しながら絶叫した。
「あと、その『様』っての、マジでやめろ! 緊張して胃が痛くなる!」
ナスがゆっくりと頭を上げ、その顔に深い畏怖と、プロの執事としての完璧な規律を入り混じらせた。
「エイン様、あなたの放つ絶対的な威圧感のせいで、周囲の空間そのものが歪んでおります。
あなたが慈悲深く作り出されたこの構造的崩壊
(クレーター)から、
お身体を引き上げるお手伝いをさせてください」
俺がナスの言葉の真意を咀嚼するよりも早く、
あいつは物理的な常識を完全に無視してクレーターの中に直接踏み込んできた。そして完全なる、
底知れない恐怖を秘めた宮廷の礼儀作法に従い、
有無を言わさず俺の身体をがっしりと掴み上げると、そのままクレーターの外へと力ずくで抱え出したのだ。オークを素手で引き裂くほどの怪力を持つあいつですら、俺を抱え上げた瞬間にその両腕を重そうに強張らせていた。俺の身体の形状は何一つ変わっていないのに、足元で崩壊しかけている重力のせいで、まるでとてつもない重量の戦艦を泥の中から手作業で抱え上げているかのような重圧があいつにかかっていた。
「非礼をお許しください、エイン様」
リサは顔を完全に引きつらせながら、地上に上がった俺の袖の土をパパッと綺麗に払い落とした。
「これからの力仕事は、
すべて私たちにお任せください」
「歩けるわ! 自分の体内の質量をちょっと調整する時間が欲しいだけだ!」
俺は文句を言いながら、
なんとか地面へと這い上がった。
俺の隣では、ナスがミクロを、
まるでいつ爆発するか分からない、惑星を破壊する危険な爆弾であるかのように慎重に持ち上げた。
その時、ミクロが突然自分の足を舐めるのを止め、じっとナスの顔を見つめると、
喉の奥から妙に人間くさい甲高い声でハッキリと、
『……にゃ。』と鳴いた。
俺の顎は地面に落ちんばかりに外れかけた。
(この裏切り駄猫……! こいつ、
族どもの妄想に便乗するためだけに、
今『サマ』って言葉を学習しやがったな!?)
ナスは文字通り忠誠の涙をその目に浮かべ、
両手をさらに小刻みに震わせた。
「み、ミクロ様が、
私の不甲斐ない奉仕を認めてくださった……。
本当に、我が人生に悔いなしです」
クレーターから脱出した一行は、
再び魔族の国へと向かって歩き始めた。しかし、
その空気は一から十まで完全に一変していた。
最強の魔族の戦士たちは、もう俺たちの前を歩こうとはしなかった。それどころか、まるで高度に訓練された、しかし極度に緊張しているボディガードのように、俺の踵の後ろにぴったりと張り付いて歩いている。俺が歩くたびに、うっかり足元で小枝がいつもより重たい音を立ててパキッと折れるだけで、ナスとリサは一瞬で全身を硬直させ、即座に防御結界を展開する構えをとるのだ。
「なぁ、聞いてくれよ、イナ」
俺はうねるような山道を歩きながら、
少し後ろを振り返って声をかけた。
「一つだけはっきりさせておく。
俺があんたたちの国に行ったとしても、
書類仕事なんて絶対にやらねぇからな。
普通のシンプルなアパートと、ゼロの責任、
そして死ぬまでの飯を保障しろ。俺はただ、
一歩も外に出ずに、
静かに平穏なニート生活を送りたいだけんだ」
俺の二歩後ろを敬意を持って歩いていたイナは、
深く、尋常ではない真剣さで頷いた。
「完全に理解いたしました、エイン様。大衆の目から己の存在を完全に隠匿し、俗世の退屈な事務仕事を拒絶することで、その底知れない力を完全なる静寂の中で培う……。そして、我らの敵に対してその戦略的動向を一切悟らせないというおつもりですね。真に、あなたの深遠なる知恵は、私たちの想像を遥かに超えております」
「今俺が言ったことの、
一から十まで完全なる真逆じゃねぇか!!」
俺の元ギャングリーダーとしての本能が、あまりの骨折り損に突き動かされて口をついて出た。
「戦略なんてねぇよ! 俺はただ、
ゲームをして過ごしたいだけ――待て、
あんたたちの世界、
そもそも電気すらねぇじゃねぇか! あぁ、
俺の究極の引きこもり計画が、
始まる前に完全に終わったわ」
「そのお言葉には、
深い比喩的な意味が込められているのですね、
我が主よ」
ミクロをまるで国宝の遺物かのように恭しく抱えたナスが、後ろから滑らかに言葉を挟んだ。
「魔王城の中で最も隔離された、
最高の隠し部屋をご用意し、
あなたの絶対的な引きこもり(隠棲)
をお迎えいたします」
俺は深い、深い溜め息をつき、
完全に考えるのを放棄した。
こいつらの容赦のない勘違いに対して、
俺にできることなんて何一つ残されていなかった。
まばらになり始めた原生林を歩き続けること約二時間。古の小道がようやく開けた。
目の前に現れたのは、魔族の国の首都を囲む、
壮大で禍々しいファンタジーの境界線だった。
黒曜石のような巨大な石壁が、
温かい空を衝くようにそびえ立ち、
その表面には古の防御魔法の赤黒いルーンが不気味に脈打っている。巨大な鉄の門は固く閉ざされ、
重たいハルバードを握りしめた鎧姿の魔族の兵士たちが、厳重な警戒体制を敷いていた。
だが、
門の数十メートル手前に差し掛かったその時、
イナが突如として手を挙げ、一行に停止の合図を送った。彼女は真剣な表情で俺を振り返った。
「エイン様、ミクロ様」
イナは、
猫に対する尊称をも自動的にアップデートして、
周囲に聞こえないような低い声で囁いた。
「お二人の放つ絶対的な威圧感はあまりにも強大すぎます。このまま門をくぐれば、その莫大な**魔力**のオーラによって、
首都全体が一瞬で大パニックに陥るでしょう。
城内での余計な混乱を防ぐため、
私の力でお二人の気配を隠蔽させてください」
「あぁ、頼むからそうしてくれ!」
俺はすがるようにため息をついた。
「もし俺を完全なモブ一般人に見せかけられるなら、あんたに勲章をくれてやるよ」
イナは静かに目を閉じ、
古の隠蔽魔術を唱え始めた。次の瞬間、
淡く輝く闇の魔力のヴェールが、
俺とミクロの身体を優しく包み込んだ。
ものの数秒で、空間を圧し潰しそうだったあの異常な重圧が完全に消え去り、ヴェールの内側へと完璧に封印された。第三者から見れば、今の俺たちは完全にどこにでもいる無力な放浪者にしか見えないはずだ。
「完了いたしました」
イナは小さく一礼した。
「これで、
騒ぎを起こさずに城内へ入ることができます」
俺たちは門へと続く最後の直線を歩いた。
イナの隠蔽魔術のおかげで、血みどろの戦争をくぐり抜けてきたベテランの衛兵たちも、パニックを起こしたり膝を折ったりすることはなかった。
彼らは衛兵としての威厳を保ったまま、イナ、
ナス、リサに向かって敬意に満ちた深い一礼を捧げ、巨大な鉄の門がギギギと重たい音を立ててゆっくりと開いていった。
「おかえりなさいませ、イナ様、ナス様、リサ様」
隊長らしき衛兵がハキハキと挨拶をし、ナスの腕の中にいる猫と俺の姿を一瞬だけ一瞥したが、
ただのしがない従者だと思われ、
すぐに視線を外された。
俺たちは街並みを立ち止まって見物することなく、イナたちの案内で入り組んだ通りを真っ直ぐ進み、やがて首都の中心にそびえ立つ魔王城の巨大な黒曜石の扉の前へと行き着いた。
その重厚な扉が開け放たれた瞬間、
俺たちは魔王城の謁見の間に足を踏み入れた。
その内部の空間は、文字通り桁違いに広大だった。見上げる天井は影の中に溶け込むほど高くそびえ立ち、巨大な柱の列には赤黒い魔王軍の軍旗が整然と並んでいる。広いホールの中では、ダークカラーの制服に身を包んだ数十人の城メイドたちが、それぞれ自分の仕事をこなしていた。古の魔理石を磨く者、スクロールを整理する者、巨大な松明の手入れをする者――。
しかし、
俺たちのグループが閾値をまたいだ次の瞬間、
ホール全体の動きがピタリと停止した。
メイドたちは一斉に手を止め、完璧に洗練されたシンクロニシティでこちらを振り返った。
全員が優雅に、深く頭を垂れ、その美しく統率された声が広大な空間にハーモニーとなって響き渡った。
「おかえりなさいませ、イナ様、ナス様、
リサ様、ルーン様」
俺は入り口のド真ん中で完全に硬直していた。
首を限界まで後ろに傾け、
非現実的なスケールの建築物を見上げながら、
その顔を完全なるドン引きの表情で固めていた。
「おいふざけんな、マジで言ってんのかよ!?」
俺の絶叫が広大な謁見の間に大音量で響き渡り、
何人かのメイドたちが驚いてビクッとこちらを振り返った。
「俺は普通の、
目立たないシンプルなアパートって言っただろ!
なんで空よりも天井が高いパレスに俺を連れ込んでんだよ! この部屋一つに近所一帯が丸ごと収まるじゃねぇか! トイレに行くだけで大移動になるような場所で、どうやって静かなニート生活を送れってんだよ!?」
イナは俺の取り乱しぶりなど完全にスルーして、
ただ静かに微笑むだけだった。
彼女は一歩前に出ると、
分厚い木製の扉が並ぶ広い廊下を指し示した。
「エイン様、長旅でお疲れでしょう」
イナは優しく言った。
「どうぞ、リサに従ってください。
彼女があなたを専用の部屋へと案内します。
そこであなたもミクロ様も、
ようやく身体を休めてください」
リサは一礼すると、
静かな廊下の奥へと俺たちを導き、
プライベートな大部屋の扉を開け放った。
その中に足を踏み入れた瞬間、
かつてないほどの深い安堵感が全身を駆け巡った。俺は身体を限界まで伸ばし、重たい手足をマットレスの中へと深く沈み込ませて身体を休めていた。
「まぁ……」
俺は広々とした、
静まり返った部屋をぐるりと見渡しながら、
心の中で呟いた。
「王様みたいな生活をするのも、
そこまで悪くねぇな。家事も一切なし、
ゼロの責任、精度勝手に飯が運ばれてくる。
もしこれがラスボスになるってことの意味なら、
案外悪くねぇかもしれない」
周囲の静寂を破るように、
柔らかいブランケットの真ん中でミクロはただ、
いつも通り暢気に、執事の顔を見上げながら気の抜けた鳴き声をあげるのだった。
「……サマ、にゃぁーーお」」




