第8話 昔の声
煮込みの匂いは、宿場の昼に少しずつ混じるようになっていた。
まだ、客が列を作るほどではない。店主が笑って帳面を閉じるほどでもない。それでも、昼前になると、誰かが厨房の方を覗くようになった。
「昨日のあれ、今日はあるか」
ミロはそのたびに、少しだけ背筋を伸ばした。
ロアンは厨房の隅で腕を組み、相変わらず不機嫌な顔をしている。
「浮かれるな」
「浮かれていません」
「浮かれてる奴ほど、そう言う」
ミロは小さく息を吐き、鍋へ戻った。
豆は少しずつ見られるようになってきた。匙から落ちる速さも、前よりは安定している。穀物の皿と薄焼きの皿も、まだ危ういが分けようとしている。
ロアンから見れば、足りないところはいくらでもあった。
香りは弱い。肉の硬さも揺れる。火を落とすタイミングも遅れる。客の顔を見る余裕がなくなる時もある。
だが、客は戻ってきた。
その事実だけは、厨房の火よりも静かに残っていた。
◆
昼を少し過ぎた頃、商隊の一行が宿場へ入ってきた。
荷車は2台。馬は泥を跳ね上げ、車輪には濡れた砂が絡んでいる。護衛は少なく、積み荷も多くはない。大きな商流から外れた、旧街道を知っている商隊だった。
その先頭にいた男を見て、ロアンの手が止まった。
年はロアンと同じくらいか、少し上だった。髪には白いものが混じり、頬には深い皺がある。派手な服ではない。だが、荷を見る目と、人を止める立ち方に、長く商隊をまとめてきた者の硬さがあった。
男は席につき、店主に食事を頼んだ。
ミロは薄焼きの皿を出した。旅人の服や荷の持ち方を見て、穀物よりも手早く食べられる方がいいと判断したのだろう。
男は皿を受け取り、煮込みを薄焼きですくった。
1口食べる。
すぐには何も言わなかった。
2口目を食べたところで、男の目が厨房の奥へ動いた。
ロアンと目が合った。
少しだけ、時間が止まった。
「……ロアンか」
その名を聞いて、ミロが顔を上げた。セオも帳面から視線を外した。
ロアンは答えなかった。
男は薄く笑った。笑ったと言っても、懐かしさだけではない。古い傷の場所を、まだ覚えている者の顔だった。
「まだ鍋のそばにいたのか」
「たまたまだ」
「お前のたまたまは、昔から長い」
ロアンは眉を寄せた。
「グラント」
名前を口にしただけで、ロアンの声が少し低くなった。
◆
グラントは、もう1口だけ煮込みを食べた。
褒めなかった。
けれど、皿を押し返しもしなかった。
「商隊で香辛料袋を勝手に積み替えたことがあったな」
ロアンは黙った。
ミロは、ロアンの横顔を見た。
グラントは薄焼きの端を指でちぎりながら続けた。
「湿気を吸えば香りが死ぬ。お前はそう言った。そこは間違っていなかった」
ロアンの目がわずかに動く。
「お前の目は悪くなかった。香辛料の袋がどこで湿るか、乾物がどこで傷むか、よく見ていた」
グラントはそこで一度、皿の中を見た。
「だが、お前は荷の順番を見ていなかった。重さも、降ろす先も、護衛の動きも、責任の所在もな」
厨房の火が小さく鳴った。
ミロは何かを言おうとして、言えなかった。
セオも黙っている。
グラントはロアンを見た。
「お前の目は悪くなかった。だが、お前はいつも順番を間違えた」
ロアンは何も返さなかった。
「正しいことを言っているつもりで、人の仕事を壊していた」
その言葉は、大きな声ではなかった。
だから余計に、厨房の奥まで届いた。
ロアンの肩が、わずかに固まった。
「だから、お前はどこへ行っても続かなかった」
ミロは息を止めた。
ロアン自身の口から詳しく聞いたわけではない。
それでも今、グラントの言葉が、ロアンの沈黙の中に深く入っていくのは分かった。
◆
グラントは、厨房へ視線を移した。
ミロの立つ場所。
ロアンが腕を組んでいる場所。
鍋の位置。
小鍋に分けられた穀物用と薄焼き用。
「今度は、料理か」
ロアンは答えなかった。
「よその厨房で、若い料理人に火を見ろ、豆を見ろ、順番を守れと教えている」
ミロが一歩前へ出た。
「違います。親父さんは――」
「いい」
ロアンが短く言った。
ミロは止まった。
ロアンはグラントを見ていなかった。鍋を見ていた。いや、鍋を見ているようで、もっと遠いものを見ていた。
グラントは追い打ちをかけるようには言わなかった。
ただ、静かに続けた。
「お前は昔からそうだった。見えるものがある。だから、見えていない者の手を止める。だが、そこが誰の場所かを忘れる」
店の奥で、古い常連らしい男がぽつりと言った。
「よその食堂の親父が、いつまでうちの厨房に立つつもりだ」
その一言だけで十分だった。
宿場の店主は、すぐにその男を睨んだ。だが、否定はできなかった。
この厨房は、ミロの場所であり、この宿場の場所だった。ロアンの店ではない。
ミロは拳を握った。
セオは口を開きかけて、閉じた。
今のロアンが、昔と同じだけではないことを、2人とも知っていた。だが、グラントの言葉が完全な嘘ではないことも分かっていた。
だから、言葉が出なかった。
ロアンは、その沈黙を聞いていた。
◆
「なら、俺はいない方がいいな」
ロアンはそう言って、厨房から一歩退いた。
ミロが顔を上げる。
「待ってください」
「お前はもう少し作れる」
「そういう話じゃありません」
「俺がいなくても、客は帰らなかっただろ」
ミロは言葉を失った。
セオが立ち上がった。
「親父さん」
「調子に乗るなと言ったはずだ」
ロアンはセオを見る。
「俺が行かなくても残せる形にする。そういう話だったな」
セオは何も言えなかった。
ロアンは荷袋を取った。
宿場に来た日と比べて、荷袋は少し軽くなっていた。底で、使いかけの香辛料袋がかさりと鳴る。その軽さが、今は妙に腹に残った。
宿場の店主が声をかけようとした。
しかし、言葉は出なかった。
グラントは何も言わなかった。
謝らなかった。
引き止めもしなかった。
ただ、皿の上に残った煮込みを見ていた。
◆
ロアンは宿場を出た。
旧街道には、夕方の冷えが落ち始めていた。空は低く、道の端にはまだ雨の名残がある。石畳の隙間に溜まった水が、鈍く光っていた。
後ろから、ミロの声は聞こえなかった。
セオの足音も追ってこなかった。
それでいい。
そう思おうとした。
だが、足は重かった。
宿場に残してきた匂いが、背中の方にある。ミロが作った煮込みの匂い。自分のものではない。自分だけのものではなくなりかけていた匂い。
それを、ロアンは振り返らなかった。
◆
夜になって、ロアンは自分の食堂へ戻った。
戸は閉めたままだった。看板はまだ外していない。雨に黒ずんだ板が、闇の中で沈んでいる。
戸を開けると、古い木の匂いがした。
誰もいない店だった。
重ねた椅子。布をかけた皿。片付けかけの棚。火の落ちた炉。何もかも、出ていった時のままだった。
ロアンは荷袋を下ろした。
音が小さく響いた。
しばらく、動かなかった。
それから、冷えた炉の前に立った。
宿場に残してきた匂いは、ここにはなかった。
あるのは、消えかけた炭の匂いだけだった。
◆◆◆(第8話 昔の声)◆◆◆
次回は、冷えた食堂に戻ったロアンの前に、ミロが鍋を持って現れます。




