第6話 穀物の皿、薄焼きの皿
翌朝、宿場の厨房には、まだ朝の冷えが残っていた。
ミロは、戻した豆を指で割っていた。
昨日までは、柔らかくなればいいと思っていた。今は違う。潰す豆と、形を残す豆。その間に、とろみがある。
鍋の横で、ロアンが腕を組んでいた。
「潰しすぎるな」
「はい」
「でも、残しすぎるな」
「……はい」
「分かってねえ返事だな」
ミロは少しだけ困った顔をした。
「分かろうとはしています」
ロアンは鼻を鳴らした。
悪い返事ではなかった。少なくとも、聞き流している返事ではない。だが、分かろうとしているだけでは鍋は待ってくれない。火は進む。豆は開く。根菜は崩れる。香りは逃げる。
ロアンは鍋の中を見た。
「昨日よりは落ち方が遅い」
ミロが匙を持ち上げて言った。
煮込みは、匙の縁に少しだけ残ってから鍋へ戻った。
「まだ早い」
ロアンは言った。
ミロの顔がわずかに曇る。
「でも、昨日の朝よりはましだ」
「それは、少し良くなったという意味ですか」
「そう聞こえたなら、そうなんだろ」
ミロは小さくうなずいた。
褒められたわけではない。だが、否定されなかった。今のミロには、それだけで十分だった。
◆
昼前になると、宿場に少しずつ客が入り始めた。
新道へ流れた者は多い。それでも、旧街道を使う者がまったくいなくなったわけではない。荷を背負った男、馬車番、雨で足を取られて予定を遅らせた旅人。急ぐ者ではなく、急げなかった者たちが、宿場の椅子に腰を下ろしていた。
ミロは、昨日より落ち着いた手つきで皿を出した。
最初の相手は荷運びだった。広い肩をした男で、濡れた縄を腰に巻いている。ミロは麦飯の上に、煮込みをかけた。昨日よりは、とろみが残っている。麦の間に入り、底へ流れすぎない。
荷運びは黙って食べた。
悪くない顔だった。
だが、皿の半分を食べたところで、少し首を傾げた。
「昨日のより食いやすいな」
ミロはほっとした。
次の瞬間、荷運びは続けた。
「でも、もう少し腹に残る方がいい」
「腹に、残る」
ミロは思わず繰り返した。
ロアンは厨房の奥で聞いていたが、何も言わなかった。
次に来た馬車番は、薄焼きパンを頼んだ。急いでいるらしく、座って食べるより、片手でつまめるものが欲しい様子だった。ミロは同じ鍋から煮込みをよそい、薄焼きパンを添えた。
馬車番はパンで煮込みをすくった。
少し重い。
パンの端が折れ、煮込みが皿へ戻った。
「薄焼きなら、もう少しすくいやすい方がいいな」
ミロの手が止まった。
同じ鍋だった。
さっきの荷運びには、もう少し腹に残る方がいいと言われた。今度は、薄焼きには重いと言われた。
さらに、年老いた旅人が煮込みを少し口にして、水を求めた。
「少し、辛いな」
強い辛味ではなかった。だが、年寄りの喉には少し立ったらしい。
ミロは鍋を見た。
昨日よりは良くなったはずだった。匙にも残る。飯にも絡む。ロアンに否定されなかった。なのに、客の声は揃わない。
「同じ鍋なのに、どうしてこんなに違うんですか」
ミロは低く聞いた。
ロアンは鍋の横で腕を組んだまま答えた。
「食う奴が違うからだ」
「でも、同じ料理です」
ロアンはミロを見た。
「旅人はみんな同じ腹をしてるわけじゃねえ」
ミロは黙った。
その言葉は、火加減や豆の潰し方よりも、少し遠いところから来たように聞こえた。
◆
ロアンは鍋の前へ立った。
「皿を2つ出せ」
ミロはすぐに動いた。
1つは麦飯の皿。もう1つは薄焼きパンの皿。
ロアンは鍋の煮込みを小鍋に分けた。片方には少し湯を足し、豆と根菜の重みは残す。もう片方は火を少し強め、薄焼きですくっても垂れにくいように水気を飛ばした。
ミロは目を凝らして見ていた。
「濃くするんですか。薄くするんですか」
「それだけじゃねえ」
ロアンは麦飯の皿を指した。
「穀物にかけるなら、飯の間に入らなきゃいけねえ。上に乗ってるだけじゃ駄目だ。だが、沈みすぎたら汁だ。腹に残らねえ」
次に、薄焼きパンの皿を指した。
「薄焼きで食うなら、垂れたら終わりだ。手も服も汚れる。急いでる客は、そんなもん食わねえ」
ミロは2つの皿を見比べた。
「皿が違えば、鍋の終わらせ方も違う」
ロアンはそう言って、少し嫌な顔をした。
ミロはその言葉を聞き逃さなかった。
「鍋の終わらせ方……」
「繰り返すな」
「すみません」
「穀物用をやれ」
「はい」
ミロは小鍋を取り、麦飯にかけるための煮込みを調整した。湯を足す。混ぜる。豆を少し潰す。だが、慎重になりすぎて、今度はゆるくなった。
ロアンがすぐに言った。
「それは汁だ。飯に逃げる」
「はい」
「薄焼き用」
ミロはもう1つの小鍋に移った。今度は水気を飛ばしすぎた。匙で持ち上げると重く、どたりと落ちる。
「それは泥だ。薄焼きが折れる」
ミロは息を止めた。
「難しいです」
「簡単なら、昨日できてる」
言い方は相変わらずだった。
だが、ロアンは鍋を奪わなかった。横から見て、口だけを出している。前なら、手が出ていたかもしれない。
ミロはもう1度、匙を持ち上げた。
「匙の縁に、ひと息だけ残る。それだけじゃ足りないんですね」
「足りねえ」
「匙だけじゃなくて、皿も見るんですね」
「皿じゃねえ」
ロアンは客席を顎で示した。
「食う奴だ」
ミロは客席を見た。
麦飯を欲しがる荷運び。薄焼きパンを持つ馬車番。水を飲む年老いた旅人。
同じ鍋の前に、同じ客はいなかった。
◆
ミロは何度かやり直した。
穀物用は、飯の間に入るように少しゆるめる。ただし、豆と根菜の重みは残す。薄焼き用は、水気を飛ばしすぎず、パンですくった時に少しまとまる程度にする。
ロアンは横で見ていた。
「まだ薄い」
「はい」
「それは重い」
「はい」
「そこで止めるな。火を落としてからも少し詰まる」
「はい」
「返事は短くていい。鍋を見ろ」
「はい」
ミロは汗を拭う暇もなく、2つの小鍋を見比べた。
まず荷運びに出す皿を作った。麦飯の上に煮込みをかける。前より少し重みがある。匙を入れると、麦の間に入りながら、皿の底へ逃げきらない。
荷運びは食べた。
今度は、すぐに水を飲まなかった。
「これなら歩ける」
ロアンは何も言わなかった。
ミロは一瞬だけロアンを見たが、すぐに次の皿へ戻った。
薄焼き用は、馬車番へ出した。パンで煮込みをすくう。今度は、端が折れない。少し垂れたが、前ほどではない。
「これなら片手で食える」
馬車番はそう言って、荷台の方を気にしながら口へ運んだ。
年老いた旅人には、ロアンが横から少し湯を足させた。辛味を薄め、豆を柔らかめにする。
「年寄りに、香りで勝負するな」
「はい」
「先に腹を温める」
ミロはうなずいた。
それが、ただ味を弱めることではないと、少しだけ分かった気がした。
◆
昼を過ぎた頃、南方から来たという旅人が、薄焼きの皿を頼んだ。
肌は日に焼け、荷袋には見慣れない布が巻かれている。男は煮込みを薄焼きですくい、何口か黙って食べたあと、ぽつりと言った。
「南のキャレイに、少し似ているな」
ミロが顔を上げた。
「キャレイ?」
ロアンも聞き慣れない言葉に眉を寄せた。
「何だ、それは」
「香辛料で豆と肉を煮る。もっと辛いがな。南では、薄い麦皮で食うことが多い」
「知らねえ料理だ」
ロアンはそれだけ言って、鍋へ戻った。
南方の旅人も、それ以上説明しなかった。似ていると言っただけで、同じだと言ったわけではない。男は薄焼きをもう1枚頼み、煮込みをすくって食べ続けた。
セオは、その言葉を聞いていた。
何も言わなかった。
ただ、旅人が落とした響きだけを、胸のどこかにしまった。
◆
営業後、厨房には2つの皿が残っていた。
穀物の皿。
薄焼きの皿。
どちらも同じ鍋から始まったものだった。だが、最後の火の入れ方も、とろみも、香りの立て方も違っていた。
ミロはそれを見比べていた。
「同じように作ることだけ考えていました」
ロアンは鍋を拭いていた手を止めなかった。
「同じに作るのは大事だ」
ミロは少し驚いた顔をした。
ロアンは続けた。
「でも、同じ腹に入るわけじゃねえ」
ミロは、並んだ2つの皿をもう1度見た。
穀物の皿。
薄焼きの皿。
同じ鍋からよそったはずなのに、そこには別々の旅人が座っているように見えた。
◆◆◆(第6話 穀物の皿、薄焼きの皿)◆◆◆
次回からは、この名もない煮込みが、旧街道に少しずつ残り始めます。




