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続かなかった男の最後の食堂 〜旧街道に残る、名もなき味〜  作者: U2U


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第7話 旧街道の小さな匂い

 数日が過ぎても、ロアンはまだ宿場にいた。


 帰ると言った。

 昨日も言った。

 その前の日も言った。


 だが、朝になると、なぜか厨房の隅に立っている。


 ミロはもう、それを不思議そうに見なくなっていた。ロアンが腕を組んで立っている場所は、いつの間にか厨房の一部みたいになっていた。火の前ではない。鍋を握る場所でもない。だが、そこにいると、誰も勝手に火を強めなかった。


「豆、これでいいですか」


 ミロが聞くと、ロアンは腕を組んだまま鍋を覗いた。


「少し残しすぎだ」


「潰しますか」


「全部は潰すな」


「はい」


「分かってねえ顔だな」


「少しだけ分かってきました」


「一番危ねえ返事だな」


 ミロは小さく笑い、鍋へ戻った。


 火は強すぎない。豆は潰しきらない。根菜は崩れるものと残すものを分ける。穀物用と薄焼き用は、同じ鍋から始めても、終わらせ方を変える。


 覚えることは増えた。


 それでも、ミロの手は前より迷わなくなっていた。


「それはどっちだ」


 ロアンが聞いた。


「穀物用です」


「なら、そこで香辛料を急がせるな」


「はい」


「薄焼き用は」


「あとで少し詰めます」


「客が来る前から迷うな。迷うなら鍋を分けろ」


「はい」


「返事だけは一人前だな」


 ミロは顔を上げずに、少しだけ口元を緩めた。



 昼前、昨日も来た荷運びが店に入ってきた。


 背負っていた荷を足元に置き、椅子へ腰を下ろす。泥のついた靴を軽く払ってから、厨房の方を見た。


「昨日のあれ、まだあるか」


 ミロは一瞬、手を止めた。


 昨日のあれ。


 名前もない煮込みを、客が覚えていた。


「あります」


 ミロはそう答えてから、すぐに鍋へ向かった。


 ロアンは厨房の奥で何も言わなかった。腕を組んだまま、火とミロの手元を見ている。


 ミロは穀物用の小鍋を取った。麦飯の間に入るように少しゆるめる。ただし、底へ逃げすぎないように、豆と根菜の重みは残す。匙から落ちる速さを見る。ひと息だけ残る。まだ少し早い気がした。


 ロアンを見る。


 ロアンは何も言わない。


 ミロは少しだけ火を弱め、もう1度すくった。


 今度は、さっきより少し残った。


 皿を出す。


 荷運びは黙って食べた。


 派手に表情を変えるわけではない。声を上げるわけでもない。ただ、匙が止まらなかった。


「昨日より、飯に絡むな」


 ミロは小さく息を吐いた。


 荷運びは皿を空にし、水を飲んだ。


「昼過ぎに、もう1杯食えるか」


 宿場の店主が顔を上げた。


 ミロは答える前に、ロアンを見た。


「客に聞かれてからこっちを見るな」


「はい」


「鍋を見ろ」


 ミロは鍋を見た。残りはある。豆も根菜も足りる。穀物用としてなら、もう少し出せる。


「食べられます」


 荷運びはうなずき、代金を置いて出ていった。


 店主はその背中を見て、それから空になった皿を見た。何も言わなかったが、手元の帳面を少しだけ引き寄せた。



 次に来たのは馬車番だった。


 外で馬の様子を気にしながら、扉の近くの席に座る。長く腰を据える気はない顔だった。


「薄焼きでいい。急いでる」


 ミロは薄焼き用の小鍋を取った。


 前よりは、すくいやすくなっているはずだった。だが、火を詰めすぎると重くなる。ゆるすぎると垂れる。ミロは小鍋の縁を見て、匙ですくい、落ち方を見た。


「遅い」


 ロアンが言った。


「重いですか」


「薄焼きが湿る」


「少し湯を足します」


「足しすぎるな」


「はい」


 ミロは少しだけ湯を足し、混ぜ、もう1度すくった。


 今度は、ぎりぎりだった。


 薄焼きパンに乗せると、少しだけ縁から垂れた。それでも、前のように折れて落ちることはなかった。


 馬車番は食べながら言った。


「前より持ちやすい」


 それだけだった。


 だが、残さなかった。


 ロアンは口を開きかけた。


 まだ重い。

 香りも少し弱い。

 薄焼きに乗せるなら、もう少し終わりを軽くした方がいい。


 いくらでも言えた。


 だが、馬車番は困っていなかった。片手で食べ、もう片方の手で外の馬を気にしている。急ぐ客が、急ぎながら食べられている。


 ロアンは口を閉じた。


 ミロはその沈黙を、ちらりと見た。


「何か、違いますか」


「違う」


「はい」


「でも、今は出せ」


 ミロはうなずいた。



 昼を少し過ぎた頃、子どもを連れた女が入ってきた。


 子どもはまだ小さく、外套の袖を握りしめたまま、不機嫌そうに鼻をすすっていた。寒さと疲れで、顔が赤い。辛いものを食べられる顔ではなかった。


 ミロは鍋を見た。


 穀物用でも、薄焼き用でもない。


 少し迷ったあと、小鍋に煮込みを取り、湯を足した。辛味を薄める。豆を少し柔らかめに崩す。香りは弱くなるが、喉には通りやすい。


 ロアンが見ていた。


「誰に聞いた」


 ミロの手が止まった。


 怒られると思ったのかもしれない。


 だが、ロアンの声は低いだけだった。


「子どもには、先に腹を温めるんですよね」


 ミロは言った。


 ロアンは黙った。


 女は子どもの前に皿を置いた。子どもは最初、匙を持つだけで食べようとしなかった。だが、湯気に少し顔を近づけ、やがて小さく1口食べた。


 それから、もう1口。


 皿を抱えるようにして、少しずつ食べ始めた。


 泣きそうだった顔が、静かになっていく。


 女は小さく頭を下げた。


「助かった」


 ミロは何も言えず、ただ頭を下げ返した。


 ロアンは鍋を見ていた。


 ミロの皿は、まだ粗い。

 香りは薄い。

 とろみも揺れている。

 肉も少し硬い。


 だが、子どもは食べていた。



 客が引いたあと、ミロは自分の作った煮込みを小皿に取り、ロアンへ差し出した。


「見てもらえますか」


 ロアンは嫌そうな顔をしたが、匙を取った。


 1口食べる。


 沈黙が落ちる。


 ミロはまっすぐ立っていた。逃げる顔ではなかった。褒められると期待している顔でもなかった。ただ、知ろうとしている顔だった。


「駄目ですか」


 ロアンは皿を置いた。


「俺が作った方がうまい」


 ミロの肩が少し下がった。


 ロアンは小鍋の縁についた煮込みを指で拭い、少しだけ見た。


「香りが弱い。肉も少し硬い。薄焼き用はまだ終わりが重い。子ども用は湯を足すのが早い」


「はい」


「とろみも揺れる」


「はい」


「でも、客は帰らなかった」


 ミロは顔を上げた。


 ロアンはそれ以上何も言わなかった。


 それは褒め言葉ではなかった。


 だが、ミロには、その日一番長く残る言葉になった。



 営業後、宿場の店主は帳面を見ていた。


 いつもより皿が出ている。大儲けではない。客が外まで並んだわけでもない。だが、昼の空席は少なかった。何より、同じ客が戻ってきた。


 セオはその様子を見てから、ロアンのそばへ来た。


「別の宿場にも、話を持っていけるかもしれません」


 ロアンは嫌な顔をした。


「調子に乗るな」


「まだ、話だけです」


「俺は行かねえぞ」


「分かっています」


 セオはすぐに答えた。


 ロアンはその返事が気に入らなかったらしく、目を細めた。


「何が分かってる」


 セオは答えなかった。


 厨房の奥では、ミロが鍋を洗っていた。水の音がする。ごしごしと鍋底をこする音が、夜の宿場に混じっていた。


 ロアンは何も言わず、外へ出た。



 夜の旧街道は冷えていた。


 宿場の灯りは、昼よりも小さく見えた。馬留めのそばに水桶が置かれ、濡れた石畳に淡い光が伸びている。遠くを行く人影は少ない。


 ロアンは宿場の前に立ち、少しだけ空気を吸った。


 香辛料の匂いがした。


 派手な匂いではない。煙に混じる、小さな匂いだった。豆と根菜と肉。そこに、くすんだ香辛料が細く残っている。


 ロアンが作った鍋ではない。


 それでも、旧街道の夜に、その匂いは細く残っていた。


◆◆◆(第7話 旧街道の小さな匂い)◆◆◆

次回は、ロアンの昔を知る人物が旧街道に現れます。

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