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続かなかった男の最後の食堂 〜旧街道に残る、名もなき味〜  作者: U2U


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4/12

第4話 渡せない味

 翌日、雨は上がっていた。


 ロアンは小さな荷袋を肩にかけ、旧街道を歩いていた。


 道はまだ乾いていない。石畳の隙間には細い水が残り、荷車の轍には泥が沈んでいた。空は白く曇り、遠くの新道へ向かう馬車の音だけが、かすかに風へ混じっていた。


 隣では、セオが何度も前方の宿場を確認している。


「本当に、1度だけだぞ」


 ロアンが言うと、セオはうなずいた。


「分かっています」


「売れなくても知らねえ」


「それも分かっています」


「分かってる奴は、何度も人を引っ張り出さねえ」


 セオは少しだけ苦笑した。


 ロアンの背中には、残っていた香辛料袋と、昨日まで閉店のために片付けていたはずの小鍋が揺れていた。自分でも、どうしてそれを背負っているのか分からなかった。


 ただ、1度だけ。


 そう言い聞かせるには、ちょうどいい重さだった。



 宿場は、旧街道の中継地としては悪くない場所にあった。


 道の左右に馬留めと水場があり、奥には食堂を兼ねた宿屋が建っている。炉もある。厨房もある。客席もある。だが、昼前だというのに席は半分以上空いていた。


 店主は、セオの後ろに立つロアンを見た。


 次に荷袋を見た。小鍋を見た。古びた香辛料袋を見た。最後に、もう1度セオを見た。


「……本当に、この男が作るのか」


「1度だけです」


 セオが答えると、店主は短く息を吐いた。


「まあ、炉は空いてる」


 それだけ言って、厨房の方を顎で示した。


 厨房の奥では、若い料理人がこちらを見ていた。まだ20歳そこそこだろう。栗色の髪を後ろで結び、袖をまくっている。目だけは妙に真面目だった。


「ミロ。手伝ってやれ」


 店主が言うと、若い料理人は慌てて頭を下げた。


「はい」


 ロアンはその声を聞いて、少しだけ顔をしかめた。


 若い奴が真面目な目をしている時ほど、あとが面倒になる。


 そういうことを、ロアンは嫌というほど知っていた。



 ロアンは宿場の厨房に立った。


 よその炉。よその鍋。よその包丁。どれも自分の店とは少しずつ違う。昔なら、最初に道具の置き場所から変えていただろう。火の位置、鍋の並び、材料の順番。気に入らないところはいくつも見えた。


 だが、ロアンはそれを飲み込んだ。


「炉は借りる。鍋はこの大きさでいい」


「はい」


 ミロが素直に返事をする。


「豆はどれだ」


「こちらです」


「肉は硬い方を出せ。柔らかいのは別の客に使え」


「硬い方、ですか」


「煮るならそっちでいい」


 ミロは不思議そうな顔をしたが、すぐに肉を取りに行った。


 ロアンは豆を掌に取り、爪で割った。戻り方を見る。根菜は大きさと水気を見て、切る厚さを変える。肉は先に鍋へ沈めた。香辛料は自分の袋から出す。宿場のものも悪くはなかったが、香りの立ち方が違った。


 ミロは横で見ていた。


 見て、覚えようとしていた。


 その気配は分かった。


 だが、ロアンは説明しなかった。火を見る。豆を見る。肉の沈み方を見る。匙ですくって落ち方を見る。必要なことは鍋の中にある。そう思っていた。


 客席を覗くと、荷運びが2人、馬車番が1人、雨で足止めされたらしい旅人が1人いた。腹を膨らませたい顔だ。気取った味はいらない。辛味も強すぎない方がいい。


 ロアンは鍋を少しゆるめた。


 穀物に絡むが、喉で重くならない程度に。


「親父さん、今のは」


 ミロが聞きかける。


「あとだ」


 ロアンは短く返した。


 ミロは口を閉じた。



 昼前、最初の皿が荷運びの前に置かれた。


 くすんだ黄金色の煮込みは、宿場のいつもの汁物とは違っていた。派手な香りはしない。色も華やかではない。荷運びは匙を持ったまま、少しだけ眉を寄せた。


 店主も、腕を組んだまま見ていた。


 荷運びが1口食べる。


 すぐには何も言わなかった。


 2口目を食べる。


 それから、皿の端に残った麦を見て、店主を呼んだ。


「……もう少し、麦をくれ」


 店主の眉が動いた。


 次に馬車番が薄焼きパンをちぎり、煮込みをすくった。少しこぼれたが、指で受けてそのまま口へ入れる。


「薄焼きでも食えるのか」


「食える」


 ロアンが答える前に、ミロが皿を持って動きかけた。ロアンはその手元を見て、鍋の横にある小鉢を指した。


「そっちは少し濃い。薄焼きならそっちを使え」


「はい」


 ミロは慌てて小鉢を取った。


 雨で足止めされた旅人は、何も言わずに皿を空にした。食べ終えると、椅子の背にもたれ、長く息を吐いた。


 誰も大声で褒めなかった。


 ただ、皿は戻ってこなかった。


 戻ってきた時には、どれも空だった。



 その日の鍋は、昼過ぎには空になった。


 宿場の店主は、空の鍋を見ていた。疑っていた顔が、少しだけ変わっている。驚きというより、計算を始めた顔だった。


「皿が戻ってこないと思ったら、全部空だった」


 店主はロアンを見た。


「……明日も出せるのか」


「俺は明日もここにいるつもりはねえ」


 ロアンは即座に言った。


 店主は、厨房の隅に立つミロを見た。


「ミロ。見ていたな」


 ミロは背筋を伸ばした。


「はい」


「できるか」


 ミロは一瞬だけロアンを見た。それから、自分に言い聞かせるようにうなずいた。


「見ていました。たぶん、できます」


 ロアンは嫌な顔をした。


「たぶんで客に出すな」


「すみません。でも、豆を戻して、肉を先に入れて、香辛料は後で……」


「それだけじゃねえ」


 言ってから、ロアンは口を閉じた。


 それだけじゃない。


 では、何なのか。


 そう聞かれたら、きっと面倒なことになる。


 ミロはそれ以上言わなかった。だが、その目は逃げていなかった。



 翌日、ロアンはまだ宿場にいた。


 本当なら、昨日のうちに帰るつもりだった。だが、セオが頭を下げ、店主が鍋の様子だけでも見てくれと言い、ミロが黙って厨房に立っていた。


 結局、ロアンは客席の端に座っていた。


 ミロが作った煮込みが出てきた。


 見た目は似ていた。


 くすんだ黄金色に近い色も出ている。豆も根菜も入っている。肉も沈んでいる。香辛料の匂いもする。


 だが、ロアンは匙を入れた瞬間に分かった。


 薄い。


 とろみが弱い。香りが先に飛んでいる。豆は潰れすぎているのに、肉は硬い。麦に絡まず、皿の底へ流れていく。薄焼きパンですくえば、縁から垂れるだろう。


 ロアンは1口食べて、顔をしかめた。


「火が強すぎる」


 ミロはすぐにうなずいた。


「はい」


「豆を潰すのが早い。肉を沈める順番も違う。香辛料を焦らせたな」


「はい」


「匙から落ちる速さを見ろ」


 ミロは鍋のそばに置いた匙を見た。


 煮込みをすくい、持ち上げる。薄い煮込みが、すぐに鍋へ戻った。


「見ています」


「なら分かるだろ」


 ロアンの声が少し強くなった。


 ミロは唇を結んだ。


「だから、どれくらいですか?」


 ロアンは黙った。


「どれくらいの速さならいいんですか。どれくらい残ればいいんですか。僕は昨日、見ていました。でも、分かりませんでした」


「それは……」


 見れば分かる。


 そう言いかけて、ロアンは止まった。


 ミロの目は、反抗している目ではなかった。分からないことをごまかそうとしている目でもなかった。ただ、本当に分からないのだ。


 だから聞いている。


 それが、余計にロアンを苛立たせた。


「そこじゃねえんだよ」


 言葉が尖った。


 ミロの肩が、わずかに揺れた。


「火を見ろ。豆だけ見るな。鍋の縁を見ろ。匂いが先に逃げてるだろうが」


「すみません」


「謝れって言ってんじゃねえ」


 まただ。


 ロアンは、自分の声を聞きながら思った。


 自分には見える。相手には見えない。だから言葉が乱れる。相手が分からないことに苛立つ。


 ミロは俯いた。


 だが、厨房から逃げなかった。


「すみません。でも、教えてほしいんです」


 小さな声だった。


「親父さんの言う“落ち方”が、僕にはまだ分からないんです」


 ロアンは何も言えなかった。



 セオは、それまで黙っていた。


 客席の端で、ミロの鍋とロアンの顔を見ていた。宿場の店主も口を出さない。昨日、空になった鍋を見たからこそ、今日の違いが分かってしまっている。


 セオは静かに言った。


「親父さんがいないと作れないなら、この味は親父さんと一緒に終わります」


 ロアンはすぐに顔を上げた。


「終わりゃいいだろ。元々そのつもりだった」


 言い返した声は、思ったより早く出た。


 だが、その後が続かなかった。


 ミロは鍋を見ていた。店主も黙っていた。セオも、それ以上は言わなかった。


 ロアンはミロの失敗作をもう1度すくった。


 匙を持ち上げる。


 薄い煮込みが、鍋へ落ちていく。


 速すぎる。


 それをどう言えばミロに伝わるのか、ロアンには分からなかった。


◆◆◆(第4話 渡せない味)◆◆◆

お読みいただきありがとうございます。


第4話では、ロアンの味をほかの場所へ渡そうとして、最初の壁にぶつかりました。


第5話では、その味を人に伝えるために、ロアンが自分の感覚を少しずつ言葉にしていきます。

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