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続かなかった男の最後の食堂 〜旧街道に残る、名もなき味〜  作者: U2U


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第6話 穀物の皿、薄焼きの皿

 翌朝、宿場の厨房には、まだ朝の冷えが残っていた。


 ミロは、戻した豆を指で割っていた。


 昨日までは、柔らかくなればいいと思っていた。今は違う。潰す豆と、形を残す豆。その間に、とろみがある。


 鍋の横で、ロアンが腕を組んでいた。


「潰しすぎるな」


「はい」


「でも、残しすぎるな」


「……はい」


「分かってねえ返事だな」


 ミロは少しだけ困った顔をした。


「分かろうとはしています」


 ロアンは鼻を鳴らした。


 悪い返事ではなかった。少なくとも、聞き流している返事ではない。だが、分かろうとしているだけでは鍋は待ってくれない。火は進む。豆は開く。根菜は崩れる。香りは逃げる。


 ロアンは鍋の中を見た。


「昨日よりは落ち方が遅い」


 ミロが匙を持ち上げて言った。


 煮込みは、匙の縁に少しだけ残ってから鍋へ戻った。


「まだ早い」


 ロアンは言った。


 ミロの顔がわずかに曇る。


「でも、昨日の朝よりはましだ」


「それは、少し良くなったという意味ですか」


「そう聞こえたなら、そうなんだろ」


 ミロは小さくうなずいた。


 褒められたわけではない。だが、否定されなかった。今のミロには、それだけで十分だった。



 昼前になると、宿場に少しずつ客が入り始めた。


 新道へ流れた者は多い。それでも、旧街道を使う者がまったくいなくなったわけではない。荷を背負った男、馬車番、雨で足を取られて予定を遅らせた旅人。急ぐ者ではなく、急げなかった者たちが、宿場の椅子に腰を下ろしていた。


 ミロは、昨日より落ち着いた手つきで皿を出した。


 最初の相手は荷運びだった。広い肩をした男で、濡れた縄を腰に巻いている。ミロは麦飯の上に、煮込みをかけた。昨日よりは、とろみが残っている。麦の間に入り、底へ流れすぎない。


 荷運びは黙って食べた。


 悪くない顔だった。


 だが、皿の半分を食べたところで、少し首を傾げた。


「昨日のより食いやすいな」


 ミロはほっとした。


 次の瞬間、荷運びは続けた。


「でも、もう少し腹に残る方がいい」


「腹に、残る」


 ミロは思わず繰り返した。


 ロアンは厨房の奥で聞いていたが、何も言わなかった。


 次に来た馬車番は、薄焼きパンを頼んだ。急いでいるらしく、座って食べるより、片手でつまめるものが欲しい様子だった。ミロは同じ鍋から煮込みをよそい、薄焼きパンを添えた。


 馬車番はパンで煮込みをすくった。


 少し重い。


 パンの端が折れ、煮込みが皿へ戻った。


「薄焼きなら、もう少しすくいやすい方がいいな」


 ミロの手が止まった。


 同じ鍋だった。


 さっきの荷運びには、もう少し腹に残る方がいいと言われた。今度は、薄焼きには重いと言われた。


 さらに、年老いた旅人が煮込みを少し口にして、水を求めた。


「少し、辛いな」


 強い辛味ではなかった。だが、年寄りの喉には少し立ったらしい。


 ミロは鍋を見た。


 昨日よりは良くなったはずだった。匙にも残る。飯にも絡む。ロアンに否定されなかった。なのに、客の声は揃わない。


「同じ鍋なのに、どうしてこんなに違うんですか」


 ミロは低く聞いた。


 ロアンは鍋の横で腕を組んだまま答えた。


「食う奴が違うからだ」


「でも、同じ料理です」


 ロアンはミロを見た。


「旅人はみんな同じ腹をしてるわけじゃねえ」


 ミロは黙った。


 その言葉は、火加減や豆の潰し方よりも、少し遠いところから来たように聞こえた。



 ロアンは鍋の前へ立った。


「皿を2つ出せ」


 ミロはすぐに動いた。


 1つは麦飯の皿。もう1つは薄焼きパンの皿。


 ロアンは鍋の煮込みを小鍋に分けた。片方には少し湯を足し、豆と根菜の重みは残す。もう片方は火を少し強め、薄焼きですくっても垂れにくいように水気を飛ばした。


 ミロは目を凝らして見ていた。


「濃くするんですか。薄くするんですか」


「それだけじゃねえ」


 ロアンは麦飯の皿を指した。


「穀物にかけるなら、飯の間に入らなきゃいけねえ。上に乗ってるだけじゃ駄目だ。だが、沈みすぎたら汁だ。腹に残らねえ」


 次に、薄焼きパンの皿を指した。


「薄焼きで食うなら、垂れたら終わりだ。手も服も汚れる。急いでる客は、そんなもん食わねえ」


 ミロは2つの皿を見比べた。


「皿が違えば、鍋の終わらせ方も違う」


 ロアンはそう言って、少し嫌な顔をした。


 ミロはその言葉を聞き逃さなかった。


「鍋の終わらせ方……」


「繰り返すな」


「すみません」


「穀物用をやれ」


「はい」


 ミロは小鍋を取り、麦飯にかけるための煮込みを調整した。湯を足す。混ぜる。豆を少し潰す。だが、慎重になりすぎて、今度はゆるくなった。


 ロアンがすぐに言った。


「それは汁だ。飯に逃げる」


「はい」


「薄焼き用」


 ミロはもう1つの小鍋に移った。今度は水気を飛ばしすぎた。匙で持ち上げると重く、どたりと落ちる。


「それは泥だ。薄焼きが折れる」


 ミロは息を止めた。


「難しいです」


「簡単なら、昨日できてる」


 言い方は相変わらずだった。


 だが、ロアンは鍋を奪わなかった。横から見て、口だけを出している。前なら、手が出ていたかもしれない。


 ミロはもう1度、匙を持ち上げた。


「匙の縁に、ひと息だけ残る。それだけじゃ足りないんですね」


「足りねえ」


「匙だけじゃなくて、皿も見るんですね」


「皿じゃねえ」


 ロアンは客席を顎で示した。


「食う奴だ」


 ミロは客席を見た。


 麦飯を欲しがる荷運び。薄焼きパンを持つ馬車番。水を飲む年老いた旅人。


 同じ鍋の前に、同じ客はいなかった。



 ミロは何度かやり直した。


 穀物用は、飯の間に入るように少しゆるめる。ただし、豆と根菜の重みは残す。薄焼き用は、水気を飛ばしすぎず、パンですくった時に少しまとまる程度にする。


 ロアンは横で見ていた。


「まだ薄い」


「はい」


「それは重い」


「はい」


「そこで止めるな。火を落としてからも少し詰まる」


「はい」


「返事は短くていい。鍋を見ろ」


「はい」


 ミロは汗を拭う暇もなく、2つの小鍋を見比べた。


 まず荷運びに出す皿を作った。麦飯の上に煮込みをかける。前より少し重みがある。匙を入れると、麦の間に入りながら、皿の底へ逃げきらない。


 荷運びは食べた。


 今度は、すぐに水を飲まなかった。


「これなら歩ける」


 ロアンは何も言わなかった。


 ミロは一瞬だけロアンを見たが、すぐに次の皿へ戻った。


 薄焼き用は、馬車番へ出した。パンで煮込みをすくう。今度は、端が折れない。少し垂れたが、前ほどではない。


「これなら片手で食える」


 馬車番はそう言って、荷台の方を気にしながら口へ運んだ。


 年老いた旅人には、ロアンが横から少し湯を足させた。辛味を薄め、豆を柔らかめにする。


「年寄りに、香りで勝負するな」


「はい」


「先に腹を温める」


 ミロはうなずいた。


 それが、ただ味を弱めることではないと、少しだけ分かった気がした。



 昼を過ぎた頃、南方から来たという旅人が、薄焼きの皿を頼んだ。


 肌は日に焼け、荷袋には見慣れない布が巻かれている。男は煮込みを薄焼きですくい、何口か黙って食べたあと、ぽつりと言った。


「南のキャレイに、少し似ているな」


 ミロが顔を上げた。


「キャレイ?」


 ロアンも聞き慣れない言葉に眉を寄せた。


「何だ、それは」


「香辛料で豆と肉を煮る。もっと辛いがな。南では、薄い麦皮で食うことが多い」


「知らねえ料理だ」


 ロアンはそれだけ言って、鍋へ戻った。


 南方の旅人も、それ以上説明しなかった。似ていると言っただけで、同じだと言ったわけではない。男は薄焼きをもう1枚頼み、煮込みをすくって食べ続けた。


 セオは、その言葉を聞いていた。


 何も言わなかった。


 ただ、旅人が落とした響きだけを、胸のどこかにしまった。



 営業後、厨房には2つの皿が残っていた。


 穀物の皿。


 薄焼きの皿。


 どちらも同じ鍋から始まったものだった。だが、最後の火の入れ方も、とろみも、香りの立て方も違っていた。


 ミロはそれを見比べていた。


「同じように作ることだけ考えていました」


 ロアンは鍋を拭いていた手を止めなかった。


「同じに作るのは大事だ」


 ミロは少し驚いた顔をした。


 ロアンは続けた。


「でも、同じ腹に入るわけじゃねえ」


 ミロは、並んだ2つの皿をもう1度見た。


 穀物の皿。

 薄焼きの皿。


 同じ鍋からよそったはずなのに、そこには別々の旅人が座っているように見えた。


◆◆◆(第6話 穀物の皿、薄焼きの皿)◆◆◆

次回からは、この名もない煮込みが、旧街道に少しずつ残り始めます。

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