第4話 渡せない味
翌日、雨は上がっていた。
ロアンは小さな荷袋を肩にかけ、旧街道を歩いていた。
道はまだ乾いていない。石畳の隙間には細い水が残り、荷車の轍には泥が沈んでいた。空は白く曇り、遠くの新道へ向かう馬車の音だけが、かすかに風へ混じっていた。
隣では、セオが何度も前方の宿場を確認している。
「本当に、1度だけだぞ」
ロアンが言うと、セオはうなずいた。
「分かっています」
「売れなくても知らねえ」
「それも分かっています」
「分かってる奴は、何度も人を引っ張り出さねえ」
セオは少しだけ苦笑した。
ロアンの背中には、残っていた香辛料袋と、昨日まで閉店のために片付けていたはずの小鍋が揺れていた。自分でも、どうしてそれを背負っているのか分からなかった。
ただ、1度だけ。
そう言い聞かせるには、ちょうどいい重さだった。
◆
宿場は、旧街道の中継地としては悪くない場所にあった。
道の左右に馬留めと水場があり、奥には食堂を兼ねた宿屋が建っている。炉もある。厨房もある。客席もある。だが、昼前だというのに席は半分以上空いていた。
店主は、セオの後ろに立つロアンを見た。
次に荷袋を見た。小鍋を見た。古びた香辛料袋を見た。最後に、もう1度セオを見た。
「……本当に、この男が作るのか」
「1度だけです」
セオが答えると、店主は短く息を吐いた。
「まあ、炉は空いてる」
それだけ言って、厨房の方を顎で示した。
厨房の奥では、若い料理人がこちらを見ていた。まだ20歳そこそこだろう。栗色の髪を後ろで結び、袖をまくっている。目だけは妙に真面目だった。
「ミロ。手伝ってやれ」
店主が言うと、若い料理人は慌てて頭を下げた。
「はい」
ロアンはその声を聞いて、少しだけ顔をしかめた。
若い奴が真面目な目をしている時ほど、あとが面倒になる。
そういうことを、ロアンは嫌というほど知っていた。
◆
ロアンは宿場の厨房に立った。
よその炉。よその鍋。よその包丁。どれも自分の店とは少しずつ違う。昔なら、最初に道具の置き場所から変えていただろう。火の位置、鍋の並び、材料の順番。気に入らないところはいくつも見えた。
だが、ロアンはそれを飲み込んだ。
「炉は借りる。鍋はこの大きさでいい」
「はい」
ミロが素直に返事をする。
「豆はどれだ」
「こちらです」
「肉は硬い方を出せ。柔らかいのは別の客に使え」
「硬い方、ですか」
「煮るならそっちでいい」
ミロは不思議そうな顔をしたが、すぐに肉を取りに行った。
ロアンは豆を掌に取り、爪で割った。戻り方を見る。根菜は大きさと水気を見て、切る厚さを変える。肉は先に鍋へ沈めた。香辛料は自分の袋から出す。宿場のものも悪くはなかったが、香りの立ち方が違った。
ミロは横で見ていた。
見て、覚えようとしていた。
その気配は分かった。
だが、ロアンは説明しなかった。火を見る。豆を見る。肉の沈み方を見る。匙ですくって落ち方を見る。必要なことは鍋の中にある。そう思っていた。
客席を覗くと、荷運びが2人、馬車番が1人、雨で足止めされたらしい旅人が1人いた。腹を膨らませたい顔だ。気取った味はいらない。辛味も強すぎない方がいい。
ロアンは鍋を少しゆるめた。
穀物に絡むが、喉で重くならない程度に。
「親父さん、今のは」
ミロが聞きかける。
「あとだ」
ロアンは短く返した。
ミロは口を閉じた。
◆
昼前、最初の皿が荷運びの前に置かれた。
くすんだ黄金色の煮込みは、宿場のいつもの汁物とは違っていた。派手な香りはしない。色も華やかではない。荷運びは匙を持ったまま、少しだけ眉を寄せた。
店主も、腕を組んだまま見ていた。
荷運びが1口食べる。
すぐには何も言わなかった。
2口目を食べる。
それから、皿の端に残った麦を見て、店主を呼んだ。
「……もう少し、麦をくれ」
店主の眉が動いた。
次に馬車番が薄焼きパンをちぎり、煮込みをすくった。少しこぼれたが、指で受けてそのまま口へ入れる。
「薄焼きでも食えるのか」
「食える」
ロアンが答える前に、ミロが皿を持って動きかけた。ロアンはその手元を見て、鍋の横にある小鉢を指した。
「そっちは少し濃い。薄焼きならそっちを使え」
「はい」
ミロは慌てて小鉢を取った。
雨で足止めされた旅人は、何も言わずに皿を空にした。食べ終えると、椅子の背にもたれ、長く息を吐いた。
誰も大声で褒めなかった。
ただ、皿は戻ってこなかった。
戻ってきた時には、どれも空だった。
◆
その日の鍋は、昼過ぎには空になった。
宿場の店主は、空の鍋を見ていた。疑っていた顔が、少しだけ変わっている。驚きというより、計算を始めた顔だった。
「皿が戻ってこないと思ったら、全部空だった」
店主はロアンを見た。
「……明日も出せるのか」
「俺は明日もここにいるつもりはねえ」
ロアンは即座に言った。
店主は、厨房の隅に立つミロを見た。
「ミロ。見ていたな」
ミロは背筋を伸ばした。
「はい」
「できるか」
ミロは一瞬だけロアンを見た。それから、自分に言い聞かせるようにうなずいた。
「見ていました。たぶん、できます」
ロアンは嫌な顔をした。
「たぶんで客に出すな」
「すみません。でも、豆を戻して、肉を先に入れて、香辛料は後で……」
「それだけじゃねえ」
言ってから、ロアンは口を閉じた。
それだけじゃない。
では、何なのか。
そう聞かれたら、きっと面倒なことになる。
ミロはそれ以上言わなかった。だが、その目は逃げていなかった。
◆
翌日、ロアンはまだ宿場にいた。
本当なら、昨日のうちに帰るつもりだった。だが、セオが頭を下げ、店主が鍋の様子だけでも見てくれと言い、ミロが黙って厨房に立っていた。
結局、ロアンは客席の端に座っていた。
ミロが作った煮込みが出てきた。
見た目は似ていた。
くすんだ黄金色に近い色も出ている。豆も根菜も入っている。肉も沈んでいる。香辛料の匂いもする。
だが、ロアンは匙を入れた瞬間に分かった。
薄い。
とろみが弱い。香りが先に飛んでいる。豆は潰れすぎているのに、肉は硬い。麦に絡まず、皿の底へ流れていく。薄焼きパンですくえば、縁から垂れるだろう。
ロアンは1口食べて、顔をしかめた。
「火が強すぎる」
ミロはすぐにうなずいた。
「はい」
「豆を潰すのが早い。肉を沈める順番も違う。香辛料を焦らせたな」
「はい」
「匙から落ちる速さを見ろ」
ミロは鍋のそばに置いた匙を見た。
煮込みをすくい、持ち上げる。薄い煮込みが、すぐに鍋へ戻った。
「見ています」
「なら分かるだろ」
ロアンの声が少し強くなった。
ミロは唇を結んだ。
「だから、どれくらいですか?」
ロアンは黙った。
「どれくらいの速さならいいんですか。どれくらい残ればいいんですか。僕は昨日、見ていました。でも、分かりませんでした」
「それは……」
見れば分かる。
そう言いかけて、ロアンは止まった。
ミロの目は、反抗している目ではなかった。分からないことをごまかそうとしている目でもなかった。ただ、本当に分からないのだ。
だから聞いている。
それが、余計にロアンを苛立たせた。
「そこじゃねえんだよ」
言葉が尖った。
ミロの肩が、わずかに揺れた。
「火を見ろ。豆だけ見るな。鍋の縁を見ろ。匂いが先に逃げてるだろうが」
「すみません」
「謝れって言ってんじゃねえ」
まただ。
ロアンは、自分の声を聞きながら思った。
自分には見える。相手には見えない。だから言葉が乱れる。相手が分からないことに苛立つ。
ミロは俯いた。
だが、厨房から逃げなかった。
「すみません。でも、教えてほしいんです」
小さな声だった。
「親父さんの言う“落ち方”が、僕にはまだ分からないんです」
ロアンは何も言えなかった。
◆
セオは、それまで黙っていた。
客席の端で、ミロの鍋とロアンの顔を見ていた。宿場の店主も口を出さない。昨日、空になった鍋を見たからこそ、今日の違いが分かってしまっている。
セオは静かに言った。
「親父さんがいないと作れないなら、この味は親父さんと一緒に終わります」
ロアンはすぐに顔を上げた。
「終わりゃいいだろ。元々そのつもりだった」
言い返した声は、思ったより早く出た。
だが、その後が続かなかった。
ミロは鍋を見ていた。店主も黙っていた。セオも、それ以上は言わなかった。
ロアンはミロの失敗作をもう1度すくった。
匙を持ち上げる。
薄い煮込みが、鍋へ落ちていく。
速すぎる。
それをどう言えばミロに伝わるのか、ロアンには分からなかった。
◆◆◆(第4話 渡せない味)◆◆◆
お読みいただきありがとうございます。
第4話では、ロアンの味をほかの場所へ渡そうとして、最初の壁にぶつかりました。
第5話では、その味を人に伝えるために、ロアンが自分の感覚を少しずつ言葉にしていきます。




