第2話 続かなかった男
翌朝、雨は止みきらないまま、旧街道の石畳に細い水の筋を残していた。
ロアンは店の奥で、古い木箱を開けていた。
皿は布に包んだ。使える鍋は古物屋へ持っていく。割れた器は捨てる。残った豆と根菜は、あと数日分の飯になる。そうやって1つずつ分けていくと、店というものは思ったより小さくなる。火を落とした炉、重ねた椅子、外しかけた木札。残るのは、少しの道具と、湿った木の匂いだけだった。
箱の底から、くたびれた布前掛けが出てきた。
白かったはずの布は黄ばみ、端は擦り切れていた。腹のあたりに、薄い染みが残っている。汁物の染みだった。洗っても落ちず、そのまま残ったものだ。
「……まだ残ってやがったのか」
ロアンは布前掛けを指でつまみ、しばらく眺めた。
それは、最初に続かなかった仕事の匂いがした。
◆
若い頃のロアンは、旧街道よりも少し北にある宿屋で下働きをしていた。
その日も雨だった。旅人は濡れた外套を肩に貼りつかせ、入口で息を切らしていた。年老いた男だった。荷物は大きくない。だが、足取りは重く、唇の色が悪かった。
宿の親方は帳場に立ち、いつもの順番で客をさばいていた。
部屋を決める。荷を預かる。代金を確認する。それから湯と食事を出す。
それが宿の順番だった。
だが、若いロアンはその順番より先に、厨房へ走った。鍋の端に残っていた温かい汁を椀によそい、旅人の前へ出した。
「先に腹を温めた方がいい。あの足じゃ、部屋まで上がるのもしんどい」
そう言った時、ロアンは自分が良いことをしていると思っていた。
旅人は椀を両手で包み、少しだけ息をついた。そこまではよかった。
だが、帳場の空気は変わっていた。
「お前が決めることじゃない」
親方の声は低かった。
「宿には宿の順番がある。荷も見ず、代も聞かず、勝手に汁を出すな」
「でも、あの人は先に温めた方がいい」
「それを決めるのはお前じゃない」
親方は、旅人の前ではそれ以上怒鳴らなかった。だが、その夜、ロアンは裏口のそばで長く叱られた。
客を見ていた。
それは確かだった。
だが、ロアンは宿を見ていなかった。帳場を見ていなかった。親方が長年守ってきた順番を、若い下働きが勝手に押しのけたことにも気づいていなかった。
その宿には、長くいられなかった。
◆
布前掛けを箱の脇へ置くと、次に出てきたのは小さな木札だった。
焦げ目のついた札には、かすれた字で番号が刻まれている。軍の炊事場で、鍋の位置を示すために使われていたものだ。
ロアンは指でその焦げ目をなぞった。
軍の炊事場は、宿屋よりもずっと広かった。
朝から火が並び、大鍋がいくつも湯気を上げていた。豆、肉、根菜、塩。材料は同じはずだった。それでも、鍋によって匂いが違った。
西側の鍋は塩が強い。奥の鍋は豆が戻りきっていない。手前の鍋は肉の脂が浮きすぎている。兵士たちは文句を言わなかったが、食べる速度が違った。椀を空にする早さも、残る汁の量も、鍋ごとに違った。
ロアンには、それが気になって仕方なかった。
「西の鍋だけ塩が強い。こっちは豆が戻りきってない」
鍋を混ぜていた年上の炊事係が、手を止めた。
「黙って混ぜろ」
「でも、このままだと奥の鍋だけ残る」
「味を見るのは、お前の役目じゃない」
軍の炊事場には、役目があった。指示を出す者がいて、火を見る者がいて、材料を運ぶ者がいて、混ぜる者がいる。若い下働きが鍋を指して口を出せば、その場の流れが乱れる。
ロアンは、鍋を見ていた。
豆の戻り方も、塩の強さも、脂の浮き方も、確かに見えていた。
けれど、誰に、いつ、どう伝えるべきかを知らなかった。見えたものを、その場で言えば済むと思っていた。
済まなかった。
その炊事場にも、長くはいられなかった。
◆
木札の下には、古い香辛料袋の切れ端があった。
乾いているはずなのに、指先にわずかなざらつきが残る。商隊で荷を運んでいた頃のものだった。袋の端に残った香りはもう死んでいたが、ロアンの鼻は、その頃の湿った荷車の匂いを覚えていた。
商隊の荷積みには、重さ、順番、納品先、道の揺れ、護衛の動き。それぞれに理由があった。若いロアンは、そこまで見ていなかった。
ただ、香辛料袋が湿気を吸う位置にあることだけは分かった。乾物の袋も、雨の跳ね返りを受けやすいところに積まれていた。
このままでは、香りが死ぬ。
そう思ったロアンは、誰にも聞かずに袋を動かした。
「この袋は下に置くな。湿気を吸えば香りが死ぬ」
荷台の上で袋を抱え直した時、背後から商隊長の怒鳴り声が飛んだ。
「勝手に荷を動かすな!」
「でも、この位置だと湿気る」
「荷崩れしたら誰が責任を取る。降ろす順番が変わったら、次の宿場で詰まる。お前は香辛料しか見ていない」
香辛料を守ろうとした。
それは嘘ではなかった。
だが、相談する前に手を出した。
それもまた、事実だった。
商隊から降ろされた時、ロアンの手には、香りの抜けた袋の切れ端だけが残った。
◆
木箱の中で、焦げた木匙が転がった。
屋台で使っていたものだった。
ロアンはそれを見た時だけ、少し苦い顔をした。
あの屋台の昼時は、いつも人が並んでいた。だが、客の流れは悪かった。注文を受けてから根菜を切り、肉を焼き、汁を温める。店主は腕のいい男だったが、何もかもその場で始めるため、客は待たされた。
若いロアンには、遅くなる理由が見えていた。
先に根菜を切っておけばいい。汁は弱い火で温め続ければいい。よく出る皿は手前に置けばいい。肉を焼く順番も変えられる。
それだけで、客を待たせる時間は減る。
ロアンは、そう思ったことをそのまま口にした。
「先に根菜を切っておけば、客を待たせずに済む」
店主は包丁を止めた。
「俺の屋台で、俺のやり方に口を出すな」
「でも、そのやり方じゃ遅い」
言った瞬間、屋台の空気が固まった。
客のためだった。
そう言えば、聞こえはいい。
だが、本当にそれだけだったのか。
自分には見えている。相手には見えていない。だから自分の方が正しい。若いロアンの言葉には、そういう尖りがあった。
店主が長年積み上げてきたやり方を、客の前で否定した。
客を待たせないためと言いながら、相手の誇りを踏んだ。
その日の終わり、ロアンは屋台の後ろで木匙を返した。
「もう来なくていい」
店主はそれだけ言った。
ロアンは謝らなかった。
その時は、まだ謝れなかった。
◆
箱の底近くに、小さな白布が畳まれていた。
貴族屋敷の厨房で、皿の縁を拭くために使っていた布だった。ほかの品よりも薄く、妙に上等で、今のロアンの店には似合わない。
貴族屋敷の厨房は、火も鍋も人も多かった。
だが、そこでは味よりも、立場の方が先に動いた。
ある晩、香辛料を使った料理の仕上げで失敗が起きた。香りが立つはずの皿から、焦げた苦味が先に出ていた。原因は分かっていた。上の料理人が、最後に火を強めすぎたのだ。
だが、責任は下働きに向いた。
「お前が香辛料を渡すのが遅かった」
そう言われた時、ロアンは黙れなかった。
「失敗したのは俺じゃない。香りを殺したのは上の火だ」
厨房が静かになった。
「黙れ。下働きが口答えするな」
「火を見りゃ分かる。あれじゃ、香辛料が焦げる」
正しかった。
少なくとも、火については正しかった。
だが、黙れなかったのは、客のためだけだったのか。
見えているものを、見えていない者に踏みにじられるのが、我慢ならなかっただけではないのか。
その答えを、若いロアンは持っていなかった。
翌日、ロアンは屋敷の裏門から外へ出された。手元に残ったのは、小さな白布だけだった。
◆
ロアンは、木箱の中身を並べ終えた。
くたびれた布前掛け。焦げ目のついた木札。香辛料袋の切れ端。焦げた木匙。小さな白布。
どれも、ろくな思い出ではなかった。
それでも捨てずにいたのは、未練だったのか、忘れることすら面倒だったのか、ロアン自身にも分からなかった。
最後に、箱の底から折り畳まれた紙が出てきた。
古い職歴の紙だった。
紙には、古い字で職場名が並んでいた。
宿屋。
軍の炊事場。
商隊。
倉庫番。
屋台。
貴族屋敷。
街道食堂。
覚えているものもあれば、思い出したくもないものもあった。短すぎて、記憶より先に名前だけが残っている仕事もあった。
どこでも、何かは見えていた。
だが、どこでも、うまくはいかなかった。
ロアンは古い職歴の紙を折り直し、箱の底へ戻した。
「結局、何ひとつ続かなかったな」
声に出すと、それは思ったより軽く聞こえた。
諦めの言葉というより、長く使ってきた椅子を壁際へ寄せる時のような、乾いた音だった。
その時、戸が叩かれた。
雨上がりの朝に、客が来るはずはなかった。
ロアンはしばらく戸を見た。
もう1度、叩かれた。
仕方なく立ち上がり、戸を開ける。
そこには、昨日の若い商人が立っていた。
◆◆◆(第2話 続かなかった男)◆◆◆
お読みいただきありがとうございます。
第3話では、ロアン自身がただの残り物だと思っている煮込みに、セオが別の価値を見出していきます。
2〜3日に1回ほどのペースで更新予定です。
(計画変更します!)




