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続かなかった男の最後の食堂 〜旧街道に残る、名もなき味〜  作者: U2U


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2/12

第2話 続かなかった男

 翌朝、雨は止みきらないまま、旧街道の石畳に細い水の筋を残していた。


 ロアンは店の奥で、古い木箱を開けていた。


 皿は布に包んだ。使える鍋は古物屋へ持っていく。割れた器は捨てる。残った豆と根菜は、あと数日分の飯になる。そうやって1つずつ分けていくと、店というものは思ったより小さくなる。火を落とした炉、重ねた椅子、外しかけた木札。残るのは、少しの道具と、湿った木の匂いだけだった。


 箱の底から、くたびれた布前掛けが出てきた。


 白かったはずの布は黄ばみ、端は擦り切れていた。腹のあたりに、薄い染みが残っている。汁物の染みだった。洗っても落ちず、そのまま残ったものだ。


「……まだ残ってやがったのか」


 ロアンは布前掛けを指でつまみ、しばらく眺めた。


 それは、最初に続かなかった仕事の匂いがした。



 若い頃のロアンは、旧街道よりも少し北にある宿屋で下働きをしていた。


 その日も雨だった。旅人は濡れた外套を肩に貼りつかせ、入口で息を切らしていた。年老いた男だった。荷物は大きくない。だが、足取りは重く、唇の色が悪かった。


 宿の親方は帳場に立ち、いつもの順番で客をさばいていた。


 部屋を決める。荷を預かる。代金を確認する。それから湯と食事を出す。


 それが宿の順番だった。


 だが、若いロアンはその順番より先に、厨房へ走った。鍋の端に残っていた温かい汁を椀によそい、旅人の前へ出した。


「先に腹を温めた方がいい。あの足じゃ、部屋まで上がるのもしんどい」


 そう言った時、ロアンは自分が良いことをしていると思っていた。


 旅人は椀を両手で包み、少しだけ息をついた。そこまではよかった。


 だが、帳場の空気は変わっていた。


「お前が決めることじゃない」


 親方の声は低かった。


「宿には宿の順番がある。荷も見ず、代も聞かず、勝手に汁を出すな」


「でも、あの人は先に温めた方がいい」


「それを決めるのはお前じゃない」


 親方は、旅人の前ではそれ以上怒鳴らなかった。だが、その夜、ロアンは裏口のそばで長く叱られた。


 客を見ていた。


 それは確かだった。


 だが、ロアンは宿を見ていなかった。帳場を見ていなかった。親方が長年守ってきた順番を、若い下働きが勝手に押しのけたことにも気づいていなかった。


 その宿には、長くいられなかった。



 布前掛けを箱の脇へ置くと、次に出てきたのは小さな木札だった。


 焦げ目のついた札には、かすれた字で番号が刻まれている。軍の炊事場で、鍋の位置を示すために使われていたものだ。


 ロアンは指でその焦げ目をなぞった。


 軍の炊事場は、宿屋よりもずっと広かった。


 朝から火が並び、大鍋がいくつも湯気を上げていた。豆、肉、根菜、塩。材料は同じはずだった。それでも、鍋によって匂いが違った。


 西側の鍋は塩が強い。奥の鍋は豆が戻りきっていない。手前の鍋は肉の脂が浮きすぎている。兵士たちは文句を言わなかったが、食べる速度が違った。椀を空にする早さも、残る汁の量も、鍋ごとに違った。


 ロアンには、それが気になって仕方なかった。


「西の鍋だけ塩が強い。こっちは豆が戻りきってない」


 鍋を混ぜていた年上の炊事係が、手を止めた。


「黙って混ぜろ」


「でも、このままだと奥の鍋だけ残る」


「味を見るのは、お前の役目じゃない」


 軍の炊事場には、役目があった。指示を出す者がいて、火を見る者がいて、材料を運ぶ者がいて、混ぜる者がいる。若い下働きが鍋を指して口を出せば、その場の流れが乱れる。


 ロアンは、鍋を見ていた。


 豆の戻り方も、塩の強さも、脂の浮き方も、確かに見えていた。


 けれど、誰に、いつ、どう伝えるべきかを知らなかった。見えたものを、その場で言えば済むと思っていた。


 済まなかった。


 その炊事場にも、長くはいられなかった。



 木札の下には、古い香辛料袋の切れ端があった。


 乾いているはずなのに、指先にわずかなざらつきが残る。商隊で荷を運んでいた頃のものだった。袋の端に残った香りはもう死んでいたが、ロアンの鼻は、その頃の湿った荷車の匂いを覚えていた。


 商隊の荷積みには、重さ、順番、納品先、道の揺れ、護衛の動き。それぞれに理由があった。若いロアンは、そこまで見ていなかった。


 ただ、香辛料袋が湿気を吸う位置にあることだけは分かった。乾物の袋も、雨の跳ね返りを受けやすいところに積まれていた。


 このままでは、香りが死ぬ。


 そう思ったロアンは、誰にも聞かずに袋を動かした。


「この袋は下に置くな。湿気を吸えば香りが死ぬ」


 荷台の上で袋を抱え直した時、背後から商隊長の怒鳴り声が飛んだ。


「勝手に荷を動かすな!」


「でも、この位置だと湿気る」


「荷崩れしたら誰が責任を取る。降ろす順番が変わったら、次の宿場で詰まる。お前は香辛料しか見ていない」


 香辛料を守ろうとした。


 それは嘘ではなかった。


 だが、相談する前に手を出した。


 それもまた、事実だった。


 商隊から降ろされた時、ロアンの手には、香りの抜けた袋の切れ端だけが残った。



 木箱の中で、焦げた木匙が転がった。


 屋台で使っていたものだった。


 ロアンはそれを見た時だけ、少し苦い顔をした。


 あの屋台の昼時は、いつも人が並んでいた。だが、客の流れは悪かった。注文を受けてから根菜を切り、肉を焼き、汁を温める。店主は腕のいい男だったが、何もかもその場で始めるため、客は待たされた。


 若いロアンには、遅くなる理由が見えていた。


 先に根菜を切っておけばいい。汁は弱い火で温め続ければいい。よく出る皿は手前に置けばいい。肉を焼く順番も変えられる。


 それだけで、客を待たせる時間は減る。


 ロアンは、そう思ったことをそのまま口にした。


「先に根菜を切っておけば、客を待たせずに済む」


 店主は包丁を止めた。


「俺の屋台で、俺のやり方に口を出すな」


「でも、そのやり方じゃ遅い」


 言った瞬間、屋台の空気が固まった。


 客のためだった。


 そう言えば、聞こえはいい。


 だが、本当にそれだけだったのか。


 自分には見えている。相手には見えていない。だから自分の方が正しい。若いロアンの言葉には、そういう尖りがあった。


 店主が長年積み上げてきたやり方を、客の前で否定した。


 客を待たせないためと言いながら、相手の誇りを踏んだ。


 その日の終わり、ロアンは屋台の後ろで木匙を返した。


「もう来なくていい」


 店主はそれだけ言った。


 ロアンは謝らなかった。


 その時は、まだ謝れなかった。



 箱の底近くに、小さな白布が畳まれていた。


 貴族屋敷の厨房で、皿の縁を拭くために使っていた布だった。ほかの品よりも薄く、妙に上等で、今のロアンの店には似合わない。


 貴族屋敷の厨房は、火も鍋も人も多かった。


 だが、そこでは味よりも、立場の方が先に動いた。


 ある晩、香辛料を使った料理の仕上げで失敗が起きた。香りが立つはずの皿から、焦げた苦味が先に出ていた。原因は分かっていた。上の料理人が、最後に火を強めすぎたのだ。


 だが、責任は下働きに向いた。


「お前が香辛料を渡すのが遅かった」


 そう言われた時、ロアンは黙れなかった。


「失敗したのは俺じゃない。香りを殺したのは上の火だ」


 厨房が静かになった。


「黙れ。下働きが口答えするな」


「火を見りゃ分かる。あれじゃ、香辛料が焦げる」


 正しかった。


 少なくとも、火については正しかった。


 だが、黙れなかったのは、客のためだけだったのか。


 見えているものを、見えていない者に踏みにじられるのが、我慢ならなかっただけではないのか。


 その答えを、若いロアンは持っていなかった。


 翌日、ロアンは屋敷の裏門から外へ出された。手元に残ったのは、小さな白布だけだった。



 ロアンは、木箱の中身を並べ終えた。


 くたびれた布前掛け。焦げ目のついた木札。香辛料袋の切れ端。焦げた木匙。小さな白布。


 どれも、ろくな思い出ではなかった。


 それでも捨てずにいたのは、未練だったのか、忘れることすら面倒だったのか、ロアン自身にも分からなかった。


 最後に、箱の底から折り畳まれた紙が出てきた。


 古い職歴の紙だった。


 紙には、古い字で職場名が並んでいた。


 宿屋。

 軍の炊事場。

 商隊。

 倉庫番。

 屋台。

 貴族屋敷。

 街道食堂。


 覚えているものもあれば、思い出したくもないものもあった。短すぎて、記憶より先に名前だけが残っている仕事もあった。


 どこでも、何かは見えていた。


 だが、どこでも、うまくはいかなかった。


 ロアンは古い職歴の紙を折り直し、箱の底へ戻した。


「結局、何ひとつ続かなかったな」


 声に出すと、それは思ったより軽く聞こえた。


 諦めの言葉というより、長く使ってきた椅子を壁際へ寄せる時のような、乾いた音だった。


 その時、戸が叩かれた。


 雨上がりの朝に、客が来るはずはなかった。


 ロアンはしばらく戸を見た。


 もう1度、叩かれた。


 仕方なく立ち上がり、戸を開ける。


 そこには、昨日の若い商人が立っていた。


◆◆◆(第2話 続かなかった男)◆◆◆

お読みいただきありがとうございます。


第3話では、ロアン自身がただの残り物だと思っている煮込みに、セオが別の価値を見出していきます。

2〜3日に1回ほどのペースで更新予定です。

(計画変更します!)

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