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続かなかった男の最後の食堂 〜旧街道に残る、名もなき味〜  作者: U2U


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11/12

第11話 キャレイ

 翌朝、旧街道にはまだ火の匂いが残っていた。


 雨は上がっている。


 だが、土はまだ湿っていた。轍の底には水が残り、荷車の通った跡が黒く光っている。新道の方から回された旅人たちは、昨日ほど多くはなかった。それでも、宿場の前には数台の荷車が止まっていた。


 ロアンの食堂にも、朝から2人の旅人が入った。


「今日は開いてるのか」


 戸口からそう聞かれ、ロアンは炉の前で短く答えた。


「火が入ってるだけだ」


 旅人は少し困った顔をしたが、結局、椅子に座った。


 看板は外していない。


 紐は、昨夜結び直したままだった。風に揺れて、古い板が戸口の上で小さくきしんでいる。


 ロアンは鍋を混ぜた。


 昨日ほど急ぐ必要はない。けれど、気を抜けるほど客が少ないわけでもない。


 昼前、ロアンは火を小さくして、宿場へ向かった。


 宿場の厨房では、ミロが鍋の前に立っていた。


 ロアンはいなかった。


 それでも、鍋は崩れていなかった。


 豆は残るところと崩れるところに分かれている。根菜の大きさは、前よりそろっていた。香辛料の匂いは、まだ弱い。だが、湯の上でばらばらに浮いてはいない。


 客席では、荷運びの男が穀物の皿を抱えていた。


 馬車番は薄焼きパンで煮込みをすくっている。


 子ども連れの女は、辛味を抑えた椀を少しずつ冷ましていた。


 ミロは、ロアンに気づいて手を止めかけた。


「見ますか」


 ロアンは厨房に入りながら答えた。


「もう見てる」


 ミロは鍋を見た。


 ロアンは鍋だけではなく、客席も見ていた。


 荷運びの男が穀物を足した。


 薄焼きの馬車番は、皿を傾けずに最後まで食べた。


 子どもは、泣かずに椀を両手で持っている。


 ロアンは鍋の横に立った。


 匙は取らない。


 しばらく見てから、低く言った。


「崩れてねえな」


 ミロは返事をしなかった。


 ただ、次の皿へ煮込みをよそった。


 客席では、旅人たちが勝手に呼び名をつけていた。


「昨日の黄金色のやつ、まだあるか」


「飯にかける煮込みをくれ」


「パンにつける方で頼む」


「旧道の腹に残るやつ、あれだ」


 店主が何度も聞き返している。


「飯か、薄焼きか」


「辛くしていいのか」


「小鍋の方か」


 言葉がばらばらだった。


 皿は出せる。


 鍋も回っている。


 だが、客が口にするたび、別の料理のように聞こえた。


 セオは客席の端で、そのやり取りを聞いていた。


 若い商人は、帳面を出してはいない。


 ただ、人の言葉を聞いている。


 昼の客が少し引いたころ、セオはロアンの横に来た。


「名前がないと、呼べません」


 ロアンは嫌そうにした。


「呼べなくても、食えりゃいい」


「食べた人は覚えます」


「ならいいだろ」


「次の人に伝える時に困ります」


 ロアンは答えなかった。


 鍋の底を見ている。


 セオは続けた。


「昨日のあれ、と言われても、昨日ここにいなかった人には分かりません。黄金色の煮込みと言われても、薄焼きの方なのか、穀物の方なのか分からない」


「面倒な奴だな」


「面倒です」


 セオはあっさり認めた。


「でも、名前があると、遠くまで届きます」


 ロアンは鼻を鳴らした。


「名前で腹は膨れねえ」


「はい」


「鍋がうまくなるわけでもねえ」


「それも、はい」


「なら、後にしろ」


 セオはそれ以上言わなかった。


 その日の午後、セオは旧街道の先にある小さな宿場へ向かった。


 ミロも小鍋を持ってついていく。


 ロアンもいた。


 ただし、鍋の前には立たなかった。


 先の宿場は、さらに静かだった。


 新道ができてから、通る人は減っている。軒先の桶には雨水が残り、古い看板は少し傾いていた。


 主人は、セオの話を聞いても、すぐにはうなずかなかった。


「今だけだろう」


 主人は言った。


「新道が戻れば、またみんなそっちへ行く。よその煮込みを出したところで、うちの客になるわけじゃない」


 セオは無理に笑わなかった。


「その通りかもしれません」


「なら、なぜ持ってきた」


「昨日、宿場だけでは受けきれませんでした。火のある場所が分かれていれば、旅人を少しずつ逃がせます」


 主人はミロの小鍋を見た。


 それから、ロアンを見た。


「あんたが作るんじゃないのか」


 ロアンは厨房の入り口に立ったまま答えた。


「俺が作ったら、ここには残らねえ」


 主人は眉を寄せた。


 意味が分からないという顔だった。


 ミロは小鍋を置き、火を見た。


 宿場の豆は、ロアンの食堂のものとは違った。根菜も少し水っぽい。香辛料も粗い。匂いの立ち方が違う。


 ミロは一瞬、ロアンを見た。


「同じにはなりません」


「同じ材料は揃わねえ」


「じゃあ」


 ロアンは鍋ではなく、客席を見た。


 そこには、雨で足を止めた年寄りの旅人が1人と、荷を急ぐ若い馬車番がいた。


「誰に出す」


 ミロは口を閉じた。


 それから、小鍋を2つに分けた。


 年寄りには軽い椀。


 馬車番には、薄焼きで持てる重さ。


 先の宿場の主人は、その手元を黙って見ていた。


 ロアンは何も言わなかった。


 火が強くなりかけた時だけ、炉の端を指で示した。


 ミロはそれを見て、火を逃がした。


 小さな実演は、それで終わった。


 大きな声で客を呼ぶこともない。


 宿場の主人が深く感心することもない。


 ただ、年寄りの旅人は椀を空にした。


 馬車番は、薄焼きパンの端まで使って皿をぬぐった。


 主人はその皿を見て、短く言った。


「明日の朝、もう1度やってみろ」


 ミロは小さくうなずいた。


 ロアンは外へ出た。


 旧街道の先に、薄い夕方の光が差している。


 セオは宿場の主人と少しだけ話し、必要な豆と根菜の量を確かめていた。


 ロアンはそれを待たずに、元の宿場へ戻った。


 夕方の宿場には、朝より人が増えていた。


 新道の復旧作業が遅れているらしい。


 荷車は明日まで旧街道を通ることになった。


 厨房では、ミロの代わりに店主が普通の汁を見ていた。ロアンが戻ると、店主はほっとしたような顔をしたが、何も言わなかった。


 ロアンは鍋の蓋を取った。


 火は残っている。


 香りも残っている。


 そこへ、1人の旅人が入ってきた。


 肌の色が少し濃く、外套の留め具に南方の模様があった。以前、宿場で煮込みを食べた男だった。


 旅人は客席に座り、出された皿を見た。


 薄焼きパンを手に取り、煮込みをすくう。


 1口食べて、少し首を傾げた。


「南のキャレイとは違うな」


 ロアンは鍋を混ぜる手を止めなかった。


 店主が聞き返す。


「キャレイ?」


「南では、香辛料で煮たものをそう呼ぶ」


 旅人はもう1口食べた。


「これは違う。もっと重い。豆も腹に残る」


 ミロがまだ戻っていなかったため、店主が不安そうにロアンを見た。


 ロアンは何も言わない。


 旅人は薄焼きで皿の端をぬぐった。


「だが、悪くない。旧道のキャレイ、というところか」


 セオは、ちょうど戸口から戻ってきたところだった。


 その言葉を聞いて、足を止めた。


「旧道のキャレイ」


 小さく繰り返す。


 旅人は笑った。


「勝手に言っただけだ」


「いえ」


 セオは客席を見る。


 荷運びが皿を空にしていた。


 馬車番が薄焼きをもう1枚頼んでいる。


 子ども連れの女が、辛味を抑えた椀を受け取っている。


 セオはロアンの横に立った。


「あれを、呼び名にしてもいいかもしれません」


「南の料理じゃねえんだろ」


「そのままではありません」


「なら違う」


「でも、旅人がそう呼びました」


 ロアンは鍋を見たままだった。


 セオは続けた。


「親父さんが名乗る必要はありません。客が呼ぶなら、それでいいと思います」


 ロアンは香辛料袋を棚に戻した。


「鍋がうまくなるわけじゃねえ」


「はい」


「なら、勝手にしろ」


 セオはうなずいた。


 それ以上、大げさに喜ばなかった。


 次の客が戸口で迷っていた。


「さっきの、あの煮込みを」


 店主が言葉に詰まる。


 セオが横から言った。


「キャレイです」


 客は聞き返した。


「キャレイ?」


 南方の旅人が肩を揺らして笑った。


「そう呼ぶなら、それでいい」


 荷運びの男が手を上げた。


「じゃあ、そのキャレイをくれ。飯にかける方で」


 馬車番も続けた。


「俺は薄焼きで持てる方がいい」


 店主は少しだけ困った顔をして、厨房へ声を投げた。


「キャレイ、飯の方と薄焼きの方だ」


 自分で言って、少し首を傾げる。


 まだ、言い慣れていない。


 それでも、客には伝わった。


 ロアンは黙って鍋を混ぜた。


 名前がついても、鍋の中身は変わらない。


 豆は豆だった。


 火は火だった。


 匙から落ちる速さも、客の腹も、何も変わらない。


 だが、客席の言葉だけが少し変わった。


「あの煮込み」ではなくなった。


 夕方遅く、グラントの商隊が宿場に入った。


 荷は多くない。


 けれど、泥を避けて遠回りしてきたのだろう。馬も人も疲れていた。


 グラントは客席に座り、濡れた手袋を外した。


 店主が声をかける。


「汁物と、キャレイがあります」


 グラントの眉が、少し動いた。


「キャレイ?」


「旧道のキャレイです」


 店主はそう言ってから、まだ言い慣れない顔をした。


 グラントは少しだけ厨房の方を見た。


 ロアンは炉の前にいる。


 目は合わなかった。


「それをくれ」


 グラントの前に、穀物の皿が置かれた。


 くすんだ黄金色。


 豆と根菜。


 香辛料の匂い。


 だが、ロアンが1人で作ったものとは違う。


 店主の火が入っている。


 ミロの手が入っている。


 客に合わせて、皿の重さが変わっている。


 グラントは匙を取った。


 1口食べる。


 何も言わない。


 ミロが厨房の入り口で手を止めた。


 セオも客席の端で見ている。


 ロアンは鍋を見ていた。


 グラントは水を飲まなかった。


 顔も変えなかった。


 ただ、もう1度匙を入れた。


 2口目を食べた。


 それだけだった。


 ミロは小さく息を吐いた。


 セオは何も言わない。


 ロアンも何も言わなかった。


 グラントは皿を空にした。


 食べ終えた後、彼は立ち上がり、厨房の方へ歩いた。


 ロアンと目が合う。


「まだ鍋のそばにいたか」


 以前と同じような声だった。


 ロアンは鍋を混ぜたまま答えた。


「今日は、俺の鍋だけじゃねえ」


 グラントは、厨房の中を見た。


 ミロが小鍋を見ている。


 店主が器を並べている。


 手伝いが水を運んでいる。


 セオが戸口で、次の旅人の数を見ている。


 グラントは何も言わなかった。


 謝りもしない。


 褒めもしない。


 ただ、空になった皿を店主に返した。


「もう1皿、薄焼きの方で頼む」


 店主が目を丸くした。


 ロアンは鍋の底を混ぜ返した。


 夜が近づくころ、宿場の外に小さな木札が出された。


 誰が書いたのか、字は少し曲がっていた。


 キャレイあり。


 それだけだった。


 ロアンは戸口からその札を見た。


「字が下手だな」


 セオが横で言った。


「読めれば十分です」


 ロアンは返さなかった。


 先の宿場の方にも、小さな火が入っているはずだった。


 ミロは厨房で鍋を見ている。


 店主は客に、飯か薄焼きかを聞いている。


 南方の旅人は、いつの間にか席を立っていた。


 残した言葉だけが、宿場の中に残っている。


 名前は、ロアンの手元を離れ始めていた。


 だが、奪われたわけではなかった。


 夜、旅人が宿場を出ていった。


 そのうちの1人が、後から来た旅人に言った。


「旧道を行くなら、キャレイを食っていけ」


「何だ、それは」


「腹が温まる。もう少し歩ける」


 ロアンは戸口の内側で、その声を聞いていた。


 何も言わなかった。


 ただ、炉の前へ戻った。


 鍋の中で、豆がゆっくり沈んでいる。


 香辛料の匂いは、強すぎない。


 薄すぎもしない。


 ロアンは何も言わず、鍋の底から、くすんだ黄金色をゆっくり混ぜ返した。


◆◆◆(第11話 キャレイ)◆◆◆

ここまでお読みいただきありがとうございます。


第11話でした。


名前のなかった煮込みに、「キャレイ」という呼び名が生まれました。


ただし、それはロアンが名付けたものではありません。


旅人が呼び、客が使い、旧街道の中で少しずつ広がっていく名前です。


次回、最終話です。

旧街道に何が残ったのかを描きます。

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