第3話 売れる味
戸を開けると、昨日の若い商人が立っていた。
外套は昨日ほど濡れていない。だが、靴にはまだ旧街道の泥が残っていた。セオは戸口で少し息を整え、まっすぐロアンを見た。
「あの煮込みを、もう1度食べさせてください」
ロアンは、戸を閉めかけた。
「店はもう終いだ」
「分かっています」
「分かってて来たのか」
「はい」
若い商人は、妙に真面目な顔でうなずいた。
ロアンは戸口に立ったまま、しばらくセオを見た。昨日の夜、雨の中で1皿食って帰っただけの客だった。名も知らない若い商人。いや、名は聞いた気もするが、覚えておく必要があるとは思っていなかった。
もう終わる店に、常連はいらない。
「昨日のは、残ったもんを鍋に放り込んだだけだ」
ロアンは低く言った。
「同じもんを出せと言われても困る」
「同じでなくても構いません」
「構うんだよ。料理ってのはな、余り方まで同じにはならねえんだ。豆の残りも、肉の硬さも、根菜の水気も、毎日違う」
「だから、確かめたいんです」
セオは戸口から動かなかった。
「昨日の皿が偶然だったのか、親父さんの味だったのか。それを確かめたいんです」
ロアンは眉を寄せた。
「大げさなことを言うな」
「大げさかどうかも、もう1度食べないと分かりません」
少しだけ、風が入ってきた。雨上がりの旧街道の匂いが、店の奥まで流れ込んだ。濡れた石、泥、古い木、冷えた朝の空気。
ロアンは舌打ちをした。
「残り物でよけりゃな」
「お願いします」
「味が変わっても文句を言うな」
「言いません」
「高いぞ」
「払います」
「若いくせに、金の使い方が下手だな」
ロアンは戸を開けたまま背を向けた。入れ、と言わなくても、セオは静かに店へ入った。
◆
炉には、まだ灰の熱が少し残っていた。
ロアンは棚を開け、残っている材料を見た。豆は昨日より少ない。根菜も種類が違う。肉は昨日より硬い端肉ばかりだった。香辛料袋の底はもう空に近く、代わりに棚の奥から小瓶を取り出す。そこに残っていた粉は、昨日のものより香りが弱かった。
「昨日とは違う」
ロアンは念を押した。
「分かっています」
「残り物は、毎日同じ顔をしてくれねえんだよ」
そう言いながら、ロアンの手は止まらなかった。
豆が少ない分、根菜を少し多めに切る。煮崩れやすいものを鍋の底へ入れ、形を残すものは少し後に回す。硬い肉は先に沈めた。脂が浮きすぎないよう、火を急がせない。香辛料は、昨日より遅く入れる。弱い香りを焦がさず、湯気の中へ少しずつ移すためだった。
セオは席に座り、黙ってその様子を見ていた。
昨日は、ただ腹が減っていた。濡れて、冷えて、商談に失敗して、灯りと匂いに引かれて入っただけだった。だが今は違う。ロアンが何をしているのか、分からないなりに見ようとしていた。
ロアンは途中でセオを一瞥した。
「なんだ」
「いえ」
「見ても面白いもんじゃねえぞ」
「面白いです」
「変わった客だな」
ロアンはそれ以上言わず、鍋をかき混ぜた。
くすんだ黄金色が、ゆっくりと鍋の中に広がっていく。昨日と同じ色ではない。少し濃く、少し暗い。だが、湯気の奥にある匂いは、昨日と同じ場所へ向かっていた。
ロアンは匙で煮込みをすくい、落ち方を見る。少し重い。根菜を崩し、湯を足し、もう1度見る。今度は、麦に絡んで、腹に残る程度のとろみだった。
やがて、皿が置かれた。
「食え」
昨日と同じ言葉だった。
セオは匙を取った。
最初の1口で、昨日と違うことは分かった。香りの立ち方も、根菜の甘さも、肉の噛み応えも違う。だが、飲み込んだ後に腹の底へ残る熱は同じだった。
派手ではない。
珍しくもない。
だが、雨の旧街道を歩いた人間が、この皿の前で黙る理由は分かった。
セオは2口目を食べた。
昨日のように驚きはしなかった。今度は、確かめるように食べた。麦に絡む。冷えた身体を起こす。香辛料は舌の上で騒がず、少し遅れて腹の奥から戻ってくる。高級料理のように記憶へ刺さるのではなく、身体の方へ静かに残る。
皿の半分を食べたところで、セオは匙を止めた。
窓の外を見る。
旧街道の石畳には、まだ水が光っていた。昨日、自分が歩いてきた道だった。新道の宿場で断られ、泥を踏み、腹を空かせて、たまたまこの店へ入った。もし昨日、この皿がなければ、もう少し歩く気力も残らなかったかもしれない。
セオは皿に目を戻した。
「これは……売れると思います」
ロアンは、鍋の蓋を置く手を止めた。
「なんだと」
「売れると思います」
「俺の店ひとつ続けられなかった男に、売れる味だと?」
ロアンは乾いた声で笑った。
「綺麗な言葉を並べるな。飯は飯だ。売れるなら、とっくに客は来てる」
その言葉には、重さがあった。
この店は、今まさに閉じようとしている。どれほど腹に残る料理でも、客が来なければ商売にはならない。ロアンの言うことは、間違っていなかった。
セオはすぐに言い返せなかった。
皿を見た。
それから、店の中を見た。重ねられた椅子、外しかけの木札、布に包まれた皿。ここだけで売ろうとしたから、届かなかったのかもしれない。旧街道の端にあるこの小さな店だけでは、道を通り過ぎる人間に見つけてもらえない。
だが、宿場なら。
雨の日に人が集まる場所なら。
疲れてたどり着いた旅人が、腰を下ろす場所なら。
「大きな商会には、たぶん分かりません」
セオはゆっくり言った。
「でも、旧街道の宿場なら分かります。急いでいる客より、疲れてたどり着いた客に出すべき料理です」
「分かったような口を利く」
「分かっているとは言いません。ただ、そう思いました」
ロアンは目を細めた。
セオは若い。昨日、大きな商会に断られたばかりの商人だ。立派な販路があるわけでも、何軒もの宿を動かす力があるわけでもない。そのくせ、目の前の皿を見て、売れると言った。
まぶしいほどの自信ではなかった。
むしろ、迷いながら言っているように見えた。
「よその宿場で、俺が鍋を振るってか」
ロアンは鼻で笑った。
「やめとけ。そういうのは、ろくなことにならねえ」
「なぜですか」
「俺はどこへ行っても、長くいられなかった男だ」
セオは黙った。
その言葉が、ただの冗談ではないことくらいは分かった。店の奥に並べられた古い道具。箱の脇に置かれた布前掛けや木札。朝からロアンが片付けていたものには、客に見せない時間の重みがあった。
ロアンは続けた。
「よその場所には、よそのやり方がある。そこへ俺が行って、鍋に口を出す。最後は決まって同じだ」
「追い出される、ですか」
「分かってるなら言うな」
ロアンの声は荒くなかった。
それがかえって、セオには重く聞こえた。
だが、ここで引けば、この皿は終わる。
セオはゆっくり息を吸った。
「店を続けてくださいとは言いません」
ロアンは黙っていた。
「ただ、消す前に1度だけ、外で試させてください。材料は僕が買います。失敗したら、それで終わりにします」
「簡単に言うな」
「簡単ではありません」
「お前に何ができる」
セオは少しだけ視線を落とした。
「大きな商会を動かす力は、僕にはありません」
その言葉には、昨日の断られた商談の痛みが残っていた。
「でも、小さな宿場に話を持っていくくらいならできます」
ロアンは返事をしなかった。
炉の中で、灰が小さく崩れた。
セオは待った。ここで言葉を重ねれば、また安っぽくなる気がした。自分が見つけたものが本物かどうかも、まだ分からない。売れると断言できるほどの実績もない。ただ、この皿を消してしまうことだけは違うと思った。
ロアンは棚の奥を見た。
残っている豆。硬い肉。根菜。香辛料の小瓶。閉店のためにまとめたはずのものが、まだそこにあった。
「1度だけだ」
セオは顔を上げた。
「売れなくても知らねえ。俺の名前を看板に出すな。鍋を焦がしたら、お前が責任を取れ」
「はい」
「返事が早い」
「ありがとうございます」
「礼を言うのは、失敗してからにしろ」
ロアンは棚の奥から、残っていた香辛料袋を取り出した。
セオは深く頭を下げた。
ロアンは返事をせず、外しかけていた看板を見た。昨日の朝には、外すつもりだった看板だ。雨に黒ずみ、字も薄れ、もう役目を終えるはずだった。
しばらく見たあと、ロアンは舌打ちをした。
そして、緩めていた紐を、もう1度だけ結び直した。
◆◆◆(第3話 売れる味)◆◆◆
お読みいただきありがとうございます。
第4話では、ロアンの名もなき煮込みをほかの場所へ持っていこうとした時、最初の壁にぶつかります。




