表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
続かなかった男の最後の食堂 〜旧街道に残る、名もなき味〜  作者: U2U


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
5/12

第5話 匙から落ちる速さ

 ロアンは、もう1度匙を持ち上げた。


 薄い煮込みが、鍋へ落ちていく。


 速すぎる。


 それは分かる。


 だが、ミロに向かって「速すぎる」と言ったところで、何も伝わらないことも分かっていた。


 ロアンは匙を握ったまま、しばらく黙った。


 ミロも、セオも、宿場の店主も、誰も口を挟まなかった。炉の火が小さく鳴り、鍋の縁に残った湯気だけが、細く上がっている。


 昨日なら、ロアンはもう怒鳴っていたかもしれない。


 見ろ。

 火を見ろ。

 鍋を見ろ。

 それで分からないなら、何を見ていた。


 そんな言葉が、喉の奥まで上がってきていた。


 ロアンは舌の裏でそれを押しとどめた。


「……もう1回、すくえ」


 ミロが顔を上げた。


「はい」


「俺じゃねえ。お前がやれ」


 ロアンは匙を差し出した。


 ミロは一瞬だけ戸惑い、それから両手で匙を受け取った。木の柄を握る指に力が入りすぎている。若い手だった。まだ火傷の跡も少ない、薄い指だ。


「力を入れすぎるな。料理は逃げねえ」


「はい」


 ミロは鍋の中へ匙を沈め、煮込みをすくい上げた。


 薄い煮込みは、匙の縁にとどまらず、すぐに鍋へ落ちた。


「速い」


 ロアンは言った。


「はい」


「はい、じゃねえ。今のを見ろ」


「見ています」


「見てるだけじゃねえ。覚えろ」


 ミロはもう1度すくった。


 同じように、煮込みはすぐに落ちた。


「どれくらい遅ければいいんですか?」


 ミロが聞いた。


 ロアンは答えようとして、止まった。


 どれくらい。


 それを言葉にしたことはなかった。


 硬い。薄い。重い。早い。遅い。そういう言葉なら出る。だが、ミロが必要としているのは、ロアンの舌の中にだけある感覚ではない。目で見て、手で追える何かだった。


 ロアンは黙って立ち上がった。


「小鍋を出せ」


 ミロがすぐに動く。


「客に出すんですか」


「出すわけねえだろ。見るだけだ」


 ロアンは棚から少量の豆を取り、根菜を少しだけ切った。肉は端の小さな切れを選んだ。水は少なめ。火は弱く。香辛料はまだ入れない。


 ミロは黙って横に立った。


 セオも、店主も、遠巻きに見ていた。口は出さない。ただ、ロアンが何かを始めたことだけは分かっているようだった。


 ロアンは豆を鍋に入れ、指で軽く潰した。


「ここで潰しすぎると、先に水だけ濁る」


 ミロは小さくうなずいた。


「根菜は、全部を形のまま残すんじゃねえ。崩れるやつが要る」


「崩れるもの、ですか」


「とろみを作る。だが、崩しすぎると重くなる」


「重くなる」


「繰り返すだけなら鳥でもできる」


「すみません」


「謝るな。見ろ」


 ロアンは小鍋を弱い火にかけた。


 煮込みは、最初はただの濁った汁だった。豆がゆっくり開き、根菜の角が崩れ、肉の端から旨味が出る。ロアンは香辛料の小瓶に手を伸ばしかけ、すぐには入れなかった。


 ミロの視線が、その手を追った。


「今は入れないんですか」


「まだ早い」


「香りが飛ぶからですか」


「それもある」


「他にもあるんですか」


「ある」


「何ですか」


「……今日は、とろみだけ見る」


 ロアンは短く言った。


 ミロは少し驚いた顔をした。


「とろみだけ」


「あれもこれも見るな。お前は全部見ようとして、何も見えてねえ」


 きつい言い方だった。


 だが、ミロはうなずいた。


「はい。今日は、とろみだけ見ます」


 ロアンは小鍋を少しかき混ぜ、匙ですくった。


 まだ早い。


 もう少し火を入れる。根菜を少し崩す。豆を潰しすぎない。鍋の縁についた煮込みを見て、火を弱める。


 やがて、ロアンは小鍋から匙を持ち上げた。


 煮込みは、匙の縁に一瞬残り、ゆっくり鍋へ戻った。


 ロアンは、ミロの失敗作の鍋を指した。


「こっちは落ちる」


 次に、自分の小鍋を指した。


「こっちは、いったん残る」


 ミロは身を乗り出した。


「残る?」


 ロアンはもう1度、匙を持ち上げた。


 くすんだ黄金色の煮込みが、木の匙の縁に乗る。すぐには落ちない。ほんの少しだけ、重さを持ってそこにいる。それから、鍋へ戻る。


「匙の縁に、ひと息だけ残る」


 ミロは、その言葉を飲み込むように黙った。


「ひと息だけ……」


「長すぎても駄目だ。重い。飯に絡みすぎる。短すぎても駄目だ。腹に残らねえ」


「匙の縁に、ひと息だけ残る」


「そうだ」


 ロアンは、自分で言ってから、少しだけ妙な気分になった。


 自分の中にしかなかったものが、言葉になった。


 たったそれだけのことなのに、鍋の湯気が少し違って見えた。



 ミロは、もう1度作り直した。


 今度はロアンが横で見ていた。


 手を出しそうになるたびに、指が動いた。鍋を奪って自分で混ぜれば早い。火を直せば早い。豆を潰す加減も、根菜を崩す場所も、自分でやった方が早い。


 だが、それでは昨日と同じだ。


 ロアンは腕を組んだ。


「まだ潰すな」


「はい」


「今じゃねえ」


「はい」


「いや、そこは混ぜろ。止めるな。鍋の底が先に熱を持つ」


「はい」


「返事だけするな。鍋を見ろ」


「見ています」


「なら、今どうなってる」


 ミロは鍋を覗き込んだ。


「根菜の角が……少し崩れてきました」


「豆は」


「まだ、硬いところがあります」


「じゃあ潰すな」


「はい」


 ミロの額には汗が浮いていた。火の熱だけではない。間違えたくないという緊張が、肩にも指にも出ていた。


 ロアンはそれを見て、言いかけた言葉を1つ飲み込んだ。


 力を抜け。


 そう言ったところで、抜けるなら苦労はない。


 ミロは匙を取った。


「今ですか?」


「まだだ」


 少し待つ。


「今ですか?」


「もう少し」


 また少し待つ。


「今ですか?」


 ロアンは鍋の縁を見た。湯気の匂いを嗅ぎ、豆の崩れ方を見て、それから短く言った。


「今だ」


 ミロは匙で煮込みをすくい上げた。


 煮込みは、まだ少し薄かった。


 それでも、さっきとは違った。匙の縁に、ほんの一瞬だけ残った。それから鍋へ落ちた。


 ミロが息を止めた。


「……残りました」


 ロアンはすぐには答えなかった。


 もう1度、ミロにすくわせる。


 やはり残る。


 短い。まだ早い。だが、朝の失敗作とは違う。


「まだ薄い」


 ロアンは言った。


 ミロの顔が少し曇る。


「でも、さっきよりは飯に絡む」


 ミロは顔を上げた。


 褒めたつもりはなかった。


 だが、ミロにはそれで十分だったらしい。疲れた顔に、小さく力が戻った。


「匙に残る、ひと息、ですね」


 ロアンは少しだけ間を置いた。


「……そうだ」


 それ以上は言わなかった。


 だが、ミロはもう1度うなずいた。



 何度か小鍋を作り直すうちに、厨房の外は暗くなっていた。


 客席の声は遠くなり、宿場の入口では店主が片付けを始めている。セオは壁際で黙って見ていた。口を出さない。その代わり、鍋の前に立つ2人を、最後まで見ていた。


 ミロの作った煮込みは、完璧には遠かった。


 香りは弱い。肉も少し硬い。根菜の崩れ方もまだ荒い。


 それでも、匙から落ちる速さだけは、朝よりましになっていた。


 ロアンは匙を持ち上げた。


 煮込みは匙の縁に少しだけ残り、それから鍋へ落ちた。


「明日は、豆を見る」


 ミロは疲れた顔で、それでもうなずいた。


「はい」


 ロアンはもう1度、匙を持ち上げた。


 煮込みが、匙の縁に残る。


 ほんのひと息。


「まずは、それだけ見ろ」


◆◆◆(第5話 匙から落ちる速さ)◆◆◆

お読みいただきありがとうございます。


第5話では、ロアンが自分の感覚を初めて言葉にしていきました。


第6話では、その感覚が、食べる人や皿の違いへ広がっていきます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ