魔族との遭遇。
「俺たちの平穏な暮らしの二日目は、一つの深刻な現実への気づきから始まった。
俺は、魚を食うのにもうすっかり飽き飽きしていた。
昨日の煙で燻した川魚のフィレは確かに美味かったが、
本物のニート生活を極めるためにはバラエティが必要だ。
「おい、ミクロ。今日は新鮮な肉を獲りに行くぞ」
俺はミニ小屋の外で袖をまくり上げながら宣言した。
「本当の狩りの時間だ」
毛が完全に乾いてフワフワの、いつもの傲慢な姿に戻ったミクロは、
胸を張って賛同の短い鳴き声をあげた。ジューシーな森の獲物という響きが、
あいつの気に召したらしい。俺は重たい黒猫を乾いた洗濯物のように肩へ引っ掛ける通りの手つきで、
即席の生木の銛を握りしめ、広場を抜けてうっそうとした原生林の木々の中へと足を踏み入れた。
。最初、森の奥深くは完全にいつも通りに感じられた。巨大な葉の隙間から、
朝の柔らかな木漏れ日が黄金の柱となって静かに差し込んでいる。
鳥たちは無線通信の通知音とは無縁の心地よいメロディを奏で、空気はひんやりと澄んでいた。
二十分ほど歩き続けたが、荒野は驚くほど空っぽだった。ウサギ一匹、シカ一頭、
美味そうな生き物は影も形も見当たらない。
「最高だな。本当にステーキを食いたきゃ、もっと奥まで行くしかなさそうだ」俺は目の前を遮る、
淡く光る太い枝を押し退けながら跨いだ。
さらに未知の領域へと足を踏み入れると、周囲の空気が一変した。鳥たちのさえずりがピタリと止まり、風が止んで息が詰まるような静寂が満ちていく。すると突如、俺の肩の上にある重たい肉塊が、
一本の棒のように硬直した。ミクロの耳は頭にぴったりと伏せられ、瞳孔は興奮で限界まで広がり、
目は完全に真っ黒な球体と化していた。あいつの身体全体が小刻みに震え始め、
喉の奥からパニックを起こした低い悲鳴を漏らす。
(何かを察知してやがる)
修羅場をくぐり抜けてきた男の勘が、俺の脳内でけたたましく警報を鳴らした。
俺は即座に手を伸ばしてミクロの首根っこを掴み、
気配を消したまま静かに茂みの奥へと退却しようとした。
ガオオオオオオォォォーーーッ!!!
鼓膜を破らんばかりの、この世の物とはえない咆哮が、俺たちの真後ろの木々を突き破って炸裂した。
その凄まし音圧だけで、俺の髪の毛が前方へと激しく吹き飛ばされる。
俺が勢いよく振り向くと、あまりの光景に顎が地面まで外れそうになった。
こちらに向かって猛烈な勢いで突進してきていたのは、二足歩行の巨大な怪物だった。
身長2メートルはゆうに超えるその巨体は、筋肉の塊のような緑色の皮膚に覆われ、
顎からは歪んだ牙が突き出ており、丸太のような腕には錆びついた鉄の棍棒が握られていた。
オークだ。それも、森の平穏な空気を完全にぶち壊しながら、
暴走機関車さながらの速度でこちらへ走ってくる。
「ふざけんな!! あれのどこがウサギだよ!!」俺は絶叫した。
ギャングリーダーとしてのプライドは一瞬でパニックにかき消された。
俺は肩からミクロをひったくると、あいつのやたらと重くて丸っこい身体を、
丸々と太ったアメリカンフットボールのように小脇にしっかりと抱え込み、
その場で脱兎のごとく反転した。
「フギャアアアアアァァァーーーッ!!!???」
ミクロは聞いたこともないような甲高い、
引き裂かれるような悲鳴をあげ、空気中で四つの足を激しくバタつかせた。俺たちの真後ろでは、
あの巨大なオークが猛烈な勢いで木々の太い枝を爪養枝のようにへし折りながら、
凶暴に追いかけてくる。
「死ぬ気で走れ!!」俺は腕の中の猫に叫びながら、
人生最高のトップスピードでスプリントを開始した。
それはもう、完全なる混沌だった。俺は巨大な木の根を飛び越え、発光するキノコをかわし、
トゲのある植物の隙間をアクロバティックに潜り抜けた。
その間、オークの重たい足音が後ろの地面を激しく揺らすたびに、ミクロはリズムに合わせて
「ニャオ! ニャー! フニャー!」
とパニックの悲鳴をあげ続けている。
怪物は俺たちを追い詰めながら、原生林のさらに深く、
光の届かない最も暗い場所へと強制的に追いやっていく。
俺の静かな午後を満喫する計画は完全に台無しだ。
苔に覆われた巨大な岩を回り込んだその時、
薄暗い小道のど真ん中に4人の人影が立っているのが突如として視界に入った。
彼らは頭からつま先まで、分厚い不気味なローブで完全に身を包んでいた。
(嘘だろ、さらに化け物の餌食が増えるだけじゃねぇか)俺は頭を抱えそうになった。
「おい!! 逃げろ!! 後ろからクソデカい不細工な化け物が――!!」
俺は彼らに危険を知らせようと、喉が張り裂けんばかりの声で絶叫した。
だが、その言葉が俺の口から完全に解き放たれるよりも早く、
ローブの人物の一人が――その場から瞬時に掻き消えた。速く動いたとかそういうレベルではない。
文字通り空間から煙のように消滅し、一ミリ秒前まで彼が立っていた地面の泥に、
かすかな衝撃の歪みを残しただけだった。
「はぁッ!?」
目の前で起きたあまりの異常事態に俺の足がもつれ、
湿った苔の上でズザザッと音を立ててわずかに減速してしまった。
震える猫を胸にきつく抱き締めながら、俺は本能的に、
緑色の追跡者との距離を確かめるために首を後ろへと巡らせた。
そこで、俺の動きが完全に静止した。脳が完全に思考を停止し、
目の前の光景という現実を処理することを拒絶した。
さっきまで猛烈な勢いで俺たちを追いかけていた巨大なオークは、もう走っていなかった。
それは空間の真ん中でピタリと静止し――頭頂部から股下まで、綺麗に真っ二つに裂けていた。
巨大な怪物の左右対称の肉体がずるりと左右に分かれ、鈍い音を立てて泥の中に激しく崩れ落ちる。
その凄惨な光景の真ん中に、完全に静止した状態で立っていたのは、
さっき一瞬で消えたはずのあのローブの人物だった。
謎のローブの人物はゆっくりと右手を引き戻し、完全に素手の拳から、
数滴の血をさりげなく振り払った。剣など使っていない。派手な魔法の呪文も唱えていない。彼は、
2メートルを超える鎧を着た化け物を、文字通り自分の『素手』だけで真っ二つに叩き割ったのだ。
俺の顔から一気に冷や汗が噴き出した。俺は呆然と、そのローブの人物を直視した。その時の俺の顔は、あまりの非科学的な現実を前に、完全なる絶望と「いや、おかしいだろ……」
というドン引きの表情で固まっていた。
俺の腕の中で、ミクロは死んだ怪物を凝視したまま、口を限界まであんぐりと開けていた。
あいつはゆっくりと首を巡らせて俺の顔を見上げると、
完全にトラウマを植え付けられたような声音で、弱々しく鳴いた。
「……にゃぁ」
不気味なほどの静寂が辺りを支配する中、化け物を一撃で粉砕したローブの人物が、
グループの中心に立つ人物へとわずかに向き直った。
「イナ様、この人間は何者でしょうか?」
彼の声は低いが、底知れない威厳が宿っていた。
リーダー格と思われるその人物が一歩前に出た。顔は見えないが、圧倒的な存在感を放っている。彼女は俺たちの方を向き、鋭く探るような声を向けた。
「なぜ、人間と一匹の猫が、これほど危険な森の奥深くにいるのですか?」
(この者たちの顔は分厚いローブに覆われていて全く見えない……だが、俺の直感が叫んでる。こいつらは全員、とんでもなく危険な奴らだ)俺は心の中で毒づきながらも、表情を完全に殺した。
俺はツバを手飲み込み、リーダーの問いに答えた。
「俺たちは、ただ今日の昼飯の肉を狩りたかっただけなんです。そしたら突然あのオークに追いかけられて……この森がこんなに危険な場所だなんて、本当に知らなかったんです」
オークを葬ったばかりのローブの男が、低く鼻で笑った。
「興味深い。他の同族よりも遥かに速く走るあのオークを相手に、それほど長く逃げ回れるとはな」
「当たり前だろ!」
俺のギャングリーダーとしての本能が、恐怖を突き破って口をついて出た。
「こっちは命がけで走ってんだよ!」
リーダーは俺の反論を無視し、見えない瞳で俺を射抜くように見つめた。
「それで、お前はどこの国の出身ですか?」
俺は一瞬だけ間を置き、頭の中で即座に偽の生い立ちを組み立てた。
「俺たちは……小さな村の出身です。でも、その村が少し前にモンスターに襲われて、だから俺とこの猫は逃げ出してきたんです。それで、気づいたらここにいました」
完全なる、大嘘だ。
「なるほど、そういうことですか」
イナは静かに答えたが、その声音から真意を読み取ることはできなかった。
俺は一か八かの賭けに出るように、喉を鳴らして問い返した。
「……あんたたちこそ、一体何者なんだ?」
リーダーは処破しなかった。彼女はゆっくりと手を上げ、分厚いフードを後ろへと引き下げた。露わになった彼女の容姿は、息をのむほどに美しかった。
「私たちは、魔族の国の者です」
その言葉と同時に、残りの3人の人物も一斉に追随し、フードを脱ぎ捨てて素顔を晒した。
俺の心臓が跳ね上がった。俺の生存本能はすべての論理を無視し、俺はその場に一瞬で膝をついて、
文字通り全力で命乞いをした。
「頼むから殺さないでくれ! 命だけは助けてください!」
俺は湿った泥の地面に頭を擦りつけるようにして絶叫した。
「俺たちはただ、静かに平穏に暮らしたいだけんだ、頼む!」
俺が完全にパニックに陥り、魂を皿に乗せて差し出すような勢いで命乞いをしている間、
ミクロはあろうことか、盛大にあくびをした。
あいつは俺の腕の中で何事もなかったかのようにのんびりと座り直すと、
恐ろしい告白など完全に無視して、自分の身体を綺麗にするために前足をペロペロと舐め始めた。




