予期せぬ提案
(待てよ……この魔族って奴ら、
見た目は完全に普通の人間と変わらねぇな)
俺は前髪の隙間から恐る恐る顔を上げ、
心の中で呟いた。
(だけど、決定的な違いが一つだけある……。
あいつらの、あの目だ)
オークを両断した戦士が、
声を上げて豪快に笑い出した。
「ハハハ! イナ様、よろしければこの二人を『鑑定』してみてはいかがですか?」
彼は俺の必死な命乞いがよほどツボに入ったのか、可笑しそうに笑い続けている。
(鑑定?)俺は眉をひそめた。(なんだそりゃ?)
イナは小さくため息をつき、
興味なさそうに首を振った。
「その必要はありません。
この者たちがどれほど無様で哀れか、
見れば分かるでしょう。ただの――」
だが、
イナがその言葉を最後まで言い切るよりも早く、
彼女のすぐ隣に立っていたローブの小さな少女が、突如としてその場で凝固した。
彼女の身体全体が激しくガタガタと震え始める。
その顔からは一気に血の気が引き、完全な、
底知れない恐怖に歪んだ表情のまま、膝から崩れ落ちるようにドスンと地面にへたり込んだ。
リーダーであるイナが、衝撃に目を見開いて彼女を振り返る。
「どうしたのですか、ルーン?
まさか……彼らを鑑定したのですか?」
ルーンはすでに、俺とミクロを『鑑定』
してしまっていたのだ。
尋常ではない異変を察知したイナは、
即座に自身のスキルを発動し、
俺たちを同じように鑑定した。
空間そのものが凍りついたかのような錯覚の中、
スキルが完了した次の瞬間、
イナの絶対的な威厳は木っ端微塵に砕け知った。
彼女の顔は見たこともない絶望と恐怖に染まり、
目を見開いたまま、
よろよろと後ろへ激しく後退した。
「な……何ですか、この力は……!?」
イナの声は完全に震えており、まるで目の前に世界の終わりそのものが立っているかのような目で俺たちを凝視した。
「魔力もスキルも完全にゼロなのに……この者たちの力には、限界(上限)
が一つも存在しない……!?」
残りの魔族の戦士たちも一瞬でパニックに陥り、
困惑しながらリーダーの周囲に固まった。
「イナ様!? 一体どうされたのですか!?」
一方、そんな周囲の混沌など一ミリも理解していないエインとミクロは、
お互いの顔をただ呆然と見つめ合っていた。
何が起きているのか、
二人は一から十まで完全に意味不明だった。
張り詰めた気まずい沈静を破るように、
ミクロはただ、いつも通り暢気に、
気の抜けた鳴き声をあげた。
「……にゃぁーーお」」
「イナが驚愕の事実に気づいた直後の、
不気味なほどの静寂は長くは続かなかった。
主
の突如たる動揺を察知した魔族の戦士たちは、
即座に臨戦態勢へと移行した。次の瞬間、
彼らは完璧な連携で素早く散らばると、
俺とミクロの周囲を完全に包囲した。
まだ武器こそ抜かれていなかったが、
放たれる絶対的な殺意は、
常人なら息が詰まるほどに濃厚だった。
彼らはその場で俺たちを仕留める気満々だった。
「おい、待て! 頼むから殺さないでくれ!」
俺は完全にわけが分からないまま、地面に膝をついた状態で両手をディフェンシブに突き上げた。
「俺たちは無害だ!
ただ静かに平穏に暮らしたいだけなんだ!」
先ほどオークを素手で木っ端微塵に粉砕した戦士、ナスが冷酷に鼻を鳴らした。あいつは何の躊躇もなく猛然と前方に踏み込むと、その剥き出しの拳を、凶器のごとき鋭さで俺の頭部めがけて突き出してきた。
俺は衝撃に備えて身を硬くしたが、
その一撃が届くことはなかった。
パシッ!
細く白い手が、
目にも留まらぬ爆発的な速度で割り込み、
俺の顔面のわずか数センチ手前でナスの手首をがっしりと掴み取っていた。イナだった。
「そこまでだ、ナス」
イナの声は低く、絶対的な威厳を帯びていた。
「この二人には、真に戦う意志がありません」
ナスは身体を硬直させ、
拘束された自分の手首を睨みつけた後、
ゆっくりと構えを解いた。
「……御意、イナ様」
イナは静かにナスの手首を離すと、
その人間離れした鋭い瞳を再び俺たちへと向けた。彼女が一歩近づくたびに、
分厚いローブが草をこする音が不気味に響く。
「あなた方は一体、何者なのですか?」
俺は完全に言葉を失い、
脳内で必死に言い訳を探したが、
何一つ論理的な言葉が出てこなかった。
俺が黙り込んでいると、イナは俺の魂まで射抜くような視線を向けたまま言葉を続けた。
「あなた方の力は、
魔王様にすら匹敵する……いえ、
それ以上かもしれない潜在能力を秘めています」
地面でまだガタガタと震えていた小さな少女ルーンを除く、
残りの二人の魔族の戦士たちが一斉に息を呑んだ。
「どういうことですか、イナ様!?」
「私にすら、この者たちの力の理 どうり
が理解できないのです」
イナは深く思考を巡らせるように表情を険しくした。
「魔力は完全にゼロ、
そしてスキルも何一つ所持していない。……にもかかわらず、その力が呼び覚まされた時の異常性は、あまりにも恐ろしい」
残された魔族たちは完全に絶句し、困惑とパニックの入り混じった視線を交わし合った。
(おいおい、この魔族どもは一体何について語り合ってやがるんだ?)
俺の心臓はドラムのように激しく脈打ち、
脳内でパニックの悲鳴が上がった。(まさか、
あの真っ白な空間で、あの唯一絶対の神が俺たちに押し付けたあの力のことか? だとしても、
なんでこの化け物どもがそんなに本気で怯えてるんだ? そんなにヤバい力なのかよ?)
俺はゆっくりと息を吐き、
必死に冷静さを取り戻そうとした。
(まあ、今はそんなことはどうでもいい。問題は、どうやってこの包囲網から生きて抜け出すかだ……)
俺が頭の中で必死に脱出計画を組み立てるよりも早く、イナがその思考を冷徹に遮った。
「あなた方に、一つ提案があります」
と、
彼女は言った。「提案……?」
俺はアホみたいにオウム返しに呟いた。
「ええ」
イナは再び絶対的な統率者の姿勢を取り戻し、
厳かに頷いた。
「我が国へ同行し、魔王軍の幹部(守護官)
となってもらいたい。……いえ、
なんならあなたを、我々の新しい『魔王』
として推薦してもいい。当然、
拒否権はありませんよ?」
「魔王ぉ!? 俺が!?」
俺の声が裏返った。
すかさずナスが一歩前に出て、
不満げに眉をひそめた。
「お待ちください、イナ様!
さすがにそれは過剰反応です。
人間にそのような大任を――」
「黙りなさい、ナス」
イナが冷たく一喝すると、
ナスはその一言で完全に口を閉ざした。
「そうだ、その通りだ!」
俺は必死に両手をぶんぶんと振って割り込んだ。
「あいつの言う通りですよ!
俺が魔王なんて絶対に無理です! 俺はただ、
静かに平穏なニート生活を送りたいだけなんです! 頼むからもう放っておいてください!」
「それは不可能です」
イナは冷徹に、
一切の妥協を許さないトーンで言い放った。
「それに、あなた方は他ならぬ『私たち』
に最初に見出されたことを神に感謝すべきですよ。もしこれが他の勢力……特に『勇者』
たちに見つかっていれば、
あなた方は今頃確実に消されていましたからね」
俺は目を丸くした。
「勇者……?」
「勇者どもは、己の能力を鍛える
(レベリングする)ために、時折この危険な原生林の奥深くへと遠征してくるのです」
イナは腕を組み、冷たい視線で俺を見下ろした。
「さあ、どうするのですか?」
俺が答えようと口を開けかけたその時、
視線がふと自分の腕の中に落ちた。そこには、
国の命運を賭けた大交渉が行われているというのに、世界の終わりほどに暢気な姿で小脇に抱えられている黒い肉塊がいた。
あいつは器用に体をねじり、
自分の毛並みを整えるために、
猛烈な勢いで前足をペロペロと舐め回していた。
(待てよ……魔王って言えば、
ここに一番うってつけの適任者がいるじゃねぇか)脳裏に、
最悪で最高な現実逃避のアイデアが閃いた。
俺はイナを見上げ、
そのフワフワの塊を差し出すように持ち上げた。
「なぁ、だったらこいつはどうだ?
俺の相棒のミクロ。……こいつ、
見た目からして魔王にぴったりだろ?
なぁミクロ、お前が魔王やれよ」
ミクロは一瞬だけ足を舐める手を止めた。
ピキッと静止し、信じられないものを見るような冷ややかなジト目をゆっくりと俺に向けてきた。
「駄目です」
イナは俺の作戦を一瞬で切り捨てた。
「あなた方『二人で一組』
として、我が国へ来てもらいます」
(クソ、本当に逃げ道はねぇのかよ……)
俺は心の中で、まだ始まってもいない新しいスローライフの死を悟り、深い絶望の溜め息を漏らした。(俺の究極の引きこもり計画が、
初手で完全に崩壊しやがった)
素手でオークを両断するような化け物たちを相手に、こちらに交渉のカードなど一枚もない。
俺は完全に諦め、肩の力を抜いた。
「……分かったよ。あんたたちの国とやらに行くよ」
イナの表情がわずかに和らぎ、
その瞳に満足げな光が宿った。
「安心しなさい。あなた方が望むライフスタイルはすべてこちらで保障します。当然、
あなたが切望する平穏な暮らしもね」
「……それ、本当ですか?」
俺は半信半疑で彼女を凝視した。
「ええ、この私が保証します」
イナは滑らかに微笑んだ。
(まぁ……それなら、いっそあっちの城とやらに囲われた方がマシかもしれないな)俺は心の中で、
なんとか都合のいい言い訳を探し始めた。
(王様みたいな生活ができるなら、悪くない。
これまでは、この怠け猫が王様みたいな生活をして、俺が奴隷みたいに一人で家事から何から全部やってたんだ。だが、今度は違う。
あいつらが全部用意してくれるなら、
俺は今度こそ正真正銘の完璧なニートになれる)
「ですが、その前に」
イナの声が、俺を現実へと引き戻した。
「あなた方がその内に秘めた力で、
一体何ができるのか、まずはその片鱗をここで私たちに見せてもらいたいのです」
「はぁ!? 俺たち自身、
自分の力の使い方なんて一ミリも知らねぇよ!」
俺は抗議した。
「心配いりません」
イナは確信に満ちた声で言った。
「その時が来れば、力そのものが勝手に私たちに示してくれるでしょう」
「……まぁ、もうどうでもいいけどな」
俺は完全に考えるのを放棄して呟いた。
ナスはため息をつき、一歩前に出ると、
どこか不承不承といった様子で俺に手を差し伸べてきた。俺がその腕を掴むと、
あいつは恐るべき怪力で、俺の身体をいとも簡単に地面から引き剥がすように立ち上がらせた。
「そういえば、
まだ自己紹介が済んでいませんでしたね」
イナは背後の仲間たちを振り返りながら、
俺たちに向き直った。
「私はイナ。魔王軍の副官であり、魔王様の守護官の一人です」
ナスは腕を組み、硬い表情のまま短く会釈した。
「俺はナス。魔王城の総執事だ」
もう一人のローブの女性が一歩前に出ると、
品のある、エレガントな一礼を捧げた。
「私はリサ。魔王城の総侍女
を務めております」
イナは、ようやく震えの止まった小さな少女の肩に優しく手を置いた。
「そして、こちらは私の専属補佐官のルーン」
俺は喉を鳴らし、ズボンの土をパパッと払った。
「……俺はアスロミ・エイン。で、
こっちの重たいのが相棒のミクロだ」
イナは微笑み、その表情に公的な温かさを戻した。
「それではエイン殿、ミクロ殿。
これからどうぞ、よろしくお願いいたします」
「こちらこそ」俺は腕の中の駄猫の位置を直しながら答えた。
ミクロは、期待を裏切ることなく、
完全にノーコメントだった。
あいつは鼻からフンッと小さく息を漏らすと、
何事もなかったかのように、再び自分の前足をペロペロと舐め始めるのだった。」




