第7話 旧街道の小さな匂い
数日が過ぎても、ロアンはまだ宿場にいた。
帰ると言った。
昨日も言った。
その前の日も言った。
だが、朝になると、なぜか厨房の隅に立っている。
ミロはもう、それを不思議そうに見なくなっていた。ロアンが腕を組んで立っている場所は、いつの間にか厨房の一部みたいになっていた。火の前ではない。鍋を握る場所でもない。だが、そこにいると、誰も勝手に火を強めなかった。
「豆、これでいいですか」
ミロが聞くと、ロアンは腕を組んだまま鍋を覗いた。
「少し残しすぎだ」
「潰しますか」
「全部は潰すな」
「はい」
「分かってねえ顔だな」
「少しだけ分かってきました」
「一番危ねえ返事だな」
ミロは小さく笑い、鍋へ戻った。
火は強すぎない。豆は潰しきらない。根菜は崩れるものと残すものを分ける。穀物用と薄焼き用は、同じ鍋から始めても、終わらせ方を変える。
覚えることは増えた。
それでも、ミロの手は前より迷わなくなっていた。
「それはどっちだ」
ロアンが聞いた。
「穀物用です」
「なら、そこで香辛料を急がせるな」
「はい」
「薄焼き用は」
「あとで少し詰めます」
「客が来る前から迷うな。迷うなら鍋を分けろ」
「はい」
「返事だけは一人前だな」
ミロは顔を上げずに、少しだけ口元を緩めた。
◆
昼前、昨日も来た荷運びが店に入ってきた。
背負っていた荷を足元に置き、椅子へ腰を下ろす。泥のついた靴を軽く払ってから、厨房の方を見た。
「昨日のあれ、まだあるか」
ミロは一瞬、手を止めた。
昨日のあれ。
名前もない煮込みを、客が覚えていた。
「あります」
ミロはそう答えてから、すぐに鍋へ向かった。
ロアンは厨房の奥で何も言わなかった。腕を組んだまま、火とミロの手元を見ている。
ミロは穀物用の小鍋を取った。麦飯の間に入るように少しゆるめる。ただし、底へ逃げすぎないように、豆と根菜の重みは残す。匙から落ちる速さを見る。ひと息だけ残る。まだ少し早い気がした。
ロアンを見る。
ロアンは何も言わない。
ミロは少しだけ火を弱め、もう1度すくった。
今度は、さっきより少し残った。
皿を出す。
荷運びは黙って食べた。
派手に表情を変えるわけではない。声を上げるわけでもない。ただ、匙が止まらなかった。
「昨日より、飯に絡むな」
ミロは小さく息を吐いた。
荷運びは皿を空にし、水を飲んだ。
「昼過ぎに、もう1杯食えるか」
宿場の店主が顔を上げた。
ミロは答える前に、ロアンを見た。
「客に聞かれてからこっちを見るな」
「はい」
「鍋を見ろ」
ミロは鍋を見た。残りはある。豆も根菜も足りる。穀物用としてなら、もう少し出せる。
「食べられます」
荷運びはうなずき、代金を置いて出ていった。
店主はその背中を見て、それから空になった皿を見た。何も言わなかったが、手元の帳面を少しだけ引き寄せた。
◆
次に来たのは馬車番だった。
外で馬の様子を気にしながら、扉の近くの席に座る。長く腰を据える気はない顔だった。
「薄焼きでいい。急いでる」
ミロは薄焼き用の小鍋を取った。
前よりは、すくいやすくなっているはずだった。だが、火を詰めすぎると重くなる。ゆるすぎると垂れる。ミロは小鍋の縁を見て、匙ですくい、落ち方を見た。
「遅い」
ロアンが言った。
「重いですか」
「薄焼きが湿る」
「少し湯を足します」
「足しすぎるな」
「はい」
ミロは少しだけ湯を足し、混ぜ、もう1度すくった。
今度は、ぎりぎりだった。
薄焼きパンに乗せると、少しだけ縁から垂れた。それでも、前のように折れて落ちることはなかった。
馬車番は食べながら言った。
「前より持ちやすい」
それだけだった。
だが、残さなかった。
ロアンは口を開きかけた。
まだ重い。
香りも少し弱い。
薄焼きに乗せるなら、もう少し終わりを軽くした方がいい。
いくらでも言えた。
だが、馬車番は困っていなかった。片手で食べ、もう片方の手で外の馬を気にしている。急ぐ客が、急ぎながら食べられている。
ロアンは口を閉じた。
ミロはその沈黙を、ちらりと見た。
「何か、違いますか」
「違う」
「はい」
「でも、今は出せ」
ミロはうなずいた。
◆
昼を少し過ぎた頃、子どもを連れた女が入ってきた。
子どもはまだ小さく、外套の袖を握りしめたまま、不機嫌そうに鼻をすすっていた。寒さと疲れで、顔が赤い。辛いものを食べられる顔ではなかった。
ミロは鍋を見た。
穀物用でも、薄焼き用でもない。
少し迷ったあと、小鍋に煮込みを取り、湯を足した。辛味を薄める。豆を少し柔らかめに崩す。香りは弱くなるが、喉には通りやすい。
ロアンが見ていた。
「誰に聞いた」
ミロの手が止まった。
怒られると思ったのかもしれない。
だが、ロアンの声は低いだけだった。
「子どもには、先に腹を温めるんですよね」
ミロは言った。
ロアンは黙った。
女は子どもの前に皿を置いた。子どもは最初、匙を持つだけで食べようとしなかった。だが、湯気に少し顔を近づけ、やがて小さく1口食べた。
それから、もう1口。
皿を抱えるようにして、少しずつ食べ始めた。
泣きそうだった顔が、静かになっていく。
女は小さく頭を下げた。
「助かった」
ミロは何も言えず、ただ頭を下げ返した。
ロアンは鍋を見ていた。
ミロの皿は、まだ粗い。
香りは薄い。
とろみも揺れている。
肉も少し硬い。
だが、子どもは食べていた。
◆
客が引いたあと、ミロは自分の作った煮込みを小皿に取り、ロアンへ差し出した。
「見てもらえますか」
ロアンは嫌そうな顔をしたが、匙を取った。
1口食べる。
沈黙が落ちる。
ミロはまっすぐ立っていた。逃げる顔ではなかった。褒められると期待している顔でもなかった。ただ、知ろうとしている顔だった。
「駄目ですか」
ロアンは皿を置いた。
「俺が作った方がうまい」
ミロの肩が少し下がった。
ロアンは小鍋の縁についた煮込みを指で拭い、少しだけ見た。
「香りが弱い。肉も少し硬い。薄焼き用はまだ終わりが重い。子ども用は湯を足すのが早い」
「はい」
「とろみも揺れる」
「はい」
「でも、客は帰らなかった」
ミロは顔を上げた。
ロアンはそれ以上何も言わなかった。
それは褒め言葉ではなかった。
だが、ミロには、その日一番長く残る言葉になった。
◆
営業後、宿場の店主は帳面を見ていた。
いつもより皿が出ている。大儲けではない。客が外まで並んだわけでもない。だが、昼の空席は少なかった。何より、同じ客が戻ってきた。
セオはその様子を見てから、ロアンのそばへ来た。
「別の宿場にも、話を持っていけるかもしれません」
ロアンは嫌な顔をした。
「調子に乗るな」
「まだ、話だけです」
「俺は行かねえぞ」
「分かっています」
セオはすぐに答えた。
ロアンはその返事が気に入らなかったらしく、目を細めた。
「何が分かってる」
セオは答えなかった。
厨房の奥では、ミロが鍋を洗っていた。水の音がする。ごしごしと鍋底をこする音が、夜の宿場に混じっていた。
ロアンは何も言わず、外へ出た。
◆
夜の旧街道は冷えていた。
宿場の灯りは、昼よりも小さく見えた。馬留めのそばに水桶が置かれ、濡れた石畳に淡い光が伸びている。遠くを行く人影は少ない。
ロアンは宿場の前に立ち、少しだけ空気を吸った。
香辛料の匂いがした。
派手な匂いではない。煙に混じる、小さな匂いだった。豆と根菜と肉。そこに、くすんだ香辛料が細く残っている。
ロアンが作った鍋ではない。
それでも、旧街道の夜に、その匂いは細く残っていた。
◆◆◆(第7話 旧街道の小さな匂い)◆◆◆
次回は、ロアンの昔を知る人物が旧街道に現れます。




