人間の国への旅路
俺の顎は完全に地面へと落下した。俺はその場に突っ立ったまま、目を極限まで剥き出しにし、自分の視界が捉えた光景を本気で信じることができなかった。(おいふざけんなよ!? こっちはあのチタン合金みたいな化け物戦車相手に死ぬ気で猛打とキックのラッシュを繰り出して一ミリも動かせなかったってのに、うちの駄猫は座布団の上に暢気に座りこんだまま一発で服をズタズタにする決定打を叩き込みやがったぞ!? 理不尽だろこれ!!)
俺の後ろでは、イナとルーンちゃんも完全に衝撃のあまりフリーズしていた。普段は完璧に冷静沈着なイナの美しい顔が完全なドン引きの白目剥き表情へと変貌し、右手を口元に当てて固まり、ルーンちゃんにいたっては顎が外れんばかりに下がりすぎて、抱えていた巨大な魔導書をうっかり手から滑らせ、ズドンと重たい音を立てて地面に落としてしまっていた。
しかしナスは完全に硬直した次の瞬間、切り裂かれた自分の衣服を見つめながら、その目に完全なる歓喜の涙を溢れ出させた。
「す、素晴らしい……っ! あくびの直後に、一切の身のこなしを崩すことすらなしに逆襲を仕掛けられるとは……! これほどまでに絶対的で、恐るべき鋭さの不可視の斬撃を、何一つ気にかける風もなく顕現させるとは、ミクロ様の才能、まさに限界なき至高の領域! 私は今、激しく感動しております!」
俺はゆっくりと片手で顔を覆い、執事が出し抜かれてなお猫を褒めちぎり続けている不条理な光景を見つめながら、再び深い、深い絶望の溜め息を漏らした。(この次元ごと丸ごと返品してぇわ……)
荒れ狂う中庭の混沌を破るように、高級な座布団の上でミクロは頭の上の小さな金の王冠の位置を少しだけ直すと、いつも通り不敵に、気の抜けた鳴き声をあげるのだった。
「……にゃぁーーお」」
「俺は頭の上の金の王冠の重みに軽い頭痛を覚えながら、黒曜石の巨大な最高玉座に威風堂々と腰掛けていた。俺のすぐ隣では、専用のベルベットで作られた小さな特注玉座の上にミクロがちょこんと座っており、俺がその艶やかな黒い毛並みを優しくペロペロと撫でている間も、いつも通り完全に超然としていた。
突如として、謁見の間の重厚な鉄の扉が左右に開き、一人の魔族の近衛兵がドカンと音を立てて突進してくると、大理石の床の上で片膝を突いた。
「エイン様! ヴァレリウス帝国からの公式の使者が城に到着し、即座の謁見を求めております!」
俺が許可を出すよりも早く、ホールの中心に光り輝く魔導陣が視覚的に顕現し、中から洗練された帝国の特使が一歩前に踏み出してきた。その使者は、ステージの上の俺たちに向かって、これでもかと敬意に満ちた深い一礼を捧げた。
「魔族の国の最高支配者様、お初にお目にかかります」
使者の声は、ハキハキとしたプロとしての冷徹な重みを湛えていた。
「我が帝国の厳格な要件が完全に達成されたことを、正式にご報告に上がりました。あなた様に加え、すでに世界中の六つの国家の支配者たちが、この和平協定の公式招待に正式に同意いたしました。国際和平サミットは、正確に三日後に帝国の首都にて公式に開催されます。あなた様におかれましても、即座に帝都へのご出発の準備を整えられますよう。報告は以上となります。貴重なお時間を割いていただき、誠にありがとうございました、魔王様。それでは、私はこれにて失礼いたします」
あいつは洗練された動作でパチッと指を鳴らすと、その姿は一瞬にして虚空へと溶け込み、空間に淡い魔力の残光だけを残して完全に消え去ってしまった。
俺は玉座の冷たい背もたれに深く寄りかかり、深い、深い絶望の溜め息を漏らした。
「あぁ……どうやら、俺たちも出発の準備をしなきゃいけないみたいだな。
旅の準備は一から十まで全部任せたぞ、イナ」
イナは大理石の階段の下から、
優雅に深く一礼した。
「御意にございます、エイン様。即座に宮廷の最高の手際で従者たちを組織し、出発の行程
(スケジュール)を完璧に保障いたします」
「そういうことであれば!」
ナスがプロの執事としての容赦のない規律を炸裂させ、その顔を純粋な、底知れない心酔の表情へと溶け込ませながら、猛烈な勢いで前へと進み出た。
「私は即座にミクロ様のご移動の荷物を準備せねばなりません! 最高支配者たるもの、最高級の絹を敷き詰めた特注の移動籠と、一寸の濁りもない新鮮な魚の山を毎食分完全にパッキングせねばなりませんからな!」
執事が猫を囲んで熱狂している光景を数秒間見つめていた俺の脳裏に、突如として恐るべき、致命的な疑問がフラッシュバックした。
「いや待て……俺たちが全員でその外交の和平サミットに出払っちまったら、一体誰がこの首都の防衛をやるんだよ? もし俺たちの留守中に軍隊でも押し寄せてきたら、俺の平穏な引きこもり生活は始まる前に完全に終わるぞ」
イナは俺の取り乱しぶりなど完全にスルーして、ただ静かに、優雅な微笑みを浮かべた。
「それに関しては、
何一つとしてご心配には及びません、エイン様。
何しろ、この城にはリサとルーンがそのまま残り、国内の防衛体制
を統括することになっておりますから。
首都の安全は完全に絶対でございます」
俺は瞬きをし、完全に白目のドン引き顔でイナを凝視した。
「それ、
マジで大丈夫なのかよ? 一国の防衛の全てを、
あの戦闘力がおかしい化け物メイドと、
頭をポンポンされただけでツノまで真っ刻にする極度の恥ずかしがり屋の幼女に丸投げして、
本当に何の問題も起きねぇんだろうな?」
「はい、一切のご心配は無用にございます、エイン様」
イナは深く、尋常ではない自信に満ちた語調
(トーン)で力強く頷いた。
「あの二人の潜在能力
の質量であれば、いかなる愚かな侵略者であろうとも一瞬で更地に変えてしまえますから」
「まぁ、あんたがそう言うなら……」
俺は首の後ろをさすりながらボソッと呟いた。
「ところで、今ふと思ったんだが。俺たちの国、
明らかに特殊部隊みたいな尖った人材の数が決定的に不足してねぇか? 俺の平穏なニート生活を今後の頭痛の種から守るためには、もっと手駒となる強い化け物どもの数が必要だ。……まぁ、今のところは保留でいいか。まずは帝国の罠を生き延びることを考えよう」
翌朝、
ついに俺たちの正式な出発の日の朝が訪れた。
俺は魔王城の巨大な黒曜石の扉の外へと足を踏み出し、朝一の鋭い太陽の光に目を細めた。大理石の階段のすぐ下には、純粋な漆黒の装甲でガッチリと補強された、禍々しくも壮麗な黒い馬車が待機していた。馬車を牽くのは、目が赤く不気味に輝く、頑丈な四頭の魔界の軍馬だ。ナスは王冠を載せたミクロをまるで国宝の遺物かのように恭しくその両腕に抱きかかえて乗り込ませ、高級なベルベットの特注座席の上へと慎重に降ろした。俺はそのすぐ後ろから、一日の全ての骨折り損を背負ったみたいに死ぬほど重たい両足を力ずくで引きずりながら中に幾分経て這い上がった。
巨大な馬車の車輪がギギギと重たい音を立ててゆっくりと回転し始め、俺たちは宮廷の門を出て、首都の中心を走る賑やかな本通りを真っ直ぐに通過し始めた。
馬車が公の通りへと差し掛かったその瞬間、本通りの静寂は、領民たちの地鳴りのような凄まじい大歓声によって一瞬にして粉々に粉砕された。数千、数万もの魔族の領民たちが石畳の通りの両脇を完全に埋め尽くし、馬車が横を通り過ぎるたびに、旗をぶんぶん振り回しながら喉が張り裂けんばかりの声で咆哮をあげていたのだ。
「お早うございます、エイン様!
お早うございます、ミクロ様!」
一人の領民が群衆の中から猛烈な勢いで手を振りながら絶叫した。
「我らが最高支配者たちに勝利の栄光あれ!」
軍隊の一人の一般兵士が誇らしげに咆哮し、
頑丈な鎧の胸をドンドンと叩いた。
「道中、くれぐれお気をつけて!
あの傲慢な人間どもに、
魔王様の絶対的な威厳をこれでもかと見せつけてやってください!」
「無事にお戻りくださいませ、ミクロ様!」
宮廷の城メイドたちの一団が、店先から歓喜の涙をパパッと流しながら熱狂的な声をあげていた。
俺は動き続ける馬車の窓に静かに寄りかかり、その外の賑やかな大群衆を見つめながら、穏やかに物深く心の中で呟いた。
「まあ、この旅が上手くいくといいんだが。それに、人間の国がどんな風になっているのか、この目で一度見てみたいしな。今まで一度も行ったことがないんだから」
俺の隣では、俺の心象の静寂など一切気に留める風もなく、ミクロが高級な座布団の上で頭の上の小さな金の王冠の位置を少しだけ直すと、いつも通り暢気に、窓の外の領民たちを見下ろしながら気の抜けた鳴き声をあげるのだった。
「……にゃぁーーお」」
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