原生林の平穏な暮らし、一日目
「川の流れる轟音が次第に遠ざかり、
うっそうとした原生林の木々が拓け始めた。
湿って重たい猫を濡れた洗濯物のように左肩に引っ掛け、未開の荒野を歩き続けること約一時間。
空を覆っていた巨大なキャノピー(樹冠)
が途切れ、
ついに鮮やかな太陽の光が視界に飛び込んできた。
目の前に広がっていたのは、
川の湾曲部に沿って美しく拓けた、
半円形の平地だった。草は短く、青々と茂り、
文明の気配は微塵もない。
背後にはそびえ立つ巨大な岩壁があり、
雨風をしのぐ天然の障壁になってくれそうだった。
「よし、ミクロ。ここだ。見てみろ、
無線通信のアンテナも、電波塔も、
うざい人間もここには一人もいない。
小屋を建てるには最高のロケーションだぜ」
肩の上で、びしょ濡れの毛玉は、
まるで不動産物件には一ミリも興味がないと言いたげに、「ふにゃぁ……」
と力なく鼻を鳴らしただけだった。
俺はあいつを日当たりの良い温かい草の上に無造作に放り出した。ミクロは着地するなり、
台無しになった気品を取り戻そうと、
猛烈な勢いで濡れた前足を舐め始めた。
俺はすぐに意識を切り替え、
広場の端にいくつか転がっている、
太くて頑丈な倒木の方へと歩いていった。
「暗くなる前に、こいつらを組み合わせて雨風をしのげる避難所を作らねぇとな」
俺は袖をまくり上げ、
自分の胴体ほどもある太い倒木に近づいた。
道具は一切ない。斧も、ナイフも、
紐一本すら持っていない。頼れるのは、
完全な野生のサバイバル技術だけだ。
不良グループとの修羅場をくぐり抜けてきた男は、そこにある環境だけで適応する術を知っている。
まずは骨組みだ。俺は森の境界線を歩き回り、
風で折れた頑丈な枝をいくつか拾い集めた。
岩壁のふもとに、太いY字型の枝を二本配置する。重くて平らな石を即席のハンマー代わりに使い、
尖った枝の先端を柔らかい土の奥深くへと叩き込んだ。二本の柱が約2メートルの間隔でしっかりと垂直に立つと、次に棟木
となる長くて真っ直ぐな棒を探し、
二本の柱の分かれ目にしっかりと固定した。
「おい、そこでカッコつけて座ってないで、
少しは葉っぱでも集めてこいよ」
俺はミクロに声をかけたが、猫は瞬き一つせず、
ただゴロンと横になって腹を太陽に向けた。
完全に「無能な居候」の役割に徹している。
俺はため息をつき、作業に戻った。
釘も縄もない状態で構造を安定させるため、
近くの木から剥ぎ取った長くて柔軟なツル植物を利用することにした。
ツルを川の水に数分間浸して柔らかくしてから、
木製のフレームの継ぎ目をきつく縛り上げる。
濡れたツルが太陽の光で乾くと、
ギュッと縮んで締め付けられ、
木製のポールは驚くほど頑丈に固定された。
次は地道な作業だ。
俺は何十本もの葉の茂った枝を集め、
フレームに対して下から上へと、
屋根の瓦のように隙間なく重ねていった。
この自然のレイヤーが、雨水を内部に滴らせず、
外へと滑り落とす役割を果たす。
最後の仕上げとして、断熱材代わりに分厚い泥と追加の葉を屋根全体に敷き詰める頃には、
空は深い、
温かみのあるオレンジ色に染まり始めていた。
太陽が地平線の向こうへと沈みかけている。
時間がなかった。
「小屋はだいたい完成したが、
今すぐ飯を食わねぇと、
暗闇の中で餓死することになるな」
泥と汗を拭いながら、俺はさっき放り出しておいた真っ直ぐで頑丈な生木の枝に歩み寄った。
ナイフの代わりに、川べりで見つけた驚くほど鋭利でギザギザした火打石の破片を握りしめる。
歯を食いしばり、摩擦と根性だけで、
枝の先端を削り落として鋭い形に尖らせた。
さらに、石の薄い破片を使って先端を四つに裂き、その隙間に小さな小枝を挟み込んで先端を広げる。これで、自作のフィッシングスピアー(魚突き銛)の完成だ。
自作の銛を手に、
俺は冷たくて透き通った川へと足を踏み入れた。
毛がようやく乾いてフワフワに戻ったミクロが、
川辺へとトコトコ歩いてきた。
あいつは川のすぐ横にある平らで乾いた岩の上に、上品に腰を下ろすと、
尻尾を前足の周りに綺麗に巻き付けた。
応援の鳴き声一つあげず、ただその大きな、
品定めするような目で俺をじっと見つめている。
まるで、五つ星の料理がテーブルに運ばれてくるのを待っている、高級レストランの料理批評家だ。
「じっと見てろよ、このニート猫。
もし一匹も捕れなかったら、
今夜のお前の飯は草だからな」
流れる電流のような川の中でじっと身を潜め、
俺は銛を肩の上に構えた。水の中には銀色の鱗を持った丸々と太った魚が群れているが、
ただの木の棒でこいつらを捕まえるには、
水の屈折率を計算した正確なタイミングが必要だ。水中の岩の近くでホバリングしている、
ひときわ大きな一匹に狙いを定める。
目で見た位置よりもわずかに低めに照準を合わせ、息を止めた。
ザシュッ!
爆発的な速度で銛を突き出すと、
川底で魚を正確に捉えた。魚が暴れるたびに、
生木のシャフトが手の中で激しく振動する。
俺はニヤリと笑い、銛を水面から引き揚げた。
先端の四つの爪の間に、バタバタと跳ねる立派な獲物がしっかりと挟まっていた。
岩の上から、
ミクロの耳がピクッと瞬時に跳ね上がった。
あいつの目はギラギラと輝く銀色の魚にロックオンされ、瞳孔が興奮で一気に開く。そして、
「早く調理しろ、執事」と言いたげに、
要求の多い、偉そうな鳴き声をあげた。
「はいはい。焦んなって」俺は笑いながら、
太陽の最後の光が空から消えるのと同時に、
岸へと上がった。
大自然の中に本格的な闇が降り立ち、
気温が一気に下がり始める。
急いで火を起こす必要があった。
岩壁の近くの乾燥した堆積物をあさり、
火口
となる乾燥したシダの葉をひと掴み集め、
乾いた小枝と太い薪の山を用意した。
マッチはないため、弓きり式の火起こしを試みる。頑丈なツルを張った湾曲した枝を『弓』にし、
真っ直ぐな硬い木を『心棒』、柔らかい倒木の皮を『火きり板』にした。
板を足でしっかりと踏みつけ、
心棒にツルの紐を巻き付け、
鋭い火打石で削った小さなくぼみにセットする。
そして、リズミカルに、
素早いストロークで弓を前後へと引き始めた。
摩擦と、忍耐。絶対に手を止めるな。
やがてくぼみから灰色の煙が立ち上り、
木が焦げる特有の匂いが漂い始めた。
肩が激しく痛んだが、小さな、赤く輝く炭化パウダーが乾燥した葉の上に落ちるまで押し続けた。
その火種を慎重に乾燥した火口の巣へと移し、
両手で包み込むようにして、ゆっくりと一定の息を吹きかける。赤熱した光が広がり、次の瞬間、
パッと鮮やかなオレンジ色の炎が暗闇を照らし出した。
炎が消えないよう慎重に小枝をくべ、
やがて轟々と燃え盛る心地よい焚き火が、
俺たちの小さな川辺の広場を明るく照らし出した。
鋭い石の破片を使い、川の水で魚の内臓を素早く処理して綺麗に洗い流すと、生木の串に突き刺した。二本の股状のスティックで串を支え、
パチパチと爆ぜる炭火の上にかざす。
すぐに、じゅわっとした脂の焼ける、
たまらない香りが周囲に広がり始めた。
ミクロは即座にその高貴な姿勢を崩し、岩から滑り降りて焚き火の近くへと忍び寄ってきた。
鼻をピクピクと激しく動かしている。
中まで火が通ったところで、
俺は太った魚を真っ二つに割った。そして、
ひときわ身の詰まった大きな部分を、
綺麗で平らな石の上に放り投げてやった。
要求の多い毛玉は、
執事が全ての苦労をしたことなど完全に無視して、躊躇なくそこに食いついた。
俺は残りの半分を掴み、
木製の串から直接かぶりついた。
塩も調味料もない素朴な味だったが、
スモーキーな風味と、新鮮で柔らかい身は、
日本のどのコンビニ飯よりも美味く感じられた。
腹が満たされ、
焚き火が赤く輝く保護色の炭火へと変わる頃、
今日一日の圧倒的な疲労感が一気に押し寄せてきた。何時間もの肉体労働で筋肉は死ぬほど疲れていたが、それはどこか心地よい疲れだった。
俺は葉で断熱された狭いミニ小屋の中へと這い入った。空間は狭かったが、厚く重ねられた屋根が冷たい夜風を完全に遮断してくれていた。その数秒後、濡れた洗濯物だった重たくて温かい黒い塊が中へと潜り込んできて、俺の胸元に遠慮なく丸まった。
まるで毛むくじゃらの、振動する湯たんぽだ。
ミクロは深く満足そうなゴロゴロという音を響かせ、すでに半分眠りについていた。
「おやすみ、怠け者のニート猫」
俺は呟き、目を閉じた。携帯の電波塔も、
インターネットのシグナルも、
何一つ存在しない世界の、深い静寂の中で、
俺は深く、心地よい眠りへと落ちていった。」




