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続かなかった男の最後の食堂 〜旧街道に残る、名もなき味〜  作者: U2U


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第8話 昔の声

 煮込みの匂いは、宿場の昼に少しずつ混じるようになっていた。


 まだ、客が列を作るほどではない。店主が笑って帳面を閉じるほどでもない。それでも、昼前になると、誰かが厨房の方を覗くようになった。


「昨日のあれ、今日はあるか」


 ミロはそのたびに、少しだけ背筋を伸ばした。


 ロアンは厨房の隅で腕を組み、相変わらず不機嫌な顔をしている。


「浮かれるな」


「浮かれていません」


「浮かれてる奴ほど、そう言う」


 ミロは小さく息を吐き、鍋へ戻った。


 豆は少しずつ見られるようになってきた。匙から落ちる速さも、前よりは安定している。穀物の皿と薄焼きの皿も、まだ危ういが分けようとしている。


 ロアンから見れば、足りないところはいくらでもあった。


 香りは弱い。肉の硬さも揺れる。火を落とすタイミングも遅れる。客の顔を見る余裕がなくなる時もある。


 だが、客は戻ってきた。


 その事実だけは、厨房の火よりも静かに残っていた。



 昼を少し過ぎた頃、商隊の一行が宿場へ入ってきた。


 荷車は2台。馬は泥を跳ね上げ、車輪には濡れた砂が絡んでいる。護衛は少なく、積み荷も多くはない。大きな商流から外れた、旧街道を知っている商隊だった。


 その先頭にいた男を見て、ロアンの手が止まった。


 年はロアンと同じくらいか、少し上だった。髪には白いものが混じり、頬には深い皺がある。派手な服ではない。だが、荷を見る目と、人を止める立ち方に、長く商隊をまとめてきた者の硬さがあった。


 男は席につき、店主に食事を頼んだ。


 ミロは薄焼きの皿を出した。旅人の服や荷の持ち方を見て、穀物よりも手早く食べられる方がいいと判断したのだろう。


 男は皿を受け取り、煮込みを薄焼きですくった。


 1口食べる。


 すぐには何も言わなかった。


 2口目を食べたところで、男の目が厨房の奥へ動いた。


 ロアンと目が合った。


 少しだけ、時間が止まった。


「……ロアンか」


 その名を聞いて、ミロが顔を上げた。セオも帳面から視線を外した。


 ロアンは答えなかった。


 男は薄く笑った。笑ったと言っても、懐かしさだけではない。古い傷の場所を、まだ覚えている者の顔だった。


「まだ鍋のそばにいたのか」


「たまたまだ」


「お前のたまたまは、昔から長い」


 ロアンは眉を寄せた。


「グラント」


 名前を口にしただけで、ロアンの声が少し低くなった。



 グラントは、もう1口だけ煮込みを食べた。


 褒めなかった。


 けれど、皿を押し返しもしなかった。


「商隊で香辛料袋を勝手に積み替えたことがあったな」


 ロアンは黙った。


 ミロは、ロアンの横顔を見た。


 グラントは薄焼きの端を指でちぎりながら続けた。


「湿気を吸えば香りが死ぬ。お前はそう言った。そこは間違っていなかった」


 ロアンの目がわずかに動く。


「お前の目は悪くなかった。香辛料の袋がどこで湿るか、乾物がどこで傷むか、よく見ていた」


 グラントはそこで一度、皿の中を見た。


「だが、お前は荷の順番を見ていなかった。重さも、降ろす先も、護衛の動きも、責任の所在もな」


 厨房の火が小さく鳴った。


 ミロは何かを言おうとして、言えなかった。


 セオも黙っている。


 グラントはロアンを見た。


「お前の目は悪くなかった。だが、お前はいつも順番を間違えた」


 ロアンは何も返さなかった。


「正しいことを言っているつもりで、人の仕事を壊していた」


 その言葉は、大きな声ではなかった。


 だから余計に、厨房の奥まで届いた。


 ロアンの肩が、わずかに固まった。


「だから、お前はどこへ行っても続かなかった」


 ミロは息を止めた。


 ロアン自身の口から詳しく聞いたわけではない。


 それでも今、グラントの言葉が、ロアンの沈黙の中に深く入っていくのは分かった。



 グラントは、厨房へ視線を移した。


 ミロの立つ場所。

 ロアンが腕を組んでいる場所。

 鍋の位置。

 小鍋に分けられた穀物用と薄焼き用。


「今度は、料理か」


 ロアンは答えなかった。


「よその厨房で、若い料理人に火を見ろ、豆を見ろ、順番を守れと教えている」


 ミロが一歩前へ出た。


「違います。親父さんは――」


「いい」


 ロアンが短く言った。


 ミロは止まった。


 ロアンはグラントを見ていなかった。鍋を見ていた。いや、鍋を見ているようで、もっと遠いものを見ていた。


 グラントは追い打ちをかけるようには言わなかった。


 ただ、静かに続けた。


「お前は昔からそうだった。見えるものがある。だから、見えていない者の手を止める。だが、そこが誰の場所かを忘れる」


 店の奥で、古い常連らしい男がぽつりと言った。


「よその食堂の親父が、いつまでうちの厨房に立つつもりだ」


 その一言だけで十分だった。


 宿場の店主は、すぐにその男を睨んだ。だが、否定はできなかった。


 この厨房は、ミロの場所であり、この宿場の場所だった。ロアンの店ではない。


 ミロは拳を握った。


 セオは口を開きかけて、閉じた。


 今のロアンが、昔と同じだけではないことを、2人とも知っていた。だが、グラントの言葉が完全な嘘ではないことも分かっていた。


 だから、言葉が出なかった。


 ロアンは、その沈黙を聞いていた。



「なら、俺はいない方がいいな」


 ロアンはそう言って、厨房から一歩退いた。


 ミロが顔を上げる。


「待ってください」


「お前はもう少し作れる」


「そういう話じゃありません」


「俺がいなくても、客は帰らなかっただろ」


 ミロは言葉を失った。


 セオが立ち上がった。


「親父さん」


「調子に乗るなと言ったはずだ」


 ロアンはセオを見る。


「俺が行かなくても残せる形にする。そういう話だったな」


 セオは何も言えなかった。


 ロアンは荷袋を取った。


 宿場に来た日と比べて、荷袋は少し軽くなっていた。底で、使いかけの香辛料袋がかさりと鳴る。その軽さが、今は妙に腹に残った。


 宿場の店主が声をかけようとした。


 しかし、言葉は出なかった。


 グラントは何も言わなかった。


 謝らなかった。


 引き止めもしなかった。


 ただ、皿の上に残った煮込みを見ていた。



 ロアンは宿場を出た。


 旧街道には、夕方の冷えが落ち始めていた。空は低く、道の端にはまだ雨の名残がある。石畳の隙間に溜まった水が、鈍く光っていた。


 後ろから、ミロの声は聞こえなかった。


 セオの足音も追ってこなかった。


 それでいい。


 そう思おうとした。


 だが、足は重かった。


 宿場に残してきた匂いが、背中の方にある。ミロが作った煮込みの匂い。自分のものではない。自分だけのものではなくなりかけていた匂い。


 それを、ロアンは振り返らなかった。



 夜になって、ロアンは自分の食堂へ戻った。


 戸は閉めたままだった。看板はまだ外していない。雨に黒ずんだ板が、闇の中で沈んでいる。


 戸を開けると、古い木の匂いがした。


 誰もいない店だった。


 重ねた椅子。布をかけた皿。片付けかけの棚。火の落ちた炉。何もかも、出ていった時のままだった。


 ロアンは荷袋を下ろした。


 音が小さく響いた。


 しばらく、動かなかった。


 それから、冷えた炉の前に立った。


 宿場に残してきた匂いは、ここにはなかった。


 あるのは、消えかけた炭の匂いだけだった。


◆◆◆(第8話 昔の声)◆◆◆


次回は、冷えた食堂に戻ったロアンの前に、ミロが鍋を持って現れます。

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