第5話 匙から落ちる速さ
ロアンは、もう1度匙を持ち上げた。
薄い煮込みが、鍋へ落ちていく。
速すぎる。
それは分かる。
だが、ミロに向かって「速すぎる」と言ったところで、何も伝わらないことも分かっていた。
ロアンは匙を握ったまま、しばらく黙った。
ミロも、セオも、宿場の店主も、誰も口を挟まなかった。炉の火が小さく鳴り、鍋の縁に残った湯気だけが、細く上がっている。
昨日なら、ロアンはもう怒鳴っていたかもしれない。
見ろ。
火を見ろ。
鍋を見ろ。
それで分からないなら、何を見ていた。
そんな言葉が、喉の奥まで上がってきていた。
ロアンは舌の裏でそれを押しとどめた。
「……もう1回、すくえ」
ミロが顔を上げた。
「はい」
「俺じゃねえ。お前がやれ」
ロアンは匙を差し出した。
ミロは一瞬だけ戸惑い、それから両手で匙を受け取った。木の柄を握る指に力が入りすぎている。若い手だった。まだ火傷の跡も少ない、薄い指だ。
「力を入れすぎるな。料理は逃げねえ」
「はい」
ミロは鍋の中へ匙を沈め、煮込みをすくい上げた。
薄い煮込みは、匙の縁にとどまらず、すぐに鍋へ落ちた。
「速い」
ロアンは言った。
「はい」
「はい、じゃねえ。今のを見ろ」
「見ています」
「見てるだけじゃねえ。覚えろ」
ミロはもう1度すくった。
同じように、煮込みはすぐに落ちた。
「どれくらい遅ければいいんですか?」
ミロが聞いた。
ロアンは答えようとして、止まった。
どれくらい。
それを言葉にしたことはなかった。
硬い。薄い。重い。早い。遅い。そういう言葉なら出る。だが、ミロが必要としているのは、ロアンの舌の中にだけある感覚ではない。目で見て、手で追える何かだった。
ロアンは黙って立ち上がった。
「小鍋を出せ」
ミロがすぐに動く。
「客に出すんですか」
「出すわけねえだろ。見るだけだ」
ロアンは棚から少量の豆を取り、根菜を少しだけ切った。肉は端の小さな切れを選んだ。水は少なめ。火は弱く。香辛料はまだ入れない。
ミロは黙って横に立った。
セオも、店主も、遠巻きに見ていた。口は出さない。ただ、ロアンが何かを始めたことだけは分かっているようだった。
ロアンは豆を鍋に入れ、指で軽く潰した。
「ここで潰しすぎると、先に水だけ濁る」
ミロは小さくうなずいた。
「根菜は、全部を形のまま残すんじゃねえ。崩れるやつが要る」
「崩れるもの、ですか」
「とろみを作る。だが、崩しすぎると重くなる」
「重くなる」
「繰り返すだけなら鳥でもできる」
「すみません」
「謝るな。見ろ」
ロアンは小鍋を弱い火にかけた。
煮込みは、最初はただの濁った汁だった。豆がゆっくり開き、根菜の角が崩れ、肉の端から旨味が出る。ロアンは香辛料の小瓶に手を伸ばしかけ、すぐには入れなかった。
ミロの視線が、その手を追った。
「今は入れないんですか」
「まだ早い」
「香りが飛ぶからですか」
「それもある」
「他にもあるんですか」
「ある」
「何ですか」
「……今日は、とろみだけ見る」
ロアンは短く言った。
ミロは少し驚いた顔をした。
「とろみだけ」
「あれもこれも見るな。お前は全部見ようとして、何も見えてねえ」
きつい言い方だった。
だが、ミロはうなずいた。
「はい。今日は、とろみだけ見ます」
ロアンは小鍋を少しかき混ぜ、匙ですくった。
まだ早い。
もう少し火を入れる。根菜を少し崩す。豆を潰しすぎない。鍋の縁についた煮込みを見て、火を弱める。
やがて、ロアンは小鍋から匙を持ち上げた。
煮込みは、匙の縁に一瞬残り、ゆっくり鍋へ戻った。
ロアンは、ミロの失敗作の鍋を指した。
「こっちは落ちる」
次に、自分の小鍋を指した。
「こっちは、いったん残る」
ミロは身を乗り出した。
「残る?」
ロアンはもう1度、匙を持ち上げた。
くすんだ黄金色の煮込みが、木の匙の縁に乗る。すぐには落ちない。ほんの少しだけ、重さを持ってそこにいる。それから、鍋へ戻る。
「匙の縁に、ひと息だけ残る」
ミロは、その言葉を飲み込むように黙った。
「ひと息だけ……」
「長すぎても駄目だ。重い。飯に絡みすぎる。短すぎても駄目だ。腹に残らねえ」
「匙の縁に、ひと息だけ残る」
「そうだ」
ロアンは、自分で言ってから、少しだけ妙な気分になった。
自分の中にしかなかったものが、言葉になった。
たったそれだけのことなのに、鍋の湯気が少し違って見えた。
◆
ミロは、もう1度作り直した。
今度はロアンが横で見ていた。
手を出しそうになるたびに、指が動いた。鍋を奪って自分で混ぜれば早い。火を直せば早い。豆を潰す加減も、根菜を崩す場所も、自分でやった方が早い。
だが、それでは昨日と同じだ。
ロアンは腕を組んだ。
「まだ潰すな」
「はい」
「今じゃねえ」
「はい」
「いや、そこは混ぜろ。止めるな。鍋の底が先に熱を持つ」
「はい」
「返事だけするな。鍋を見ろ」
「見ています」
「なら、今どうなってる」
ミロは鍋を覗き込んだ。
「根菜の角が……少し崩れてきました」
「豆は」
「まだ、硬いところがあります」
「じゃあ潰すな」
「はい」
ミロの額には汗が浮いていた。火の熱だけではない。間違えたくないという緊張が、肩にも指にも出ていた。
ロアンはそれを見て、言いかけた言葉を1つ飲み込んだ。
力を抜け。
そう言ったところで、抜けるなら苦労はない。
ミロは匙を取った。
「今ですか?」
「まだだ」
少し待つ。
「今ですか?」
「もう少し」
また少し待つ。
「今ですか?」
ロアンは鍋の縁を見た。湯気の匂いを嗅ぎ、豆の崩れ方を見て、それから短く言った。
「今だ」
ミロは匙で煮込みをすくい上げた。
煮込みは、まだ少し薄かった。
それでも、さっきとは違った。匙の縁に、ほんの一瞬だけ残った。それから鍋へ落ちた。
ミロが息を止めた。
「……残りました」
ロアンはすぐには答えなかった。
もう1度、ミロにすくわせる。
やはり残る。
短い。まだ早い。だが、朝の失敗作とは違う。
「まだ薄い」
ロアンは言った。
ミロの顔が少し曇る。
「でも、さっきよりは飯に絡む」
ミロは顔を上げた。
褒めたつもりはなかった。
だが、ミロにはそれで十分だったらしい。疲れた顔に、小さく力が戻った。
「匙に残る、ひと息、ですね」
ロアンは少しだけ間を置いた。
「……そうだ」
それ以上は言わなかった。
だが、ミロはもう1度うなずいた。
◆
何度か小鍋を作り直すうちに、厨房の外は暗くなっていた。
客席の声は遠くなり、宿場の入口では店主が片付けを始めている。セオは壁際で黙って見ていた。口を出さない。その代わり、鍋の前に立つ2人を、最後まで見ていた。
ミロの作った煮込みは、完璧には遠かった。
香りは弱い。肉も少し硬い。根菜の崩れ方もまだ荒い。
それでも、匙から落ちる速さだけは、朝よりましになっていた。
ロアンは匙を持ち上げた。
煮込みは匙の縁に少しだけ残り、それから鍋へ落ちた。
「明日は、豆を見る」
ミロは疲れた顔で、それでもうなずいた。
「はい」
ロアンはもう1度、匙を持ち上げた。
煮込みが、匙の縁に残る。
ほんのひと息。
「まずは、それだけ見ろ」
◆◆◆(第5話 匙から落ちる速さ)◆◆◆
お読みいただきありがとうございます。
第5話では、ロアンが自分の感覚を初めて言葉にしていきました。
第6話では、その感覚が、食べる人や皿の違いへ広がっていきます。




