第11話 キャレイ
翌朝、旧街道にはまだ火の匂いが残っていた。
雨は上がっている。
だが、土はまだ湿っていた。轍の底には水が残り、荷車の通った跡が黒く光っている。新道の方から回された旅人たちは、昨日ほど多くはなかった。それでも、宿場の前には数台の荷車が止まっていた。
ロアンの食堂にも、朝から2人の旅人が入った。
「今日は開いてるのか」
戸口からそう聞かれ、ロアンは炉の前で短く答えた。
「火が入ってるだけだ」
旅人は少し困った顔をしたが、結局、椅子に座った。
看板は外していない。
紐は、昨夜結び直したままだった。風に揺れて、古い板が戸口の上で小さくきしんでいる。
ロアンは鍋を混ぜた。
昨日ほど急ぐ必要はない。けれど、気を抜けるほど客が少ないわけでもない。
昼前、ロアンは火を小さくして、宿場へ向かった。
宿場の厨房では、ミロが鍋の前に立っていた。
ロアンはいなかった。
それでも、鍋は崩れていなかった。
豆は残るところと崩れるところに分かれている。根菜の大きさは、前よりそろっていた。香辛料の匂いは、まだ弱い。だが、湯の上でばらばらに浮いてはいない。
客席では、荷運びの男が穀物の皿を抱えていた。
馬車番は薄焼きパンで煮込みをすくっている。
子ども連れの女は、辛味を抑えた椀を少しずつ冷ましていた。
ミロは、ロアンに気づいて手を止めかけた。
「見ますか」
ロアンは厨房に入りながら答えた。
「もう見てる」
ミロは鍋を見た。
ロアンは鍋だけではなく、客席も見ていた。
荷運びの男が穀物を足した。
薄焼きの馬車番は、皿を傾けずに最後まで食べた。
子どもは、泣かずに椀を両手で持っている。
ロアンは鍋の横に立った。
匙は取らない。
しばらく見てから、低く言った。
「崩れてねえな」
ミロは返事をしなかった。
ただ、次の皿へ煮込みをよそった。
客席では、旅人たちが勝手に呼び名をつけていた。
「昨日の黄金色のやつ、まだあるか」
「飯にかける煮込みをくれ」
「パンにつける方で頼む」
「旧道の腹に残るやつ、あれだ」
店主が何度も聞き返している。
「飯か、薄焼きか」
「辛くしていいのか」
「小鍋の方か」
言葉がばらばらだった。
皿は出せる。
鍋も回っている。
だが、客が口にするたび、別の料理のように聞こえた。
セオは客席の端で、そのやり取りを聞いていた。
若い商人は、帳面を出してはいない。
ただ、人の言葉を聞いている。
昼の客が少し引いたころ、セオはロアンの横に来た。
「名前がないと、呼べません」
ロアンは嫌そうにした。
「呼べなくても、食えりゃいい」
「食べた人は覚えます」
「ならいいだろ」
「次の人に伝える時に困ります」
ロアンは答えなかった。
鍋の底を見ている。
セオは続けた。
「昨日のあれ、と言われても、昨日ここにいなかった人には分かりません。黄金色の煮込みと言われても、薄焼きの方なのか、穀物の方なのか分からない」
「面倒な奴だな」
「面倒です」
セオはあっさり認めた。
「でも、名前があると、遠くまで届きます」
ロアンは鼻を鳴らした。
「名前で腹は膨れねえ」
「はい」
「鍋がうまくなるわけでもねえ」
「それも、はい」
「なら、後にしろ」
セオはそれ以上言わなかった。
その日の午後、セオは旧街道の先にある小さな宿場へ向かった。
ミロも小鍋を持ってついていく。
ロアンもいた。
ただし、鍋の前には立たなかった。
先の宿場は、さらに静かだった。
新道ができてから、通る人は減っている。軒先の桶には雨水が残り、古い看板は少し傾いていた。
主人は、セオの話を聞いても、すぐにはうなずかなかった。
「今だけだろう」
主人は言った。
「新道が戻れば、またみんなそっちへ行く。よその煮込みを出したところで、うちの客になるわけじゃない」
セオは無理に笑わなかった。
「その通りかもしれません」
「なら、なぜ持ってきた」
「昨日、宿場だけでは受けきれませんでした。火のある場所が分かれていれば、旅人を少しずつ逃がせます」
主人はミロの小鍋を見た。
それから、ロアンを見た。
「あんたが作るんじゃないのか」
ロアンは厨房の入り口に立ったまま答えた。
「俺が作ったら、ここには残らねえ」
主人は眉を寄せた。
意味が分からないという顔だった。
ミロは小鍋を置き、火を見た。
宿場の豆は、ロアンの食堂のものとは違った。根菜も少し水っぽい。香辛料も粗い。匂いの立ち方が違う。
ミロは一瞬、ロアンを見た。
「同じにはなりません」
「同じ材料は揃わねえ」
「じゃあ」
ロアンは鍋ではなく、客席を見た。
そこには、雨で足を止めた年寄りの旅人が1人と、荷を急ぐ若い馬車番がいた。
「誰に出す」
ミロは口を閉じた。
それから、小鍋を2つに分けた。
年寄りには軽い椀。
馬車番には、薄焼きで持てる重さ。
先の宿場の主人は、その手元を黙って見ていた。
ロアンは何も言わなかった。
火が強くなりかけた時だけ、炉の端を指で示した。
ミロはそれを見て、火を逃がした。
小さな実演は、それで終わった。
大きな声で客を呼ぶこともない。
宿場の主人が深く感心することもない。
ただ、年寄りの旅人は椀を空にした。
馬車番は、薄焼きパンの端まで使って皿をぬぐった。
主人はその皿を見て、短く言った。
「明日の朝、もう1度やってみろ」
ミロは小さくうなずいた。
ロアンは外へ出た。
旧街道の先に、薄い夕方の光が差している。
セオは宿場の主人と少しだけ話し、必要な豆と根菜の量を確かめていた。
ロアンはそれを待たずに、元の宿場へ戻った。
夕方の宿場には、朝より人が増えていた。
新道の復旧作業が遅れているらしい。
荷車は明日まで旧街道を通ることになった。
厨房では、ミロの代わりに店主が普通の汁を見ていた。ロアンが戻ると、店主はほっとしたような顔をしたが、何も言わなかった。
ロアンは鍋の蓋を取った。
火は残っている。
香りも残っている。
そこへ、1人の旅人が入ってきた。
肌の色が少し濃く、外套の留め具に南方の模様があった。以前、宿場で煮込みを食べた男だった。
旅人は客席に座り、出された皿を見た。
薄焼きパンを手に取り、煮込みをすくう。
1口食べて、少し首を傾げた。
「南のキャレイとは違うな」
ロアンは鍋を混ぜる手を止めなかった。
店主が聞き返す。
「キャレイ?」
「南では、香辛料で煮たものをそう呼ぶ」
旅人はもう1口食べた。
「これは違う。もっと重い。豆も腹に残る」
ミロがまだ戻っていなかったため、店主が不安そうにロアンを見た。
ロアンは何も言わない。
旅人は薄焼きで皿の端をぬぐった。
「だが、悪くない。旧道のキャレイ、というところか」
セオは、ちょうど戸口から戻ってきたところだった。
その言葉を聞いて、足を止めた。
「旧道のキャレイ」
小さく繰り返す。
旅人は笑った。
「勝手に言っただけだ」
「いえ」
セオは客席を見る。
荷運びが皿を空にしていた。
馬車番が薄焼きをもう1枚頼んでいる。
子ども連れの女が、辛味を抑えた椀を受け取っている。
セオはロアンの横に立った。
「あれを、呼び名にしてもいいかもしれません」
「南の料理じゃねえんだろ」
「そのままではありません」
「なら違う」
「でも、旅人がそう呼びました」
ロアンは鍋を見たままだった。
セオは続けた。
「親父さんが名乗る必要はありません。客が呼ぶなら、それでいいと思います」
ロアンは香辛料袋を棚に戻した。
「鍋がうまくなるわけじゃねえ」
「はい」
「なら、勝手にしろ」
セオはうなずいた。
それ以上、大げさに喜ばなかった。
次の客が戸口で迷っていた。
「さっきの、あの煮込みを」
店主が言葉に詰まる。
セオが横から言った。
「キャレイです」
客は聞き返した。
「キャレイ?」
南方の旅人が肩を揺らして笑った。
「そう呼ぶなら、それでいい」
荷運びの男が手を上げた。
「じゃあ、そのキャレイをくれ。飯にかける方で」
馬車番も続けた。
「俺は薄焼きで持てる方がいい」
店主は少しだけ困った顔をして、厨房へ声を投げた。
「キャレイ、飯の方と薄焼きの方だ」
自分で言って、少し首を傾げる。
まだ、言い慣れていない。
それでも、客には伝わった。
ロアンは黙って鍋を混ぜた。
名前がついても、鍋の中身は変わらない。
豆は豆だった。
火は火だった。
匙から落ちる速さも、客の腹も、何も変わらない。
だが、客席の言葉だけが少し変わった。
「あの煮込み」ではなくなった。
夕方遅く、グラントの商隊が宿場に入った。
荷は多くない。
けれど、泥を避けて遠回りしてきたのだろう。馬も人も疲れていた。
グラントは客席に座り、濡れた手袋を外した。
店主が声をかける。
「汁物と、キャレイがあります」
グラントの眉が、少し動いた。
「キャレイ?」
「旧道のキャレイです」
店主はそう言ってから、まだ言い慣れない顔をした。
グラントは少しだけ厨房の方を見た。
ロアンは炉の前にいる。
目は合わなかった。
「それをくれ」
グラントの前に、穀物の皿が置かれた。
くすんだ黄金色。
豆と根菜。
香辛料の匂い。
だが、ロアンが1人で作ったものとは違う。
店主の火が入っている。
ミロの手が入っている。
客に合わせて、皿の重さが変わっている。
グラントは匙を取った。
1口食べる。
何も言わない。
ミロが厨房の入り口で手を止めた。
セオも客席の端で見ている。
ロアンは鍋を見ていた。
グラントは水を飲まなかった。
顔も変えなかった。
ただ、もう1度匙を入れた。
2口目を食べた。
それだけだった。
ミロは小さく息を吐いた。
セオは何も言わない。
ロアンも何も言わなかった。
グラントは皿を空にした。
食べ終えた後、彼は立ち上がり、厨房の方へ歩いた。
ロアンと目が合う。
「まだ鍋のそばにいたか」
以前と同じような声だった。
ロアンは鍋を混ぜたまま答えた。
「今日は、俺の鍋だけじゃねえ」
グラントは、厨房の中を見た。
ミロが小鍋を見ている。
店主が器を並べている。
手伝いが水を運んでいる。
セオが戸口で、次の旅人の数を見ている。
グラントは何も言わなかった。
謝りもしない。
褒めもしない。
ただ、空になった皿を店主に返した。
「もう1皿、薄焼きの方で頼む」
店主が目を丸くした。
ロアンは鍋の底を混ぜ返した。
夜が近づくころ、宿場の外に小さな木札が出された。
誰が書いたのか、字は少し曲がっていた。
キャレイあり。
それだけだった。
ロアンは戸口からその札を見た。
「字が下手だな」
セオが横で言った。
「読めれば十分です」
ロアンは返さなかった。
先の宿場の方にも、小さな火が入っているはずだった。
ミロは厨房で鍋を見ている。
店主は客に、飯か薄焼きかを聞いている。
南方の旅人は、いつの間にか席を立っていた。
残した言葉だけが、宿場の中に残っている。
名前は、ロアンの手元を離れ始めていた。
だが、奪われたわけではなかった。
夜、旅人が宿場を出ていった。
そのうちの1人が、後から来た旅人に言った。
「旧道を行くなら、キャレイを食っていけ」
「何だ、それは」
「腹が温まる。もう少し歩ける」
ロアンは戸口の内側で、その声を聞いていた。
何も言わなかった。
ただ、炉の前へ戻った。
鍋の中で、豆がゆっくり沈んでいる。
香辛料の匂いは、強すぎない。
薄すぎもしない。
ロアンは何も言わず、鍋の底から、くすんだ黄金色をゆっくり混ぜ返した。
◆◆◆(第11話 キャレイ)◆◆◆
ここまでお読みいただきありがとうございます。
第11話でした。
名前のなかった煮込みに、「キャレイ」という呼び名が生まれました。
ただし、それはロアンが名付けたものではありません。
旅人が呼び、客が使い、旧街道の中で少しずつ広がっていく名前です。
次回、最終話です。
旧街道に何が残ったのかを描きます。




